蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

聖前夜 3

中編

ペンを手にしたまま、クレフは顔を上げた。プレセアが、呆れたように苦笑した。

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 ふと扉の向こうに人の気配を感じて、クレフは頬杖をついていた腕から顔を上げた。そうしてみて、驚いた。いつの間にか部屋の中が真っ暗になっていて、外から入り込む月明かりが明るく感じられるようになっていたのだった。いったいいつ、夜の帳は下りたのだろう。何気なく目の前の机に目を向けて、クレフは思わず苦笑した。まっさらな藁半紙の上に投げ出された羽根ペンのインクがすっかり乾いていた。そのペンを持ち上げてインク壺に浸すと、クレフは扉へ向かってすっと手を翳した。

 どうしてこんな時間に起こすのよ。そんな文句を言っているかのように、扉が不恰好な音を立てながら観音開きに開かれていく。完全に開かれる前にクレフはさっと空中を払う仕草をした。その動きを受け、部屋の中にいくつか明かりが燈されていく。部屋の中は格段に明るくなったが、それでもその明るさは、闇を邪魔しない程度のほんのりとしたものであった。やがて、扉の向こうに人のシルエットが浮かび上がる。気配で感じたとおりの人がそこにいて、クレフはすっと目を細めた。
「……プレセア」

 昼間はともかく、こんな時間にクレフの自室を訪れる人など限られている。特にここ最近では、そもそもクレフを求めてやってくる絶対数が減っていた。以前は職種を問わずあらゆる立場の者がやってきて、時には愚痴を溢し、時には不安を打ち明けていたものだった。それがいつの間にか、ごくごく自然な流れで減り出した。そして今ではほとんど訪れる者がいないほどになった。セフィーロが平穏を取り戻しつつある証拠だった。そんなさなかの、突然の来訪者。クレフはわずかでありながらも驚きを覚えた。だが、取り立てて追い返すようなことでもなかった。相手がプレセアなら、なおさらだった。

「突然すみません」とプレセアは言った。「今、少しよろしいですか?」
 彼女は扉の外に立ったままだった。プレセアはいつもそうだ。自分の立場をわきまえているというかなんというか、こちらが許可するまで、彼女は決して傍に近寄ってこようとしない。どれほど親しくなろうとも、礼儀を忘れないのがプレセアだった。もっとも、緊急事態ともなれば話は別だが。
「ああ、構わない」と答え、クレフは微笑んだ。
 遠慮がちにプレセアが部屋の中へ入ってくる。最初は平気だった。彼女が近づいてくるのを黙って待っていることができた。ところがあるときから突然、まっすぐにこちらへ向けられる彼女の視線がどうしようもなく後ろめたくなった。彼女は視線をまったく逸らさなかった。クレフは机の上の藁半紙に目を落とした。そして反射的に羽根ペンを手に取り、余分なインクを壺の縁でしごいた。しかし書くことなど何も思い浮かばなかった。

 近づいてきた足音が机の向こう側で止まった。プレセアの体で、机の端に影ができた。もっと明かりを抑えておくべきだったと、いまさらながら後悔した。
「どうした、プレセア。珍しいな、こんな時間に」
 それでも、なんとか平時を装ってそう声を掛けた。顔を上げられなかった。すると、プレセアが小さくため息をつくのが聞こえた。
「『野暮用』は、終わりましたか?」とプレセアは言った。
 走らせようとしたペンは、空中で急ブレーキを掛けさせられた。おかげで藁半紙にインクがぽたりと落ち、不自然な染みを作った。まっさらな紙だったのに、もう使えない。もったいないことをした。クレフは頭の片隅でそんなことを考えた。

 ペンを手にしたまま、クレフは顔を上げた。プレセアが、呆れたように苦笑した。
「終わった」とたった一言、言えばよかったのだ。わかっていたのに、クレフは答えを返すことができなかった。ただ、ふっと口元を緩め、自嘲気味な笑みを溢すだけだった。ほとほと投げやりな気分だった。羽根ペンを壺に戻すと、背もたれに深く身を沈めた。

 椅子を引き、その向きを斜め左前へと変えた。そういえば、プレセアがこの部屋へやってくる前もこの角度になっていた。視線の先に格子窓があり、その向こう側には漆黒の闇が広がっている。星明かりに照らされて、夜露に濡れた草木が妖しい光を放っていた。
「クレフ」
 静かな声に呼ばれ、クレフは口も開かずにぼやけた返事をした。
 プレセアは一瞬沈黙した。その沈黙をどう捉えるべきか、クレフは考えようとした。ところがクレフが答えを出す前に、プレセアが口を開いた。
「私があなたをお慕いしていると言ったら、どうしますか?」
 彼女はそう言った。

 寝ぼけた頭を殴られたような衝撃があった。クレフは何度も瞬きをした。プレセアの言ったことが、すぐには言葉として理解できなかった。何度目かの瞬きによって、クレフはようやくその意味を飲み込んだ。飲み込んだその瞬間、クレフはその場で立ち上がった。椅子が大きな音を立てた。
「それはほんとうか」とクレフは言った。
「えっ?」とプレセアが目を見開いた。
 気圧されたように一歩身じろぎした、その揺らぐ瞳を見た瞬間のことだった。クレフは己の浅はかさを知った。知り、そして呪った。
 口をついて出てしまった言葉に、心の中で舌打ちをした。私はいったい、今なんと言った?
 一度深呼吸をし、クレフは頭を抱えるようにしながら椅子にゆっくりと座りなおした。ふざけている。言葉には一際慎重にならなければいけないことを、誰よりもわかっているであろうに。
「いや」とクレフはかぶりを振った。「今のは、忘れてくれ」
 そう言うので精一杯だった。

 過去に戻って自分の発言を訂正したくなるのは、もう思い出せないほど久しぶりのことだった。「それはほんとうか」と。言葉としては、それは確かに取るに足らないものだったかもしれない。だが、その裏にはまったく別の意図が隠されていた。まるで自分が自分でないようだった。そのとき、確かにクレフは考えていた。もしもそれがほんとうなら、あるいは海に対して言えるのではないか。「私にはプレセアがいる。だから諦めてくれ」と。
 自分でも信じられなかった。どうしてそんなことを考えたのだろう。

 クレフは額のサークレットに手を当てたままため息をついた。まったく、人の気持ちをなんだと思っているのか。避けられない少女の心を遮るために、プレセアの好意を利用しようとした。こんなことは、馬鹿げている。およそ、人として考えるべきことではない。
「導師クレフ」
 呼ばれて、クレフははっとした。そして姿勢はそのままに顔を上げた。すると目の前にはプレセアがいた。そのことを今一瞬、失念していた。
 呆れて物も言えなかった。クレフは思わず苦笑した。確かに、およそ人として考えるべきことではない。だがそれ以上に、私は『導師』だ。人を導かなければならない立場にありながら、このようなことを考えていてはいけない。そのことを、私は誰よりもわかっていたのではなかったか。いや、わかっていなければならないのではないか。
 認めざるを得なかった。まったくもって、余裕がない。

 心を落ち着かせるため、一度深呼吸をした。そうすると、幾何かではあるが気持ちは確かに落ち着いた。顔を上げると、プレセアが、呆れたように笑っていた。
「あなたらしくありませんわ」とプレセアは言った。子どもを諭すような言い方だった。「何をそんなに、恐れておいでなのです?」
 クレフは視線を落とし、自らの手元を見つめた。頼りないほど小さな手だった。しかしこの小さな手でたくさんの教え子を育て、たくさんの哀しみを包み、たくさんの喜びを受け入れてきた。可能な範囲では、できうる限りどんなことでもこの手で受け止めようと努めてきたつもりだった。小さいなら小さいだけ、大人では届かないところにも届くだろう。そしてそれを実践してきたという自負もある。それなのに、その小さな手が今、ひとりの少女を、ひとりの少女の純粋な心を受け入れることを拒んでいる。


 あの屈託のない笑顔が脳裏を過った。彼女はいつも、「邪気」という言葉さえ知らないかのように笑う。花が咲くようなその笑顔に、どれほど癒されてきたか知れない。だが同時に、その笑顔は眩しすぎた。時には太陽よりも眩しかった。そしてその明かりは、ひた隠していた醜い感情を遠慮なく炙り出してしまうのだった。心の奥深くにしまい込んでいたつもりだったのに、彼女の笑顔に触れると、それを知られてしまうような気がして身が竦んだ。

 海が向けてくれる気持ちに、下心などまったくない。当たり前だ。彼女は純粋の塊も同然だった。いかなる穢れも知らず、いかなる欲望も持たない。だから、誰かを恋い慕うことを純粋に楽しむことができる。純粋に楽しみ、堂々と相手にぶつけることができる。だが、私はそうはできない。純粋なままで彼女に接することなどできなかった。この気持ちを一度認めてしまえば、あとは大きなっていくしかなかった。想いを通じ合わせるだけでは満足できず、やがて彼女に触れたいと思うだろう。触れるだけでは不安になり、やがてすべてが欲しいと思うだろう。そのときに、彼女を傷つけない自信がなかった。何よりも護りたいはずなのに、それを傷つけてしまうかもしれないということが怖かった。

「あの『けーき』は、ウミがひとりで食べてしまいましたよ」
 不意にプレセアが言った。その語尾が震えていたので、クレフは驚いて顔を上げた。しかしそのとき、プレセアはすでに深くこうべを垂れていて、こちらから表情を窺うことはできなかった。そしてそのまま、目も合わせずにくるりと踵を返して傍を去っていってしまった。
 何か声を掛けるべきだだろうか。悩んでいるうちに、プレセアはどんどん遠ざかっていく。結局、この場に相応しい言葉を見つけることはできなかった。そのままただ黙って見送るクレフに、プレセアは扉の前でもう一度軽い会釈をして、静かに部屋を出ていった。
 一人残された部屋は、ずいぶんと広く、そして淋しく感じられた。

「何をそんなに、恐れておいでなのです?」
 言われたばかりのプレセアの言葉が、耳の奥にはっきりと残っていた。恐れている。確かに、私は恐れている。だがその恐れはどうしようもなかった。どうしようもなかったし、どうにもしたくなかった。
 己の幸せなどいらない。皆が幸せであれば、それでいい。ただ平穏に世の中が回っていくことが、私の『願い』だ。刺激など必要ない。季節が変わる程度のささやかな変化があれば、それだけでじゅうぶんだ。
 クレフは目を閉じた。できることならそのまま、瞼の裏の闇に囚われてしまいたかった。




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ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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