蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

聖前夜 5

中編

うまく微笑むことができていると、自分自身に言い聞かせていた。この場に鏡がなくてほんとうによかった。

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 これほど長い時間海と手を繋いでいたことなどなかった。だから、彼女の手が自分のそれよりも大きくて、それでいて繊細だということも、このとき初めて知ったのだった。いつも見ていたはずなのに、まるで知らない人の手のようだった。二年前、『柱』を巡る戦いの最中に触れた手はもっと小さくて、か弱かった気がするのに。
 もう子どもではないのだ。たった二年で彼女はぐっと成長し、大人びた。
 屈辱感があった。海の手を「大きい」と感じるということは、自らの手がいかに小さいかということの裏返しでもあった。もう離してもいいのだろうが、どうしてもそうすることはできなかった。今海の手を離してしまえば、あり得ないことではあるのだが、彼女があの男のもとへと戻っていってしまうような気がした。

「ク……クレフ」
 途中、海は何度かそうして話し掛けてこようとした。おそらくそのうちの半分ほどはクレフの耳に届いていたが、クレフはあえて、すべてに対して聞こえないふりをした。そうしていると、やがて海も観念したようで、何も言わなくなった。無言の二人を、規則正しい足音だけが包んでいた。そのまま、海のために宛がった部屋まで迷うことなくやってくると、クレフは杖を翳して扉を開けた。そしてその中に海を、ほとんど放るようにして押し込んだ。

「えっ、あ、あの……」
 部屋へ入った――というより、入れられた――海は、「困惑しています」と顔全体に書き殴ってそこに立ち尽くしていた。部屋の中は暗かった。誰もいないようだった。そのことに気づいたとき、クレフは心の中でほっと息をついた。この部屋を使っている(ことになっている)のは海だけではなかったということに、そのとき初めて思いが至ったのだった。
 あとの二人が部屋の中にいたとしたら、突然のクレフの来訪は、大いに訝しがられたことだろう。時刻は文字どおりの深夜だ。こんな時間に女性の部屋を訪れることが好ましくないことは、クレフだってわかっている。不幸中の幸いというべきか、本来この部屋を使っているはずの娘らは今、二人ともいなかった。


 沈黙が訪れようとしていた。クレフは咄嗟に、ここは沈黙が流れていい場面ではないと感じ、わざときつい顔をして、入り口を挟んで向かい側に立っている海を睨み上げた。
「いったい何をしていたのだ。あのようなところで、このような遅い時間に」
 海は明らかにそうとわかるほどたじろいだ。だが、たじろぐだけで終わらないのが海だった。彼女はすっと背筋を伸ばすと、こちらに負けじと眉を吊り上げた。
「なんだっていいじゃない」と海は言い放った。「別に、夜に出歩いちゃいけないなんて言われてないし」
「わざわざ言わなければわからないのか? 当たり前のことだろう」
 クレフは少し声を荒げた。
「それとも、なんだ。『異世界』では、深夜におまえくらいの年頃の娘がひとりで出歩いていても、何の問題もないのか?」
「……それは、そんなことないけど……」
 海はクレフから視線を外し、言いよどんだ。
「でも」
「口答えばかりするな」とクレフは、身を乗り出してきた海を制した。「私はただ、『夜中に一人で外を歩き回るな』と言っているだけではないか。何か問題でもあるのか? 現におまえは、見ず知らずの男に襲われかけていたのだぞ? 私がたまたま通りかかったから事なきを得たものの、あの男と二人きりであれば、今ごろどうなっていたか」
「誰も、助けてくれなんて頼んでないわよ! あなたが来なかったら来なかったで、自力でもなんとかできたわ!」
「そうやって、人の好意を無下にするというのか?」
「なにが『好意』よ?! 明らかに怒ってるじゃない! そんなに怒るなら、どうして助けたりしたの?!」
「それはおまえのことが――」
 そこでクレフははっと口を噤んだ。

 突然言葉を失ったことを訝しんで、海が首を傾げた。薄水色の髪がさらりと揺れ、綺麗な弧を描いた。
「私が、なによ」
 眉間にはまだ皺が寄っていたが、彼女の口調から、先ほどまでの憤りは感じられなかった。クレフは海から視線を外した。さらには彼女に背を向け、そのまま去っていこうとした。
「ちょ……ちょっと、クレフ?! まだ話が――」
「もういいだろう」とクレフは海を遮った。「おまえと言い争いがしたかったわけではない」
 海がはっと息を呑んだのが、気配で伝わってきた。クレフは後ろを振り返ったが、顔を上げることはできなかった。
「疲れただろう。もう何も考えずに、ゆっくり休め」
 うまく微笑むことができていると、自分自身に言い聞かせていた。この場に鏡がなくてほんとうによかった。クレフは海の答えも聞かずに歩き出した。そもそも彼女はそれ以降何も口にしなかった。回廊を曲がるまで、背中に彼女の視線を感じていた。それを跳ね返して、クレフはひとり、自室へ戻った。


 部屋に着くと、崩れるようにしてすぐ傍にあったソファへと倒れ込んだ。杖を捨て、自由になった腕で両方の瞼を覆った。湿りきって、ただでさえ重いため息がますます重くなった。
 負担の大きい魔法を使ったわけでも、体力的な無理をしたわけでもない。にも拘らず、強い疲労感が全身を気だるくさせていた。このような疲労を、クレフはこれまで感じたことはなかった。たとえば栄養のあるものを食べれば回復するわけでも、じゅうぶんな睡眠を確保すればいいというわけでもなさそうだった。どのようにすれば取り除けるのか、クレフはまったくわからなかった。

「何をそんなに、恐れておいでなのです?」
「お前、それでその子護ってるつもりなんか?」
 プレセアと、そしてチゼータの男に言われた二つの言葉が今、クレフの上に重くのしかかっていた。まったく、情けない。導師ともあろう者が、これほどくだらないことについてこれほど真剣に悩むとは。悩まなければならないことは、ほかにもっとたくさんある。新しい理のもとでセフィーロが再スタートをきってもう二年が過ぎたが、まだまだ道半ばだ。他国との交渉、国内における制度整備などなど、やらなければならないことは、数え始めればきりがない。それなのに、今のクレフには、それらのことを考えられるような余裕はなかった。

 父は悩まなかったのだろうか。ふとクレフは思った。彼は、初めからあのように強い人だったのだろうか。
 生まれた瞬間から強い人間などいない。わかっていても、父に関しては、あの人が弱気になっている場面など想像することもできなかった。彼が存命であれば助言を乞うこともできただろうに、そんなことはもちろん不可能だった。これはクレフが、クレフ自身の手でどうにかしなければいけない問題だった。

「それはおまえのことが――」
 売り言葉に買い言葉のような言い合いの最後、クレフは口走った。無意識のうちに出た言葉だった。途中で気づき、最後まで言い放つことはなかったが、あれは失言だった。言うつもりのない言葉だった。そして、その言葉が今にも口を滑りかけたことで、クレフは思い知らされた。ずっと否定し続けてきた想いが、もう否定できないほど大きくなっていることを。

 しかし、その想いを口にすることなどできるはずもなかった。ろくに彼女を護ってやることもできないのだから。チゼータの男と対峙したときも、結局は彼女を引き連れ、早足で逃げることだけで精いっぱいだった。たとえば魔法を使ったなら、優位に立つことも簡単にできただろう。だが逆に言えば、魔法がなければ一人の男と対峙することもできないのだ。無力だった。一対一で男と向き合ったとして、勝てる可能性はゼロに等しかった。

 クレフは瞼に乗せていた腕を取り、掌を広げてそれを間近に見つめた。これまでは当たり前すぎて考えたこともなかったが、こうして見るとほんとうに小さい手だった。片手で包み込めるのは、せいぜいカナリヤの雛くらいのものだろう。それ以上大きいものになれば、逆にこちらの手が包まれてしまう。
 この手では、護りたいものを護ることができないかもしれない。
 厭だと思った。心だけではなく体でも、見える形で、護りたいものを護れるようになりたい。心から強くそう思った。そんなことを思ったのは、700年を優に超える人生の中でも初めてのことだった。

 父はどうしていたのだろう。彼はどうやって、護りたいものを、母のみならず子であるクレフまでをも護っていたのだろう。ふとそんなことを考えたクレフだったが、ん、と何度か瞬きをした。それは父に聞かずとも簡単にわかることではないか。父とクレフの絶対的な違いといえば、
 ――そこまで考えたとき、クレフは突然、部屋の扉の外に人の気配を感じた。すべての思考を振り払い、その場で飛び起きた。穴が開くほど扉を見つめていると、ほんとうに穴が開いたように、その奥にいる人の姿がぼんやりと脳裏に浮かんだ。彼女は今まさに扉をノックしようとしていた。咄嗟に、なぜかクレフは「やめろ」と言おうとした。だがその言葉が口から出てくるよりも前に、扉は二度、控えめにノックされた。


 クレフは中途半端に腰を浮かせた体勢のまま硬直してしまった。どうするべきなのか判断できなかった。理性はどこへいったのか、それを探すのでまずはとても大変だった。そしてそれが見つからないうちに、扉の外から声が聞こえた。
「クレフ、いる?」と、彼女は言った。当たり前だが、それはやはり彼女の、海の声だった。クレフは一度深呼吸をした。そして音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、とりあえず、そのまま静止した。

「もう寝ちゃったのかしら」
 独り言を言っているような言い方だった。それからしばらく、扉の外から声は聞こえなくなった。それでも気配はまだそこにあった。何かを迷っているような気配だった。クレフは小さな声で呪文を唱え、自らの体を浮かせた。音を立てることなく扉の内側まで辿り着くことに成功した。クレフはしかし、扉を開けようとはしなかった。じっと息を殺していると、扉の向こうの気配が微かに動いた。
「寝てるなら、かえって都合がいいかも」と彼女は言った。扉に凭れ掛かったようだった。「これから言うのは全部ひとりごとだから、気にしないでね」
 クレフは思わずピンと背筋を伸ばした。それからは、体がセメントで固められてしまったように動かなかった。姿は見えないのに、声や息遣いが聞こえるということが、逆に海の存在を際立たせた。クレフはそっと目を閉じた。

「さっきはごめんなさい」と、彼女はまず言った。「あんな言い方するつもり、なかったの。でも、あなたがなんだか怒ってるみたいだったから、つい、強がっちゃって。知ってると思うけど、私、あまのじゃくなところがあるから、思ってることと反対のことを言っちゃうことが、結構あるの。だからさっきも、ほんとうは、『助けてくれてありがとう』って言おうとしてたのよ。結局、タイミング逃しちゃったけど。
 でも、部屋で一人になって、私、反省したわ。あなたが怒るのも無理ないわよね。確かに、夜中にひとりで外を出歩くのは危険だし、非常識だわ。あなたは別に意地悪を言ったわけじゃなくて、私のことを思って言ってくれていただけだったのよね。それに、あなたの言うとおり、助けに来てくれなかったら、あの後どうなっていたかわからないもの。だから、ごめんなさい。それから……ありがとう」
 噛みしめるように、海は言った。

 そのときクレフには、海が微笑んでいるのが確かに見えた。このまま手を伸ばせば彼女に届くのではないかと思えた。実際に手を伸ばしてみたが、しかしそれは、目の前に聳える分厚く高い扉に触れるだけだった。
「ねえ、クレフ」
 海が突然沈黙を破ったので、飛び上がらんばかりに驚いた。それでもなんとか、体をぴくりと震わせるだけに留めることができたのは、やはり年の功か。
「もしもね、もしもよ? 今、私の話を聴いてくれているんだとしたら、明日、見送りに来てくれる?」
 クレフは当然答えなかった。いかなる音を立てることもしなかった。海は何らかの反応が返ってくることを期待していたのだろうが、やがてそれは叶わないらしいと悟ったようだった。静かに扉から離れ、去っていった。規則正しい足取りは、とてもゆったりとしていた。その音はまるで子守唄のように耳に心地よかった。聞こえなくなるまで、クレフはその場から一歩も動かなかった。


 やがて、海が完全に離れていったことを『気配』から知ると、クレフは顔を上げた。くるりと踵を返し、まっすぐに部屋の奥へと向かって歩き出した。足取りに迷いはなかった。先ほどはだらしなく身を投げていたソファを素通りし、数刻前にプレセアと対峙した机も通り過ぎ、壁際に張り巡らされた本棚へと向かう。一度、ずらりと並んだ本を見渡して息をついた。そして一冊の本を、迷うことなく取り出した。クレフの顔幅ほどの厚さがあろうかというその本は、片手ではとても持てないほど重かった。その本を手に、クレフは机に掛けた。杖を傍に寄り掛からせると、ランプに明かりを入れ、本をめくった。それは、存在こそ知っていながら、一度もめくったことのない本だった。

 心が、圧倒的に強い想いで押し潰されそうだった。クレフは一ページだけめくった本はそのままに、一度深く息をついて背もたれに身を沈めた。そのまま視線を天井へと向けると、天窓から輝く星空が見えた。小さなその天窓を、流れ星がひとつ横切っていった。
「とにかく、ウミはだめだ!」
 それはほんの少し前、ほかでもないクレフ自身が言い放った言葉だった。思い出して、クレフは思わず失笑した。
「まったく」と呟き、額を叩いた。
 人は、余裕を失ったときにこそ本性が出る。あのときクレフは、ぬけぬけと生意気なことばかり口にする男を前にして余裕を失っていた。何よりも、海をこのままこの男の好きにされたくないという気持ちが強かった。そんな中で飛び出した、あの言葉。きっとあれが、私の本心だった。私は、とにかく、海のことを誰にも渡したくない。
 ようやく認めることができた。ずいぶんと長い時間がかかったものだ。


 世界の差や年の差といった、わかりやすい物差しを使って、海が向けてくれる気持ちは、そして何よりも自分自身が彼女に対して抱いている気持ちは「あり得ない」ものだと決めつけていた。それが逆に、彼女への想いを募らせる一因になっているとも気づかずに。もうとっくに、後戻りなどできないほど彼女の存在がなくてはならないものになっていたことにも気づかずに。

 長く生きすぎたのかもしれない。いまさらどうして、という思いを捨てきれなかった。負い目があったのだろう。海はまだまだ若く、誰よりも綺麗な心を持っている。片や自分はといえば、もう700を優に超えるほどの時を過ごし、綺麗な心など、それと気づかぬうちにどこかに置き忘れてきてしまった。そんな私と彼女とでは、とてもじゃないが釣り合わない。心の中でそう自らに言い聞かせ、ブレーキを掛けていた。逃げていた。彼女が向けてくれる気持ちからでも、これから先に待っているかもしれない未来からでもなく、自分自身の気持ちから。海を想う気持ちから、逃げていた。そんなことはあり得ない、あってはいけないと、ずっと気持ちに蓋をしてきた。

 素直に謝罪の言葉を述べにきてくれた海の方が、よほど大人だと思った。自らの気持ちに背を向け、殻の中に閉じこもろうとしていたクレフとは大違いだ。彼女の素直な気持ちが、クレフの凝り固まっていた心を融かした。そして、いつまでも逃げている自分自身を、クレフは恥じた。もう逃げるのはやめよう。導師であることを言い訳にするのはやめよう。
 一度そう決めると、あとはもうその気持ちに向かって突き進んでいくだけだった。逃げるのをやめると、自分が何をすべきなのか、何をしたいと思っているのか、不気味なほどはっきりとよくわかった。そしてそれは、努力次第できっと手に入れられるものだった。

 クレフは机の上の本に目を向けた。うんざりするほど分厚かった。
「すまない、ウミ」とクレフは呟いた。明日の見送りには行けないかもしれない。いや、十中八九行けないだろう。それでも今のクレフには、自分の気持ちに正直になってどうしてもやりたいことがあった。一週間後の、くり……なんとかというイベントに備えるために。海と正面から向かい合ったときに、正直な気持ちを打ち明けるために。
 背もたれから体を起こし、クレフは本を手に取った。クレフでさえも見たことがないような古い魔法ばかりが並んでいた。腐っても魔導師なのだろう、そういった文字の羅列を見ると、心が生き生きとしてくるのだった。クレフはぐっと身を乗り出し、食い入るように文字を追いかけた。

 扉の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。それは燃え滾る心を冷ますのにちょうどよかった。「冬」という季節も、ひょっとしたらさほど悪いものではないかもしれない。そんなことを思ったのは、これが初めてのことだった。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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