蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

韜晦 2. 接近

中編

人が一番わからないのは自分自身の心のことだと、前に誰かが言っていた。あれは、誰が言った言葉だっただろうか。

本文は「続きを読む」からどうぞ。





 私を抱いた腕は、涙が出そうなほどに優しく、力強かった。この腕を失いさえしなければ、私は生きていける。そう思えるほどの絶対的な安心感が、そこにはあった。
 顔を上げた私の目にまず飛び込んできたのは、木漏れ日の光を反射する薄紫色の細い髪だった。その少し上で、厳つい杖が大きな宝玉に鋭い光を宿しているのも見えた。
 その杖を操る人を、私はよく知っていた。知っていたからこそ、驚いて目を見開いた。信じられなかった。ほんとうに、彼が私を助けてくれたのだろうか。でもどうして、こんなところに。

「グ……導師クレフ!」
 怯えて裏返った男の声が、彼の名を呼んだ。その声にはっとして振り返ると、先ほどまで私を拘束していた男たちが、あの威勢のよさを完全に失い、路頭に迷った子どものような表情を浮かべていた。それもそのはずだった。今は逆に、彼らの方が拘束される立場にあった。男たちの体は三人まとめて細いロープで縛りあげられていた。そのロープの端と端は、それぞれ別の太い木の幹に括られ、男たちが身動きを取るのはもはや不可能と言ってよかった。

「じきに城の兵がやってくる」
 クレフが言った。
「それまで大人しくしていろ。もっとも、動きたくとも動けはしないだろうがな」
 静かで、それでいて鋭い言い方だった。男たちがひっと息を呑んだ。軽蔑するような目で彼らを一瞥したクレフは、すぐに視線を外してさっと杖を振るった。すると、その動きに呼応するように私の目の前でつむじ風が巻き起こった。杖から発せられた光が、そこに集まっていく。やがて、何もなかったその場所に、天馬の姿が模られた。はっきりとした姿を現したそれは、思わず見惚れるほど美しい馬だった。純白の毛並みは豊かで揺るぎなく、瞳の色は主人と同じ、物事を深く見透かす蒼色だった。

 ふわりと体が浮き上がる感覚があったかと思うと、次の瞬間、私の体は天馬の上にあった。腰からクレフの手が離れていくのを見て初めて、彼が抱き上げてくれたのだと知った。
 クレフは一度私から視線を外し、そしてもう一度見上げてきた。それから申し訳なさそうに苦笑した。
「使い物にならなくなってしまったな」
 突然言われて、私はきょとんとした。クレフはそれ以上は何も言わず、黙ってその場でしゃがみ込むと、何かを拾い上げ、私にそれを差し出した。それはほとんど中身の入っていないバスケットだった。バスケットを受け取り、彼の言った言葉の意味を悟った私は、ああ、とため息のような声を出した。
「いいのよ。今夜は別のメニューを考えるわ」
 そういえば、今夜はカレーを作ろうとしていたのだった。いまさらのように思い出した。
 直前まで、このバスケットを落としたことすら忘れていた。街で買い物をしていたことだって、つい先ほどのことなのに、まるでもう何時間も前のことのような気がした。

 野菜などまた買えばいいのだから、ほんとうにたいした問題ではない。うっすらとながら私は笑みを浮かべたのだが、それに対して、クレフの表情はいつまでも冴えないままだった。「ほんとうに、だいじょうぶよ」と言おうとした私だったが、それを遮るかのように、クレフが絶妙なタイミングですっと手を伸ばしてきた。
 われ知らずぴくりと体が震えた。先ほど、今は紐で括られている男に、顎から鎖骨にかけてを触れられたときの感触が蘇ったためだった。

 気まずかった。条件反射的な反応とはいえ、クレフが気をよくするはずはない。ところがクレフは、何も見なかったかのように自然と私の膝に触れた。
 私の震えに気がつかなかったはずはない彼がそうした理由は、ひとつしか考えられない。私のために、知らないふりをしようとしてくれているのだ。そうとわかると、胸がじんと熱くなった。
 クレフの手は、当たり前だが男のそれとはまったく違った触れ方をした。労わるようなその手から、やがて、ぽう、と光が発せられる。その光は確かな温もりとなり、膝から全身へと伝わった。まるで彼の優しさそのものが、心の奥まで沁みてくるようだった。

 光が消えると同時に、クレフが私の膝から手を離した。何気なく視線を落とした私は、膝だけではなく、掌など、全身に細かくできていた切り傷がすっかり消えていることに気づいた。目を丸くしてクレフを見た。彼はまだ心配そうな顔をしていたが、私にはもう、心配するようなことは何もなかった。
「ありがとう」
 その一言に、私はたくさんの意味を込めた。今にも涙が出そうになったが、なんとか堪えて笑みを浮かべた。するとクレフが、ようやく笑顔を見せてくれた。それだけで何もいらないと思った。彼の笑顔は、私の心の傷までも癒した。

 クレフが天馬の首筋に手を当て、何かを囁いた。応えるように、天馬がかすかに喉を鳴らした。それを確かめてから、クレフは私の後ろに軽やかに乗り上がってきた。横向きに座った私の背を支えるようにして、彼は杖を持たない方の手で手綱を握った。
 触れたクレフのローブから、何種類もの薬草が混ざり合ったような香りがふわりと漂ってきた。それは一瞬、私の心の中に、一種の懐かしさにも似た感情を浮かび上がらせた。けれどその正体を完全に手にすることはできなかった。掴みかけていたのに、それはすぐに消えてしまった。

「処罰は追って知らせる」
 クレフが言った。
「厳罰を覚悟しておけ。セフィーロの平穏を乱した罪は重い」
 とても冷たい言い方だった。私に向けられたものではないと知りながら、それでも私の背筋はしゃきんと伸びた。肝心のその言葉を向けられた男たちの顔は、もはや完全に蒼白していた。
 すると遠く城の方向から、一頭や二頭ではない、複数の馬の蹄の音が聞こえてきた。独特のそのリズムは、セフィーロを守護する親衛隊のものであるとすぐにわかった。その音が聞こえるやいなや、クレフが軽く手綱を引き、天馬の向きを変えた。

「お……お待ちください、導師!」
 そのままクレフが去っていこうとしたのを、男の声が留めた。
「誤解なのです。われわれは決して、平穏を乱そうなどとは――」
「くどいぞ」
 それまでとは比べ物にならないほど低い声がクレフから放たれ、男たちに降りかかった。その場の空気が一気に凍りついた。その姿を現したときからクレフを取り巻くオーラはぴりぴりしていたが、今やその緊張感は最高潮に達していた。
「命があるだけ、ありがたいと思え」とクレフは吐き捨てるように言った。「あれ以上、この娘に触れていたら……」
 杖を握ったクレフの手に、白く筋が浮かんだ。ちょうど私の目線と同じ高さにあったので、よく見えた。
「今ごろお前たちは、わが手に掛かり滅していたであろう」
 それを免れただけでもよしとすることだ。そう続けて、クレフは短く息をついた。これで終わりだ、と言うかのようなしぐさだった。

 どくどくと何かが速く脈打つような音がしていた。それが自分自身の心臓の鼓動であるということに、私はなかなか気づかなかった。ようやく気づいたとき、私は思わずクレフを見上げていた。
 整った顔立ちの中にあって、その蒼い瞳が、唯一無二の輝きを放っている。それはよく知っている「クレフ」その人に違いないのに、まるで見知らぬ人のようだった。彼はこんなにも「男」であっただろうか。
 もちろん、性別で女性か男性かといえば、それはもちろん、クレフは男性だ。しかしそういうことではなくて、もっと生々しい、「男」としての匂いのようなものを感じた。それは私には絶対にないもので、クレフからでも、そんなものを感じたのはこれが初めてのことだった。そしてそのことが、私の鼓動を速くしていた。

 クレフがもう一度手綱を引く。今度こそ天馬が静かに駆け出した。規則正しく軽やかな蹄の音を止めるものはもう、何もない。
 べつに見られているわけでもないのに、私はクレフから顔を逸らすようにして進行方向を向いた。うるさすぎるほどのこの鼓動がすぐ後ろにいるクレフに聞こえてしまわないか、それだけが気がかりだった。


「導師クレフ!」
 しばらく進むと、正面からクレフを呼ぶ声がした。顔を上げると、鎧に身を包んだ人々が土埃を上げながらやってくるのが見えた。一目で、それが親衛隊の隊列だとわかった。クレフの天馬の毛並みが純白であるのに対し、彼らが駆っている馬の毛は茶褐色だった。蹄の音が近づいてくると、地響きのように地面が揺れた。

 集団の先頭にいた男性は、私もよく知る人物だった。彼は傍まで来ると馬を止め、位の高い者に対する敬礼を示した。彼に倣い、後ろについてきた他の兵も同様の動きをみせた。クレフの天馬もまた、止まった。
「ラファーガ」
 クレフが先頭の男の名を呼んだ。呼びかけに応えるように男は顔を上げたが、すぐに沈痛な面持ちとなってすっと目を伏せた。
「申し訳ありません、導師クレフ」と彼は唇をかみしめながら言った。「あなた様の御手を煩わせるなど、衛兵として何たる失態」
 そんなラファーガとは対照的に、クレフを包む気配が柔らかくなったのを、私は背中で感じた。
「よい」とクレフは朗らかな声で言った。「気に病むな」
 クレフの言う「よい」は、「そんなことはどうでもよい」という意味合いを含んだ言い方だった。彼は昔からそういう人だ。クレフの立場を鑑みれば、ラファーガの言うとおり、彼の手を煩わせることは親衛隊にとっては「失態」に当たる。それでもクレフは、彼の言葉を借りれば「そんなことで」人々を咎めたりはしなかった。この国最高位の魔導師として、人々から尊敬の念を集めてやまないというのに、クレフは決してそれを鼻に掛けたりはしない。そしてそういったところこそが、クレフをクレフたらしめているゆえんだった。

「括ったまま、城へ連れ帰れ。後のことはおまえに任せる」
 クレフが手短に言った。
「仰せのままに、導師」とラファーガがこうべを垂れた。
 その答えを聞くや、クレフは手綱を引き、天馬を進ませた。すれ違いざまにはすべての兵がことごとく頭を下げてきた。それはもちろんクレフに対するしぐさであって、間違っても私に対するものではない。そうとわかっていながらも、私はなんとなく気恥ずかしかった。とりあえず軽く頭を下げながら、その集団をやり過ごした。彼らの目に、私たちはどう映っているのだろう。そんなことを考えそうになって、私は慌てて思考を振り払った。


 それから森を抜けるまで、馬上に会話は生まれなかった。
 助けてくれてありがとう。せめてその一言だけは言いたいのに、鼓動が邪魔をして言葉を発せられなかった。口を開けば何か思ってもいないようなことを口走ってしまいそうで、怖かった。
「気分でも優れないのか」
 思いがけず、クレフが沈黙を破った。私は思わず「えっ」と素っ頓狂な声を出し、彼を見上げた。クレフは前を向いたまま、その引き締まった表情を崩さない。ポーカーフェイスとは彼のためにあるような言葉だと思った。
「顔が紅い」
 そのポーカーフェイスのクレフが、こちらと目を合わせることもしないままに言い放った。

 まるでオブラートに包む素振りすら見せない、その言い回し。昔からちっとも変わらない。その態度は、いつも私を焦らせた。今も例に違わない。「顔が紅い」なんて、そんなストレートに言われたら、誰だって面食らってしまう。
「だっ、だいじょうぶよ」と私は答えた。声が裏返って、まったく説得力がなかった。案の定、クレフはまったく納得していない様子で、ついに視線を下ろして私と目を合わせると、怪訝そうに眉根を顰めた。
「前に渡した薬湯があっただろう。あれを飲んで、今日はもう休め」
 クレフの言った「薬湯」という言葉が、思いがけず私の脳裏に一粒の豆電球のような明かりを燈した。ふっと視線を落とし、膝の上で拳を握った。
 突如閃いたこの提案、クレフは「いい」と言ってくれるだろうか。もちろん、「どうでもいい」という意味ではなく、「結構だ」という意味で。

「貰ったものは、全部飲んじゃったわ」
 意を決して、私は口を開いた。嘘だった。ほんとうはまだ、少なくとも三つは残っていた。一週間前、少し熱っぽかったときに一杯口にして、そのときに残っていることを確認したのだから間違いはないはずだ。
「ちょうど、今日あたりに貰いにいけたらと思っていたの。だから……」
 そうだ、自分は薬湯を貰いたいだけなのだと、自分自身に言い聞かせた。心のどこかに、後ろめたい気持ちがあった。どうしてそんな気持ちがあるのか、このときの私はまだわからなかった。自分の心をごまかすことで精いっぱいだった。握った拳の内側に汗が滲んだ。
「クレフのところに、行ってもいいかしら」
 人が一番わからないのは自分自身の心のことだと、前に誰かが言っていた。あれは、誰が言った言葉だっただろうか。ふと考えたが、思い出せなかった。




web拍手 by FC2

コメント

コメントを投稿


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

TB*URL

PrevEntry |  to Blog Top  | NextEntry
What's new?
ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

▶ 連作短編集を始めました。クレ海学生パラレルです。今後年中行事に合わせて不定期更新の予定です。詳しくはこちらからどうぞ。

▶ こちらは作品展示専用です。コメントへのお返事は別ブログにて行っております。
カテゴリー
最新記事
月別アーカイブ
全記事表示
Counter
プロフィール

篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

このブログは作品展示専用です。
いただいたコメントへのお返事は別ブログにて行っております。
どうぞお気軽にコメントお寄せくださいませ^^

 

Copyright ©蒼穹楼. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha. Photo by sozai-free 2000px.