蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

韜晦 3. 視線

中編

クレフに触れられた頬が、焼けるように熱い。彼の手の感触を、そこはまだはっきりと覚えていた。

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 五感の中で、人の記憶と最も密接に結びついているのは嗅覚であるという。それには「プルースト効果」という名前まであった。特定の匂いを嗅いだ瞬間に過去のとある一場面が脳裏に蘇る、そいうことは、決して珍しい事象ではない。

 私が天馬から降りるのに手を貸してくれたクレフが、徐に杖を傾けた。ギイ、と音を立てながら小屋の扉が開かれていく。クレフが私と目を合わせた。言葉にされたわけではないが、私はそのクレフの行動を、「中に入れ」と言っているのだと解釈した。足早にそこへ向かう。開かれた扉から中へ一歩足を踏み入れたその瞬間、私はまるで、一気に過去へとタイムスリップしてきたような感覚に捉われた。

 この小屋は、普段はセフィーロ城の最上階で生活をしているクレフが、薬を調合するためだけに使用している場所だった。薬草の量があまりにも膨大になってしまって、城内の部屋では保管しきれなくなったために、やむなく作った「別宅」らしい。
 私がここを訪れるのは、なにも初めてではない。初めてではないのに、私は確かに「懐かしい」と感じた。それはつまり、前回ここを訪れてからそれなりの時間が経過しているということだ。
「変わってないのね、全然」
 ぐるりと部屋を見渡し、私は目を細めた。
「それはそうだろう」
 独り言のつもりで発した言葉に、返答があった。振り返ると、遅れて中へ入ってきたクレフが、扉を閉めながら、さして面白みもないような表情で淡々と続けた。
「もう何百年と変わっていないのだ。数か月ごときで変化するはずもあるまい」
 たいしたことではない、と言わんばかりの口調だったが、その「何百年」とこの小屋が存在し続けていること自体がそもそもすごいのだということに、きっと彼は気づいていない。指摘しようかとも思ったけれど、結局は何も口にしなかった。クレフが私とまったく目を合わせようとしないので、なんだか肩透かしを喰らったような気分だった。

 クレフは小屋の左側へと進みながら、中央あたりで立ち尽くしていた私の方へ杖を傾けた。すると部屋の右半分、リビングのようになっているところで淡い光が生まれ、一人掛けのソファが姿を現した。暖炉の傍にも似たようなソファはあったが、今クレフが魔法で出したものの方が小ぶりだった。
「掛けて待っていろ」とクレフが言った。「すぐにできる」
 振り返ると、クレフはすでに薬湯を作る準備を始めていた。
「……ありがと」
 なんなのよ、そのそっけない態度。私は内心で毒づいた。クレフに気づかれないよう小さくため息をつきながら、彼が出してくれたソファにやや乱暴に腰を下ろした。
 こぽこぽと鍋に水が溜まる音だけが、小屋の中に満ちる。その音は、私の心の荒波を凪にさせた。ふう、と吐き出した息の語尾がかすかに震えていることに、私は気づかないふりをした。


「この娘に、あれ以上触れていたら――」
 不意にクレフの言葉を思い出し、私は一人赤面した。あのときのクレフは、ほれぼれするほど男らしかった。文字どおり、白馬に乗った王子様のようだった。それなのに、あの場を離れてからのそっけなさ。反動が大きすぎてついていけない。どちらがほんとうの彼なのだろう。
 そこまで考えて、私はふるふるとかぶりを振った。考えてもせんないことだ。それに、どちらにしても、彼が私を助けてくれたという事実に変わりはない。後できちんとお礼を言わなくちゃ。

 顔を上げて、私は周囲を見回した。続き間からリビングまで、壁一面に、薬草の入ったガラスの小瓶がびっしりと並んでいる。数万とも言われているその薬草について、クレフはすべてを把握しているのだという。異なる種類の薬草同士を掛け合わせて、クレフ自身が創り出したものもあると聞いた。そんなことができるのは、セフィーロ中を探してもクレフと、元来薬を扱うのが職務である薬師の二人だけだった。

 その膨大な量の薬草の中から、クレフは迷うことなくいくつかの小瓶を選び取り、調合台の上に並べた。鍋を火にくべ、一方では薬草を丁寧に細かく包丁で刻んでいく。薬草のいい香りが漂ってくるまでに、さほど時間はかからなかった。どうやら彼は、持ち帰るための薬湯の粉末だけでなく、この場で飲む薬湯も淹れようとしてくれているらしい。
 クレフが薬湯を淹れる姿を見るたびに、私はいつも、まるで音楽家がピアノを奏でるときのように美しいと感じる。動作のどこにも徒(むだ)がなく、手の動きはまるで流れるようによどみない。きっと、彼の手が女性のそれのように繊細で綺麗だから、余計にそう感じるのだろう。

「数か月ごときで変化するはずもあるまい」
 ふとクレフの言葉を思い出した。あのときはそのままやり過ごしたが、よくよく考えてみれば、それはつまり、私がこの小屋へやってくるのが数か月ぶりだということを意味している。そんなに経ったのかと驚くと同時に、確かにそれくらいは経っているかもしれないと納得している部分もあった。なんだか落ち着かなくて、私は辺りを見回した。
 以前はよく、暇を見つけてはここを訪れていたものだった。毎日のようにクレフに会っていた気がする。時には薬湯を貰うという理由で、時にはただ、彼とお喋りがしたいというだけで。数か月も間が空いたことなどあっただろうか。思い出せなかった。少なくとも、ここ数年では一度もなかった気がする。

 そういえば、いつからだっただろう。薬湯はアスコットやプレセアなど、人づてに貰うことが多くなったのは。
 この数か月、そういえば、クレフの顔さえほとんど見ることはなかった。
 胸の奥がもやっとした。居心地は決してよくなかった。何か大切なものにベールが掛けられたような感じだった。そこで燻ぶっているものは、忘れてはいけないものではなかっただろうか。


「息災にしていたか」
 クレフの声で、私ははっと我に返った。振り返ると、彼はすり鉢で薬草をすっているところだった。
「ええ、相変わらずよ」と私は頷いた。
 クレフは大きめの椀に細かくなった薬草を移し、そこに、鍋から杓子ですくった液体を注いだ。くず湯のようにとろみのある液体だった。一杯をきっちり入れ終えると、クレフが何とはなしにちらりとこちらを窺った。思いがけず視線がぶつかって、われ知らず鼓動がどくんと高鳴った。
 その自分自身の反応に、私は図らずも困惑した。なに、どうしたの? こんなに鼓動が忙しくなることなんて、めったにないのに。

「しばらく見ない間に、また美しくなったようだな」
 不意にクレフが言った。
「え?」
 私は驚いて聞き返したが、クレフは答えなかった。何事もなかったかのように、彼はすでに手元へと視線を落としていた。椀の中身をひと混ぜすると、満足げに頷いた。そしてその椀を小さな盆に載せると、こちらへ向かって歩いてきた。私は思わず顔を逸らしていた。

 きっと、聞き間違いよ。そうに違いないわ。私は自分自身に言い聞かせた。だって、クレフがそんなこと言うはずないじゃない。「美しい」なんて。それも、「『また』美しくなった」なんて。
 記憶にある限り、私はこれまで一度たりとも、クレフから「美しい」と言われた覚えはなかった。うるさいだの一言多いだのということはさんざん言われてきたけれど、容姿を褒める言葉は、彼は一度も発しなかったはずだ。だからこそ、私はクレフのことを慕っていた。彼はほかの男性とは違い、私の見てくれに興味があって一緒にいてくれるのではないと信じていたからだ。

「これを飲めば、落ち着くだろう」
 いつの間にか私の目の前までやってきていたクレフが言った。顔を上げ、私はほとんど条件反射的に、差し出された椀を受け取った。「ありがとう」と言った声は、辛うじて聞こえるかどうかというほどの小さな声だった。
 顔を上げることはできなかった。どうしても、まともにクレフの顔を直視できる気がしなかった。

 額に突き刺さるほど強くクレフの視線を感じた。まったく鼓動がうるさい。それをどうにかごまかしたくて、私は、少々大袈裟なほどのしぐさで薬湯をふーっと冷まし、そして一口含んだ。その薬湯が喉を通っていったとき、思わずほうっとため息が漏れた。
「美味しい」
 美味しい、という言葉は適当ではないかもしれない。けれど私の陳腐な語彙の中では、ほかに当てはめるべきふさわしい言葉は見つからなかった。体の隅々まで染み渡る薬湯だった。

 その薬湯を飲んだことによって、私は、知らず知らずのうちにだいぶ心を消耗していたのだと知った。あの男たちと遭遇してから、強気に出られていたのは最初だけで、後はずっと、恐怖心との戦いだった。クレフとこの小屋へ向かう間中も、その恐怖は続いていた。それが今、この薬湯によってようやくほぐされた。
 鼓動は相変わらず速いが、気持ちは急速に落ち着きを取り戻しつつあった。あんなことがあって、平常心を保っていられるはずもない。あのとき助けに来てくれたのがクレフでほんとうによかった。いまさらながら強くそう感じた。この薬湯を飲んだことによって、ほんとうの意味で救われた気がした。

 クレフの淹れる薬湯はいつもそうだ。どんなに辛いことや哀しいことがあっても、問答無用に私の心を落ち着かせる。たとえ同じ薬草を使ったとしても、ほかの人が淹れた薬湯ではこうはならないだろう。クレフだから、彼が淹れてくれるから、私は落ち着きを取り戻すことができるのだ。セフィーロで最高位の魔導師は、私にとっては最高の治癒師でもあった。

「ほんとうに美味しいわ、クレフ」
 それは心からの言葉だった。顔を上げると、クレフと目が合った。彼は嬉しそうに目を細め、「そうか」と微笑んだ。
 その表情を見て、私ははっとした。それは、久しぶりに会ったクレフの、久しぶりに見た、心からの笑顔だった。覚えず自問していた。彼はこれほど艶やかに笑う人だっただろうか。

 私が答えを見出す前に、クレフの視線が外れた。持ち上がった彼の指が、何か印を描く。指の動きを追いかけていると、やがて私の向かい側に、私が腰掛けているのと同じデザインの椅子が出現した。私のそれよりも一回り大きな椅子に、クレフはゆったりと腰掛けた。
 彼の行動の一部始終を見守り続けていたが、それと同時に、私は薬湯を少しずつ飲むということも続けていた。三分の一ほどを飲み終えたところでふと首をもたげると、クレフの表情がいつの間にか、あの艶やかだった笑顔から、沈痛なものへと変わっていた。私は思わず口から椀を離し、まじまじと彼を見つめた。

「すまなかった」とクレフが重苦しく口を開いた。長い睫毛が、その白い頬に影を作った。「以前から、似たような事件が頻発しているとの情報は耳にしていたのだ。死者こそ出ていなかったが、被害者の受けた心の傷は大きく、胸を痛めていたところだった。ラファーガには、いっそう警備に力を入れるようにと伝えてあったのだが、なにぶんしぶとい男どもでな。あと一歩のところでいつも取り逃がしていた。これ以上被害が広がらないようにと、私も密かに自ら街へ出て、警戒に当たっていた。……にも拘らず、まさか、よりによっておまえをあのような目に合わせてしまうとは」
 あり得ない、とでも言うかのように、クレフが力なくかぶりを振った。私は驚きを隠せずにいた。そんな風に落胆した彼の姿など、一度も見たことがなかったからだ。


 この国に最高位の魔導師として君臨する彼は、人々に対して決して弱みを見せない。何があっても冷静沈着で、混乱した人々をいさめるのは、いつも彼の役割だった。その彼が、これほどまでに気落ちしている。驚きであり、そして同時に切なくもあった。彼にこんな顔をさせたことが申し訳なかった。私にも、落ち度がなかったわけではないのに。
「そんなに気落ちしないで、クレフ」と私は口を開いた。「あなたは何も悪くないわ。それに、こうなったのには、私にだって責任があるの。事前に忠告されていたのに、それを無視して、あの森に一人で入ったんだもの。襲ってくださいと言っているようなものだわ」
「だが」
「あなたが負い目を感じる必要はまったくないわ」
 反論しようとしたクレフを、私は遮った。口を噤んだクレフに、私は微笑みかけた。
「ううん、むしろ、あなたは堂々としているべきよ。危機一髪のところで、私を助けてくれたんだもの。ほんとうにありがとう、クレフ。あなたがいなかったら、今ごろ私、生きていなかったかもしれないわ」
 口に出すことをあれほどためらっていた言葉が、嘘のようにすらすらと出てきた。気恥ずかしくて、私は肩を竦めた。

 クレフがその真っ青な瞳で私を見返す。真剣なまなざしに、私はまた一段と鼓動が速くなるのを感じた。
 射抜かれたように、クレフから目が離せない。彼の手がそっとこちらへ向かって伸びてきたときも、私はまったく動くことができなかった。私の左の頬に、クレフの右手が触れた。その手は少しひんやりとしていて、つんとした薬草の匂いが、一瞬私の鼻を掠めた。
「だいじょうぶか」
 彼は私から目を離すことなく問うてきた。嘘をつくことのできない瞳だった。心の奥の「ほんとう」を、彼は見透かそうとしていた。

 少し前の状態だったら、そこで泣きだしてしまっていたかもしれない。けれど、クレフが淹れてくれた薬湯を飲み、彼の笑顔を見た今、私の心の傷は、もうすっかりかさぶたになっていた。だから、微笑んで答えることができた。
「だいじょうぶよ」
 心配しないで、と私は目だけで続けた。クレフならばその意図を酌んでくれるだろうと思った。

 それからしばらくの間、クレフは私をじっと見つめたまま無言を貫いた。そうして永遠とも取れるほどの時間が流れたころ、ようやく彼はふっと表情を緩め、私の頬から静かに手を離した。
「よかった」とクレフは微笑んだ。その笑顔を前に、私は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
 クレフに触れられた頬が、焼けるように熱い。彼の手の感触を、そこはまだはっきりと覚えていた。大きなその手の温もりに、記憶がフラッシュバックする。間一髪のところで私を助け、優しく肩を抱き寄せてくれたあの腕。白馬の上で、私を護るように後ろに乗った彼の体温。

 クレフが一度瞬きをした。それによって私ははっと我に返り、慌てて彼から視線を逸らした。手にした椀を持ち上げ、顔を沈めるような勢いで薬湯を懸命に飲んだ。
 そんなわけない、そんなはずない。その二つの言葉を、私はお経のように心の中で唱え続けていた。
「否定は恋の始まりよ」
 不意に誰かの声が聞こえた気がして、椀を口につけたまま、われ知らず硬直した。
 違うわよ。一度深呼吸をしてから、私はその声をはねのけた。恋なんて、していない。私にはアスコットがいるんだから。




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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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