蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

韜晦 4. 呻吟

中編

私はひとりで立っていた。辺りには一面、うっすらと靄が掛かっている。誰もいない。

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 ごうごうと鳴っているのは風か、それとも何か生き物か。
 私はひとりで立っていた。辺りには一面、うっすらと靄が掛かっている。誰もいない。ただ音だけが響いていた。その音の隙間を縫って人の声が聞こえるような気もするが、その声は、私のもとへたどり着く前に靄の中へと溶けていってしまう。
 私は一人だったが、独りではなかった。いるべくしてここにいるのだと感じた。けれど、いったい何のために?

「――さん、海さん」
 ポンと肩を叩かれ、私ははっと我に返った。同時に、まるで湖面に波紋が広がるように、渡っていた靄も消えた。びくっと体を動かした反動で、頬杖をついていた肘がテーブルからずり落ちた。思わずバランスを崩したが、短い悲鳴を上げたのは私ではなく、その私の肩に手を置いた人の方だった。
「だいじょうぶですか?」
 私を覗き込みながら、彼女が心配そうに言った。
「ええ」と私は答えた。「ありがとう、風」
 肩を支えてくれた親友に礼を言って、覚えず苦笑した。肘をテーブルから落とすなんて、なんとも恥ずかしいところを見られてしまった。
 風はまったく気にしていない様子だった。私の答えを聞いてほっとしたような表情を浮かべると、肩から手を離し、斜向かいの椅子に腰掛けた。彼女が身にまとう、象牙色のドレスの裾がそよ風に揺れて、空中に綺麗な弧を描いた。風の持つ柔らかい雰囲気をそのまま具現化させたようなドレスは、彼女によく似合っていた。

「何かあったのですか? 海さん」とその風が言った。「ここのところ、ぼんやりとなさっていることが多いようですけれど」
 私はすぐには答えなかった。手元に目を落とすと、中身のすっかり冷めたティーカップがあった。琥珀色の表面に、私の顔が映り込んだ。
「なんでもないの」
 結局私はそう答えた。
「ちょっと、考え事をしていただけよ」
 風は何か言いたそうに口を開きかけたが、ちょうどそのとき給仕の女性がやってきたので、彼女の口から言葉が発せられることはなかった。給仕は風の前にも、私のそれと同じ柄が描かれたティーカップを置いた。風が彼女を一瞥して軽く会釈をする。その姿には、すっかり「妃」としての品格が備わっていた。フェリオの愛情を一身に受けているのだろう。われ知らず口元が綻んだ。

 私は顔を上げ、改めて周りに視線を走らせた。よく手入れされたこの庭は、ごく一部の人間しか入ることが赦されていない、「王の庭」だった。「王の庭」といっても、手入れをしているのは当の王ではなく、その妃である風の方だ。「女王の庭」にすればいいのに、と私は何度も進言しているのだが、風は笑って聞き流すだけで、受け入れようとしなかった。風にとっては、この庭はやはり「王の庭」なのだと言う。手入れをしているのは確かに風だが、この庭を、ひいてはこの国を支えているのはやはり王なのだから、というのがその理由らしい。私は今でもそう呼ぶことに抵抗があるのだけれど、しかし一方で、見渡す限りの緑に溢れているところを見ると、それがフェリオの髪の色を彷彿とさせるのは確かだった。


 風が目の前に運ばれてきた紅茶を口に運んだ。ソーサーにはミルクポーションも砂糖も置かれていない。紅茶でもコーヒーでも、飲み物はストレートで飲むのが風のこだわりだった。
 つられて私も何とはなしに自らの紅茶に手を伸ばしたが、すっかりぬるくなったそれはあまり美味しくなかった。紅茶はやはり、熱いうちに飲むのがいい。
「何かあったのですか?」
 不意に風が口を開いた。ティーカップを口に運ぶ最中だった私は、目だけで「え?」と聞き返した。すると風が、彼女にしては珍しく、いたずらっ子のような顔で笑った。
「まるで、恋わずらいでもしているように見えましたわよ、海さん」
 思いがけない風の言葉を受け、私は途端にむせ返った。
「な……何言ってるのよ、風!」
 手にしていたカップをソーサーに戻した。勢い余って紅茶が数滴飛び出し、純白のテーブルクロスに染みを作った。ごめんなさい、と慌てて言ったが、風はまったく動じず、「お気になさらず」と言った。それどころか、未だくすくすと楽しげに笑っていた。
「図星でした?」と彼女は言った。
 思わずぐっと言葉に詰まった。頬が赤らんでいることが、自分でもわかる。
「そんなこと」
 ごまかそうと口を開いたが、何気なく風の視線とぶつかると、それが決してからかっているのではないとわかってしまった。そうするともう、ごまかすことなどできなかった。私はため息をついた。
「そんなわけないじゃない」と私はかぶりを振った。「アスコットとは、うまくいってるもの」
「アスコットさんのことではありませんわ」
 ぴしゃりと言い放たれて、私ははっと顔を上げた。風が軽く首を傾げ、こちらを覗き込むようにしてじっと見つめる。それは、真剣に人の話を聞こうとするときの彼女の癖だった。真っすぐなその瞳で見つめられると嘘などつけなくなることを、果たして彼女はわかってやっているのだろうか。
「海さん」
 私から一度も視線を外すことなく、風は言った。
「アスコットさん以外に、どなたか気に掛かるお方がいらっしゃるのではありませんか?」

 驚いた。図星を指されたからではない。風の口調に対してだ。いるのですか、と尋ねるような言い方ではなく、いるのですね、と確認するような言い方だった。
 だてに女王をやっていないのだ、と私はつくづく思った。風は、さりげなく人を観察する能力に恐ろしいほど長けている。忙しい身であるから、こうして彼女に会うのは一週間ぶりのことだった。それも、会ってからはまだ十分ほどしか経っていない。これほどの短時間でも、相手の本意を見抜くには、けれど彼女にはじゅうぶん過ぎるのだろう。とっくに見透かされている。私は風から視線を逸らした。

 軽く唇を噛み、私は沈黙した。その態度を風が肯定と捉えるであろうことはわかっていたが、ほかに為す術などなかった。「違う」と言葉にするのは簡単だ。けれど本心では違わない以上、「違う」と言ってしまえば、親友である風に対して嘘をつくことになる。それは強く憚られた。かといって、認めることもできなかった。認めてしまえば、世界はもう、これまでと同じようには廻っていかなくなる。
「……アスコットは、とても優しいわ」
 私は言った。カップの中で、紅茶が小さな波を広げた。
「彼を裏切るようなことなんて、とてもできない。あんなに好いてくれているんだもの」
 その言い方がそもそも裏切りの一歩であることに、このときの私は気づかなかった。


 風に指摘され、そして、その指摘に対する自分自身の反応を知って、私は思い知らされた。私の心は今、たったひとりの男性の存在によって占められている。けれど、そのことを事実として認めるということと、そのままその想いに流されるということは別次元の問題だった。事実は事実として甘んじて認める。けれど、その想いを肯定することはできない。「アスコットのことは裏切れない」、その結論は絶対に変わらなかった。結婚まで考えている人なのだ、そう簡単に、「じゃあさようなら」とはできなかった。

 ずっと気の置けない友人の一人だと思っていた彼に告白されたときは、正直言って驚いた。それでも断る理由も特になかったので、付き合うことにして、あれよあれよという間に一緒に暮らすようになった。アスコットは、私のことを、まるで壊れ物を扱うかのように大切にしてくれた。彼といるとリラックスできた。一緒に暮らすほどにまで仲が進展しているのだ、このまま結婚するんだろうなと、おぼろげながらにも思っていた。言葉にこそしたことはなかったけれど、それが私にとって幸せになれる道だと、信じて疑ったことはなかった。
 簡単に捨てることなんてできない。アスコットの想いを、私は痛いほどよくわかっている。彼は私をほんとうに大切にしてくれる。そんな人を傷つけるようなことは、とてもできない。

「それでは、どなたも幸せになれませんわ」
 不意に風が言った。
「え?」
 私は顔を上げて目を見開いた。そうすると、風が苦虫を噛み潰したような表情をしていたのでどきりとした。彼女は私を見返すと、そっと腕を伸ばしてきて、膝の上で揃えられていた私の手にそっと触れた。
「よくお考えになって」と彼女は言った。「海さんがご自身のお気持ちを偽っていらっしゃると知ったら、アスコットさんは、どう思われるでしょう」
 私ははっと息を呑んだ。脳裏にアスコットの笑顔が浮かんだ。屈託のない、太陽の下で花咲く向日葵のような笑顔で、彼はいつも私の名を呼ぶ。何も知らない彼は、私の気持ちが彼とひとつであることに微塵の疑いも持っていない。きっと、今このときも。
「それに」と風が続けた。「海さんの心にいらっしゃる方のお気持ちは、どうなりますの?」
 それは思いがけない一言だった。
 彼の気持ち?――「彼」といって、私の脳裏には、アスコットに代わってクレフが浮かんだ。
 クレフはアスコットとはまるで違う。アスコットのように破顔することなどまずない。それでも、彼が時折浮かべるあの優しく思慮深い微笑みは、私の心にじんわりと幸せを広げていく。
「その方も海さんのことを想っておいでだとしたら、どうなさいますか?」
 風は言った。目を見開いた私に、彼女は神妙な面持ちで頷いた。
「もしもそうであったなら、海さんは、ご自分のお気持ちを隠してしまわれることによって、二人の男性を不幸にしてしまうことになります」

 私は手元へ視線を落とした。そんなことは想像だにさえしてこなかったが、風の言うことは、あながち的外れというわけでもなかった。今までの私は、自分の気持ちを整理することで精いっぱいで、周りの人が何を考えているかということにまで気を配るような余裕はなかった。まして、クレフが自分をどう想っているかなど、考えようとさえしてこなかった。だって、あのクレフが、私のことを? そんなのあり得ない。
「しばらく見ない間に、また美しくなったようだ」
 不意に思い出した言葉が、しかし「あり得ない」という私の考えを打ち消した。

「でも」
 堪らず、私は顔を上げた。ところがそこから先へは言葉が続かなかった。「でも」、何だろう。私は何を言いたいのだろう。
 黙り込んだ私に、風が微笑みを向けた。
「海さん」と彼女は諭すような口調で言った。「その方と一度、お話になってみてはいかがでしょう。おひとりで考え込まれては、見えるものも見えなくなってしまいますわ。それに」
 一度言葉を区切って、風が笑みを深めた。雲間から差し込んでくる日の光が、彼女が額に戴くサークレットをより一層輝かせた。
「海さんが想いを寄せている方ですもの。思いの丈をぶつければ、きっと、誠実な答えを返してくださいますわ」
 フェリオがなぜ風を妃に選んだのか、私はこのときようやくわかった気がした。ただ惚れているだけではないのだ。彼女は女王として、ほかに類を見ない抜群の安定感を誇っている。

「そうね」と私は頷いた。「あなたの言うとおりよ。私、自分のことばっかりで、周りの人のことなんて全然考えてなかった」
 そっと乗せられていた風の手を、私はしっかりと両手で握り返した。
「彼に会ってくるわ。そうよね、このままじゃ、誰に対しても失礼だものね」
 ハイ、と風が笑顔で頷いた。
 自然と背筋が伸びた。私は風の手をそっと彼女の方へ戻すと、善は急げと言わんばかりに、椅子の背に掛けてあった鞄を手に立ち上がった。
 同じく立ち上がった風の両手を、私はもう一度しっかりと握った。
「ほんとうにありがとう、風」と私は言った。「行ってくるわね」
「きっと、最良の方法を考えてくださいますわ。クレフさんなら」
「そうね」と私は頷きかけたが、中途半端なところで首を止め、瞬きをした。「え?」
 風は相変わらずにこやかに笑っているが、私は内心で困惑した。彼女はあくまでもさりげなく口にしたけれど、私は一度でもその名を出したことがあっただろうか。
 たとえ無意識でも、その可能性はないはずだった。だとすれば――。
 ふふふ、と意味深に笑う風に、私は背筋がぞくりと寒くなるのを感じた。
「お行きなさいな」と言われて、慌ててその場を後にした。彼女の提案を拒絶しなくてよかったと、心底思った。
 前を向き、私は走り出した。今この心を占めている、あのひとのもとへ。




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ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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