蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

韜晦 7. 横顔

中編

彼はたくさんの人に愛されているのに、そのことに気づかない。

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 ぱちぱちと燃える火の音は小さいけれど、その温もりたるや圧倒的だった。火があることのありがたさみをこれほど強く感じたことは、未だかつて一度もなかった。揺れる炎をぼんやりと見つめながら、私は平和の尊さをかみしめていた。炎とは、時には争いの渦中に燃え盛ることもあるけれど、本来は、人に無条件で温もりを与えてくれるものだ。そして、今私の傍にいるひとは、炎を本来あるべき道で使うことのできるひとだった。

 火の音と、その火にくべた小さな薬鍋を彼がかき混ぜる音以外には、この小屋の中に響くものはない。音は命を伝えるものだった。鼓動も、呼吸も、生きているものはすべて「音」を出す。音は、そこにあるだけで大きな安心を齎した。幼い子どもが子守唄に耳を傾けるのは、「音」が安心を代弁するものだからだろう。
 私はふと顔を上げた。そうして気づいた。音はまだほかにもあった。降りしきる、微かな雨音だ。
 格子窓に雨が当たり、跡を残しながら静かに流れていく。激しくなることはほとんどない。かといって雨音がやむこともなかった。「きっと今夜はやまないだろう」。そう言ったのは、今は斜向かいにいる彼――クレフだった。彼が言うのだから、そのとおりになるはずだった。クレフが天候を見誤ったことは、一度もなかった。

「寒くないか」
 薬湯をかき混ぜる手を止めることなく、クレフが、まるで独り言のように言った。私の方こそ見なかったけれど、彼のその言葉が私に向けられていることははっきりとわかった。というより、この場には私と彼のふたりしかいないのだから、それ以外にあり得なかった。
 彼の真っ青な瞳の中に、橙の炎が映り込んでいる。その瞳を見つめていると、薬湯の持つ、あの独特の鼻を抜けるような香りが漂ってきて、ふわりと鼻を掠めた。
「だいじょうぶよ」と私は答えた。「温かいわ。とても」
 強がりでも何でもなく、私は心に浮かんだ言葉をそのまま唇に乗せた。寒いはずがなかった。目の前では炎が燃え、肩にはまだ、クレフのローブが掛かっているのだから。ずぶ濡れだった髪も、今は大分乾いていた。
 そうか、とクレフが呟いた。彼の瞳は、やはり私を映さない。

 私はクレフの手元に視線を落とした。白くて細い手が、規則正しく動かされる。炎の目の前にいるというのに、その手はまだ濡れていた。手だけではない。雨を浴びてもとの色を失っていた内着も、その大部分が群青色のままだった。髪からは時折滴が落ちて、彼の座っている周辺に染みを作った。
 急に切なくなって、私は折り曲げていた足を更にすっと引き寄せた。
 寒いのはあなたの方でしょう。魔法でもなんでも使って、その体を早く乾かして。心の中では何度も叫んだけれど、それらの言葉が実際に口から零れることはなかった。言えなかった。それを言ったら、クレフはきっと、「私のことは気にするな」と言うだろう。その言葉が聞きたくなかったから言えなかった。気になるから言うのに、「気にするな」と言われてしまえば、私自身を否定されるような気がした。

 このひとはどうして、自分のことにはこれほどまでに無頓着なんだろう。
 彼はたくさんの人に愛されているのに、そのことに気づかない。そのことで、これまできっとたくさんの人を泣かせてきたのだと思う。それもやっぱり、自分では気づかないうちに。
「……クレフ」
 私が呼んでも、クレフは曖昧な返事しかしなかった。その視線は真っすぐ目の前の鍋に注がれたまま、動かない。中身をかき混ぜる手もまた、規則正しいリズムを取り続けている。まるで、彼と私とでは流れる時間が違うかのようだった。私は堪らず、ローブの中で組んだ腕をぎゅっと握り締めた。
「怒ってる?」
 恐る恐る私が言うと、初めてクレフの手が止まった。その蒼い瞳をわずかに見開き、彼は私を見返した。一瞬、咎められている子どもになったような錯覚を覚えて、私は思わず視線を外した。あちこち彷徨わせたその視線を、やがてクレフの喉元あたりで落ち着かせようとしたとき、ふっとクレフが表情を緩めた。
「そんなはずはあるまい」と彼は言った。「無事でよかった」
 浮かべた笑顔の余韻を残して、クレフは再び鍋に視線を落とした。そして何事もなかったかのように、またゆっくりとかき混ぜ始めた。とろみのついてきた薬湯が、小さく音を立てた。

 何をしたわけでもない。文字にしてみればほとんど字数も稼げない会話を交わし、クレフがほんの一時笑顔を浮かべただけだ。それなのに、たったそれだけのことで、小屋の中を流れる空気は一変した。クレフの言葉は、巨大な氷にかかる熱湯だった。
 全身に鳥肌が立った。人は嬉しいときにも鳥肌が立つものなのだと、私はこのときまで知らなかった。感慨深いと同時に、ほとほと呆れかえってもいた。クレフの表情(かお)がほんの少し綻んだだけで鳥肌が立つほど嬉しく感じるなんて、私はどうしようもないばかだ。

 けれど、もうばかでもいい。私は思った。この気持ちに嘘はつけない。
 私は膝を抱き寄せ、唇を舐めた。空気はこれほど湿っているのに、唇はなぜかカラカラだった。
「クレフ――」
「私を探して、何の用だったのかは知らないが」
 ところが、私の喋り出しはあっけなく遮られた。え、と思う間も与えない話し方だった。それは明らかにこちらを拒絶していた。私は覚えず背筋を伸ばした。
 「何の用だったかは知らない」と言いながら、その言い方は、「何の用だったかは知りたくない」と言っているように聞こえた。そしてそれは、「何の用だったかは知っているが聞きたくない」ということと同義でもあるように思えてならなかった。

 私は黙ってクレフの次の言葉を待った。厭な緊張を感じていた。その緊張を払いのけるように、私はきゅっと唇を噛んだ。
「もう少し、自分を大事にしろ」
 鍋をかき混ぜながら、クレフは言った。
「先日も今しがたも、たまたま私が近くを通りかかったために事なきを得たが、いずれも、一歩間違っていれば命を落としていてもおかしくない状況だった。おまえ自身が言っていただろう、『自分にも非はある』と。その自覚があるのなら、もう少し、行動する前に考えろ」
 言った。私は確かに言った。覚えているから何も反論することができなかった。クレフの並べた言葉は正論すぎて、どこにも反論の余地を残していなかった。750年も生きている人に、口で敵うわけがない。開きかけていた口を、私はあっけなく閉じた。

 それでも、喉元まで出かかっている言葉は数えきれないほどあった。ほんとうに、「たまたま」だったの? 二度も私を助けてくれたことを、あなたは「たまたま」という言葉で済まそうというの? あのとき白馬の背で見た、あなたの手の甲に浮いていた白い筋も、演技だったというの? 薬湯を淹れてくれたあなたが見せた笑顔は、ほかの人に見せるものと同じだったの? 雨に濡れるのも構わずに私を抱きしめてくれたのは、ただ単に、私が向こう見ずで危なっかしいからなの? それだけなの? そこには何の意味もないの?
 どれひとつとして口にすることはできなかった。ひとつでも口にしてしまったら、すべてが崩れてしまう気がした。
 話し方こそ厳しいけれど、クレフから発せられる気配は限りなく優しかった。その優しさが、私の心に後ろめたさを運んできた。その後ろめたさは、私を臆病にさせた。私が何かを言ったら、その時点から、きっとすべてが変わってしまう。けれどそうしてはいけない。何も変えてはいけない。このときの私は、確かにそう感じていた。すでに元には戻れないところまで来てしまっているなどとは、これっぽっちも気づかずに。

「おまえが傷つけば、哀しむ者がいるだろう」
 まるで聖書の朗読をするように、クレフが言った。
「おまえを大切に想う者をみすみす手放すようなまねは、するな」
 そのクレフの言葉は、私の決意を砕くには十分過ぎた。
 返す言葉もなく、私はただ、炎に照らされたクレフの横顔を見つめた。その横顔からは、どんな感情も読み取れない。瞳が揺らいだように見えたけれど、それは炎のせいだった。
 この人は今、『導師』として私の前にいるのだ。そう思った。私をいるべき方向へ、あるべき道へと「導くため」、彼はそこに佇んでいる。目の前にあるこの炎のように、私の行先を照らす街燈になろうとしてくれている。
 彼の聡明さは、いつだって私を助けてくれた。けれど今は、その聡明さが恨めしい。

「さあ、できた」
 不意にクレフが、柔らかい口調で言った。
「これを飲んで、少し休め」
 クレフは薬鍋を火から下ろすと、その中身を別の大きめの椀に移し、まだ湯気の立ち上っているそれを私に差し出した。
 受け取る前に、私はクレフがもう一方の手に持った薬鍋を一瞥した。すると思ったとおり、中身はもう一滴も残っていなかった。眉を顰めながら顔を上げた私に、けれどクレフは静かに微笑んで頷いた。
「私のことは心配するな。……いや、私のことを思ってくれるのならばなおさら、それはおまえがすべて飲んでくれ。今夜のことが原因でおまえが体調を崩すようなことになれば、私は殺されかねん」
 私は心の中でため息をついた。言われたくない言葉を、結局こうして言われてしまった。
 クレフは時に、ずるいことを言う。今もそうだ。そんな風に言われたら、断れるわけがない。それをわかっていて、クレフはあえてそういう言葉を選んでいる。
 ずるいわ、と口にすればいいのに、私はできない。彼がずるくなるのは、いつだってほかの人のためだった。彼は彼自身のためにずるくなることは絶対にない。クレフのずるさは、彼の好意の裏返しだった。だからこそ私は、彼のずるさを指摘することができなかった。

 仕方なく、私は差し出された薬湯を受け取った。自分では笑ったつもりだったけれど、それは、うまくは笑えていないだろうと自分でも確信できるほどの、薄っぺらい笑みになった。
「……おいしい」
 こんなときでも、クレフの淹れた薬湯は体中に沁み渡った。思わず口から零れた言葉が悔しくて、私はクレフとまともに目を合わせられなくなる。

***

 疲れ切っているはずなのに、睡魔はまったく顔を覗かせない。
 静かすぎるのが原因かもしれない。私は昔から、しんと静まり返った部屋の中では眠れなくなってしまうタイプだった。目の前で燃える炎に向かって、私は「もっと燃えろ」と念を込めた。けれど当然、今以上に火が大きくなるようなことはなかった。火の粉の飛ぶ音だけが、不規則に淡々と続いていく。
 念を込めることは早々に諦めた。炎を大きくする魔法でも知っていれば話は別だけれど、そんな魔法は知らなかった。視線を彷徨わせ、最終的に、格子窓に凭れかかって外の様子をじっと窺っているクレフを盗み見た。薬湯を淹れてからもうずっと、クレフはそうして無言のままそこに佇んでいる。降り続ける雨の中に彼がいったい何を見ているのか、私にはわからない。ただ、きっと私には見えていないものが彼には見えているのだろうとは思った。同じものを見ていても、彼は私の何倍もの感情を抱く。クレフとは、そういう人だ。

 ほんの二メートルほどしか離れていないはずなのに、クレフが遠く手の届かないところにいるように感じられた。頑なに外を見続けるその横顔が、そう思わせるのかもしれない。組んだまま解かれることがない腕も、彼の抱く世界と私の見る世界とが異なっていることを証明しているようだった。

「おまえを大切に想う者をみすみす手放すようなまねは、するな」
 クレフの言葉と、そう言った瞬間の彼の哀しげな笑みが、目の奥から離れない。思い出すたびに息苦しさを覚えた。私は抱えた膝をそっと引き寄せた。
 疑いようがなかった。彼に釘を刺されたのだ、「アスコットを裏切ってはならない」と。クレフは案の定、私が何のために彼を探していたのかわかっていた。
 皮肉なものだと、私は口元に嘲笑を浮かべた。こんな、戻れないほど遠くまで来てしまって初めて自分の気持ちに気づくなんて、浅はかにも程がある。
 けれど私にはもう、その想いを遂げたいという気持ちはなかった。クレフがそれを望まないのなら、彼に強要することはできないし、そうするつもりもない。彼がアスコットの『心』を守りたいと思うのなら、その気持ちに応えたい。
 ――でも。

 私は静かに立ち上がった。肩に掛けられていたクレフのローブが、ぱさりと微かな音を立てて床に落ちた。
 裸足のまま、ゆっくりと格子窓の方へ向かう。瞳はクレフの横顔だけを見つめ、動かない。途中で転んでもおかしくなかった。それほど、私の目にはクレフ以外のものは映っていなかった。けれど結局は、ほとんど障害物のない部屋のつくりが幸いして、一度も足音を乱すことなくクレフの背後にたどり着くことができた。もっとも、乱れるほどの足音も立ってはいなかったけれど。

 クレフが私の気配に気づいてこちらを振り向こうとする。それを遮るように、私は彼の背に抱きついた。ぴくりと一瞬、クレフの背中が震えた。
「ウミ――」
「抱いて」
 クレフを遮って、私は言った。自分の体を押し付けるようにして、クレフの背中に顔を埋めた。耳元で聞こえた大きく波打つ鼓動が、自分のものであるのかクレフのものであるのか、判断がつかなかった。




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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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