蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

韜晦 8. 密事

中編

私を抱く腕は、心を揺さぶるほどに強かった。その強さに、私は心の奥で何度も頷いた。

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 人を好きになる気持ちほど難しいものはない。誰に聞いても同じ答えは返ってこない。風がフェリオを想う気持ちと光がランティスを想う気持ちはまるで違う。私にしても、これまで付き合った人に対して抱いていた想いとアスコットに対して抱いている想いは違う。
 どれが正解ということではない。きっとどれも正しい。十人いれば十通りの想いの形があるし、想いを抱く相手によっても形は変わる。人を想う形は、無限にある。無限にあるからこそ、自分の気持ちは自分にしかわからない。それなのに、自分の気持ちというのは、この世でもっともその形をつかむことが難しいものであったりする。つまり、誰かを好きになる気持ちを理解するということは、人が生きるうえでの至上命題なのだろう。

 私は今日、自分の『心』に向き合った。『心』をできるだけ客観的に観察しようと努めて、その結果、ひとつの『想い』を見出した。その『想い』は、私が知っているどのような『想い』とも違っていた。決して万人に理解されるものではないだろう。それでも私は、その『想い』を無視できない。それが私だけのものだったから。私は私の『心』に、今日だけは正直に生きたい。だからそれまで、この腕は絶対に離さない。

「抱いて」
 それは決して、思いつきで口にした言葉ではなかった。
 確かに、『沈黙の森』でクレフと会うまでは、その存在を自覚していなかった考えではある。けれど、それがまったく心になかったと言えるのかと問われたら、肯定できない。心の中のどこかにはずっとあった。それが左隅なのか右隅なのかはわからない。必要だったのはただ、それに気づくきっかけだけだった。そしてそのきっかけは、ほかでもない、私自身の心の中にあった。
 自分自身の心と向き合ったことで、そのきっかけに気づき、『想い』にたどり着いた。だからこそ、これほどすんなりと、何のためらいもなく口にすることができた。ほかには何もいらなかった。

「おまえ、何を言って――」
「抱いて」
 クレフが引き離れようとしたので、そうはさせまいと、私は彼の腰に回した腕にさらに力を込めた。そして再び、今度は先ほどよりも大きな声で同じ台詞を口にした。完全に密着しているからよくわかる。クレフは今、激しく狼狽している。
 言葉は少なく、行動も多くはない。ただ、伝わってくる気配が普段とはまるで違う。クレフの心が揺らいでいる。文字どおり、手に取るようにわかった。
 普段のクレフの『心』には、私ごときが付け入る隙などまったくない。けれど今は、揺らぎのタイミングさえつかめば、中に入ることができる。そしてそのタイミングが今だった。私はクレフの体の前で手を組み、固く握った。
 身を捩ろうとしていたクレフの動きがぴたりと止まる。薄い絹の衣一枚しかまとっていないせいで、彼の体温をほとんど直に感じる。雨に当たっていたせいだろう、クレフの背中は、私の体よりも温度が低かった。そしてその温度差が、驚くほど心地よかった。こうして触れ合っている間に、私の火照りすぎているほどの熱が彼に伝わればいい。

 雨に乗って空から沈黙が落ちてきた。その沈黙は、私の胸を縛った。私はクレフの背に額をつけ、そっと目を閉じた。
「今日を過ぎたら、もう何も望まないわ」
 瞼の裏に、クレフの優しい笑顔が浮かんだ。あの笑顔を見たのは、そう、彼が暴君から私を護ってくれたときのことだった。あの日、私が市場からの帰りで森の中を通らなければ、今日私たちがここにいることはなかっただろう。
「今日だけでいいの」と私は言った。「夜が明けたら、もう全部忘れるって約束するわ。あなたを探して一日中外を出歩いたりしない。私を想ってくれる人を手放すようなまねもしないわ。だから――」
「ウミ」
 強い口調で、クレフが私を遮った。その声色は、普段穏やかな彼からは想像もできないほど強張っていた。彼は今、いったいどんな表情をしているのだろう。気になったけれど見られなかった。彼の表情を見るということは、この腕を離すということだ。それはできなかった。それに、たとえ見えなくても、まるで目の前にあるかのように、彼の表情をはっきりと脳裏に描くことができた。
 声に滲む、怒りにも似た鋭い感情を、クレフは隠そうともしない。体を密着させているせいで、その気持ちが強く伝わってくる。きっと今、彼はあらゆる感情を必死に押し殺した顔をしている。
「世迷言はそのくらいにしろ」
 厳しい声で、クレフは言った。
「私が言う必要もないだろう。おまえにはアスコットが――」
「わかってる!」
 今度は私が彼を遮る番だった。それは自分でも驚くほど大きな声になった。ぴくりとクレフの体が震えた。いや、震えたのは私の腕の方かもしれない。

「わかってるわ」と、今度はいくばくか落ち着いた声色で私は言った。「だから……だから、今日だけなの」
 そのとき私は、ほんの少しだけ腕の力を緩めた。それでも二人の体勢は変わらなかった。私の腕はクレフの体を捉えていて、私の額はクレフの背中にあった。そのことが、涙が出そうなほどに嬉しかった。
「今日だけ、今夜だけは、私を、あなたのものにして」
 それは、決して口に出してはいけない、本来ならば見つけるべきではなかった、私の『想い』。それでも私はその『想い』の存在を知ってしまった。知ってしまった以上、見て見ぬふりはできなかった。それほどまでにその『想い』は強かった。どうしてこれまで気づかなかったのか不思議なほど、『想い』ははち切れんばかりにその存在を主張していた。


 これまで私は、強ければ強いほど、ある特定の『想い』を持てることを尊いと思ってきた。それがどんな『想い』であってもだ。『意志の世界』であるセフィーロでは、『想い』の強さがすべてを決める。強い『想い』を持つことが心身ともに強くなることにつながるのだと、信じて疑わなかった。『魔法騎士』として戦っていたときも、私を支えていたのは『想い』だった。セフィーロを守りたいという強い『想い』が、私の心を支えていた。
 けれど、それから数年が経った今になって、『想い』の強さゆえにぶち当たる壁もあるのだと思い知った。強すぎる『想い』は、それに気づいてしまった瞬間から姿を変える。ぼんやりとした空気でしかなかったそれは、はっきりとした形を作る。そうなってしまったら、その『想い』は、想いのままに遂げられるか、あるいは別の方法で浄化されるかしかない。そして私は、後者を選ぼうとしている。
 今は、どうしようもなく叫ぶ心を抑えるのに言い訳が要る。「今日」という日をその言い訳にしようというのは、愚かだろうか。

「嘘でもいい」と私は言った。「嘘でも、情けでもいいの。私を娼婦だと思ってくれてもいいわ。ただ、あなたのことを忘れる手伝いをしてほしいの」
 あなたのことを忘れたいんです、というのは、あなたのことが嫌いです、というよりもあるいは酷なことかもしれない。けれどこのときの私は、感覚が麻痺していたのか、自分がどれほど残酷なことを言っているのか気づかなかった。
「これ以上のわがままは言わないわ。今日を過ぎたら、もう、あなたに会いにさえ行かない。だから今夜だけ、今だけ、私を――」
 途中で言葉が途切れた。途切れさせたのは、強い力だった。
 組んでいた手は解かれ、全身で感じていたクレフの体温も離れていく。目の前にあった大きな背中は隠れ、代わりに、伸びてきた腕が私の背を捉えた。腰を引かれ、また体温がひとつになる。このままひとつに、彼の中で溶けてしまえたらいいのに。一瞬浮かんだ願いを、私は振り払った。

 私を抱く腕は、心を揺さぶるほどに強かった。その強さに、私は心の奥で何度も頷いた。やっぱりそうだった。大の男の力をもってすれば、私の腕の中から逃れることななんて朝飯前のはずだった。それでもクレフは、今の今までそうしなかった。あたかも私の力が強くて抜けられないかのようなふりをして、彼はあえて、自ら「抜けない」という選択をしていた。ほかでもない、私のために。私が存分に、彼に対して思いの丈をぶつけることができるように。
 どうしてクレフは、これほどまでに優しいのだろう。その優しさは、時に私を助け、時に私を苦しめる。

 私はゆっくりと顔を上げた。クレフの大きな手が私の頬を包む。触れられたところが焼けるように熱い。その感覚は、デジャヴだった。
「良いか」
 吐息がかかるほど近くでクレフが言った。それまで見たこともないような表情で、クレフが私のことをその瞳に映していた。吸い込まれるような蒼に、真紅の炎が映り込んでいる。ため息が出そうなほど美しかった。
「今日の私は私ではなく、おまえもまた、おまえではない」とクレフは言った。「これは、雨が見せる夢だ」
 夢――それは美しくも残酷な言葉だった。夢は現実にはならない。夢はいつか醒める。それでもよかった。どうせ最初から、いつまでも続くはずのない時間だった。
 美しい夢は痛みを孕む。喜びに永遠に酔い続けることはできないのに、哀しみは哀しいまま、永遠に心に残る。わかっていても、私は美しい夢が見たかった。美しいものに惹かれるのは、人の性(さが)だ。今目の前にいるこの美しいひとが、どうしても欲しい。私は、ほとんどそれとわからないほど微かに首を縦に振った。

 クレフの瞳が静かに揺らぐ。不思議と、彼が次に何を言おうとしているのかわかる気がした。そのことを思うと、ついに堪え切れなくなった雫が瞳からこぼれ、頬をゆっくりと伝った。
 クレフの指が、私の頬をなぞる。とても温かい手だった。
「ウミ」
 視界がぼやけて、せっかくのクレフの表情がよく見えない。
 止まらない涙を前に、私は諦めてすっと目を閉じた。開いていてもよく見えないのなら、目を瞑り、彼の言葉を聴くことだけに、感覚のすべてを集中させていればいい。
「愛してる」
 研ぎ澄まされた聴覚を震わせたその言葉を、私はきっと一生忘れないだろうと思った。
 今、この瞬間に死んでもいい。そう思った私の唇を、柔らかな感触が塞ぐ。そのままゆっくりと後ろへ倒される感覚は、まるで奈落の底へと突き落されていくそれのようだった。
 深い口付けに、私は身も心も任せていた。このまま落ちる奈落なら、どこまででも落ちたっていい。




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篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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