蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ゆめものがたり 11. 下弦

10万ヒット企画

何も知らない父は、そのときまで何も知らなかったウミに向かって微笑んだ。

本文は「続きを読む」からどうぞ。





 ウミは11時の方向にカトラリーをそろえて置き、顔の前で手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「もう食べたのか、ウミ」
 父が呆気にとられたように言った。「ええ」と答えて、ウミは立ち上がった。目の前の皿は綺麗に平らげられていた。
「最近、すごく食欲がわくの。この前までの反動かもしれないわ」
 ウミが首を竦めて言うと、両親は苦笑した。安心させることができたようだ。ウミは内心でほっと息をついた。けれど同時に後ろめたさも覚えていた。私はこれから二人を裏切る。そう思うと、どうしても胸が痛んだ。
 いいえ、とウミは自分自身の考えを否定した。裏切るわけじゃない。私は私の幸せのために、二人のもとを去ることを決めたのだもの。「おまえの幸せが私たちの幸せだ」というのが、両親の口癖だったじゃない。私がここを離れるのは、二人の願いを叶えることでもあるのよ。

「どうしたの、ウミ?」
 母に呼ばれて、ウミは我に返った。
「なんでもないの」とウミは軽く首を振り、微笑んだ。「今日はもう休むわ。勉強もして、ご飯も食べたら、なんだか眠くなってきちゃった」
「わかった」と父が頷いた。「ゆっくり休みなさい」
 おやすみなさいと挨拶をして、ウミは席を離れた。広間の入り口に立っていたフウと目が合うと思わず足が止まったけれど、すぐにまた歩き出して広間を後にした。フウは追いかけてこなかった。彼女は、私が何かを企んでいることに気づいているようだった。それでも何も言わないのは、フウなりの優しさに違いなかった。彼女を一人、この城に残していくのは心苦しいけれど、フウならきっと、私がいなくてもうまくやっていけるだろう。両親だって、ずっとウミと一緒だったフウを、ウミがいなくなったというだけで邪険にするとは思えない。フウには誰よりも幸せになってほしかった。彼女の頭脳があれば、ラメール家の王位を継承することだって不可能ではない。むしろ、私よりもいい王女になってくれる気がする。

 ウミは足早に回廊を進んだ。明るかった空が、紫色に染まろうとしていた。
「三日後の夜に迎えにくる」
 彼にそう言われた日から、今日がその三日目だった。あの夜、彼はその一言を残してあっという間に去っていった。翌朝目覚めたとき、ウミは、すべては夢だったのだと思った。あまりにも会いたいと思っていたが故に彼が夢に出てきたのだろうと。ところがそうではなかった。あの出来事が現実に起きたことだと確信したのは、何気なくベランダへ出て、手すりのところに涙の痕を見つけたときのことだった。


 部屋へ戻ると、鍵をかけた扉に軽くもたれかかり、深呼吸をした。バルコニーから斜めに射し込んでくる日は、ウミの足元にまで届いている。部屋を見渡して、少しだけ切なくなった。この部屋とも今日でお別れなのだ。
 16年間、ずっとこの部屋で暮らしてきた。ここだけがウミの戻ってこられる場所だった。興奮して眠れない夜も、哀しくて眠れない夜もあった。それでもいつも、この部屋で朝を迎えた。けれど、今日は違う。今夜私は、あのバルコニーからこの部屋に、そしてこの城に別れを告げる。戻ってくることは二度とない旅になろう。
 目の奥が熱くなった。でも、今はまだ、泣いてはいけない。感傷に浸りかけた心を振り切るようにして、ウミは扉から離れた。

 ベッドの裏側へ廻ると、そっとカバーをめくった。くたっとした革製の鞄がひとつ、ベッドの下に隠されていた。ほとんど荷造りは済んでいる。あとは毎日使っているものを詰めるだけだった。荷造りの仕上げのため、ウミは鞄を引っ張り出した。ところがそのとき、部屋の扉をノックする音がした。ウミは思わず小さな悲鳴を上げて鞄を手放した。
「ウミ王女」
 聞こえてきたのは男の声だった。城付きの護衛だ。
 ウミは訝しがって眉根を顰めた。夕食を終えた後にウミを呼びに来る者など皆無に等しい。それが今日に限って、いったいなんだと言うのだろう。その場でゆっくり立ち上がると、ウミはベッドを廻って扉の手前まで歩いた。
「どうしたの?」とウミは、扉を開けずに尋ねた。
「おそれいります。両陛下がお呼びでございます」
「え?」とウミは目を見開いた。「お父様と、お母様が?」
 はい、と扉の向こうで男が答えた。
「折り入って王女様にお話ししたいことがあると仰せです」

 ウミはしばらく考えた。話が長引けば、クレフが迎えにきてくれたときに部屋の中にいられない可能性がある。それは絶対に避けたかった。いつ彼が来てもいいように、ここは断るべきだろう。一方で、断るのはかえって怪しいかもしれないとも思った。ウミはこれまで、父や母からの呼び出しを断ったことは一度もなかった。それが今日に限って断ったりしたら、何かあったのではと勘繰られるかもしれない。それは困る。旅立ちまで、私は誰にも気づかれてはならなかった。
「わかったわ」
 悩んだ末、ウミはそう答えた。
「すぐに行くとお伝えして」
 かしこまりました、と受けて、男は去っていった。

 一度は扉に手をかけたものの、そのままウミが鍵を開けることはなかった。手を離し、くるりと踵を返すと、再びベッドの裏へ戻った。中途半端に姿が見えていた鞄をベッドの下へ入れ、カバーをかけると、ウミは今度こそ部屋を出た。空は紫が濃くなっている。一番星が、夜の始まりを告げていた。


 広間へ向かう道すがら、何人かの兵とすれ違った。皆気配を張り詰めさせていた。ウミは覚えず顔を顰めた。着実に戦が近づいてきているのだということを知らされるようだった。
 こんな状態なのに、おまえは逃げるのか? 愛する者たちを捨てるのか?――兵たちがまとう鎧のこすれ合う音がそう問いかけてきているような気がして、胸がざわついた。それでも覚悟は変わらなかった。すべてを捨ててでも欲しいものがあった。

 小一時間ほど前に出てきたばかりの広間へ戻ると、父と母が玉座で談笑していた。ウミは入り口で立ち止まり、しばらく呆けてその様子を眺めていた。二人を見るにつけ、この国が戦へ突き進もうとしているとはとても感じられなかった。
 どうして平和は長く続かないのだろう。ウミはいつ何時よりも強く思った。両親だって、本心では、争うことなど望んでいないはずなのに。
「ああ、ウミ」
 父がこちらに気づいて顔を上げ、ウミを呼んだ。ウミはその場で軽く膝を折って挨拶をすると、二人のもとへ向かった。
「どうしたの? お父様、お母様」
 目の前で立ち止まり、ウミは彼らを交互に見ながら問うた。
「折り入って話したいことだなんて」
 父は答える前にまずウミに椅子を勧めた。それはつまり、この話が簡単に終わるものではないということを示すものだった。
 まさか――とウミは、われ知らず唾を呑んだ。まさか、私がこの城を出ようとしていることがばれたのでは。
 いいえ、そんなはずはないわ。ウミはすぐに思考を振り払った。もしもそうなら、両親がこんなに穏やかな表情をしているはずがない。

 勧められるまま、ウミは両親と向かい合う形で腰を下ろした。そうしてみてウミは、二人の雰囲気が必ずしも穏やか一辺倒というわけではないことに気づいた。少しの緊張と、そして少しの憂いを孕んでいた。自然と背筋が伸びた。ウミと目が合うと、父がその目を細めた。
「ウミ」と彼は静かに口を開いた。「今日まで16年、よく無事に、そして健康に育ってくれた。美しいおまえのことは、父として、私はとても誇らしい」
「お父様、そんな」
「今のおまえなら、受け止めてくれるだろう」と父は、身を乗り出したウミを遮るように畳みかけた。「今日は、おまえの出生について大切な話をするつもりだ」
 どくん、と鼓動が高鳴った。父が何のために自分を呼び出したのかはこれでわかったけれど、それはとても緊張を強いることだった。ウミは膝の上でぎゅっと拳を握った。両親が「そのこと」を打ち明けるということは、ひょっとしたら、今日これからウミがやろうとしていることを知られるよりも大きなことかもしれなかった。ウミは膝の上で揃えた手をぎゅっと握った。そして父は言った。
「おまえは、私たちのほんとうの子どもではない」

 あるいはその瞬間、頭を殴られたような衝撃を覚えるか、もしくは号泣するかと身構えていたけれど、どちらも起こらなかった。むしろ、それまでと比べてウミの心ははるかに落ち着きを取り戻した。まるで、胸につかえていた太い棒が取り除かれたかのような爽快感さえあった。そのことが、ウミの気持ちをすっと楽にした。自然と微笑むことができた。
「知ってるわ」とウミは頷いた。「なんとなく、そうじゃないかと思ってた」
 すると両親は、見たこともないほど動揺し、驚いた顔をした。そんな二人の表情がおかしくて、ウミは思わず吹き出してしまった。呆気にとられている彼らをよそに、ウミはなんだか、とても楽しかった。
「そんなにびっくりすることだった?」とウミは言った。
「当たり前じゃない」と母が答えた。「まさか、だって……それならあなた、ずっと、私たちのことをほんとうの両親じゃないと思って暮らしてきたの?」
 ウミはふるふるとかぶりを振った。
「そうじゃないわ。確かに、血の繋がりがないことは感じていたけれど、でも」
 一度言葉を区切って、ウミは両親を交互に見た。
「私にとっての父親はお父様しかいないし、母親も、お母様しかいないわ」
 ほんとうは、もっともっと言いたいことがあった。けれどそれ以上言葉を続けると涙が溢れてきてしまいそうだったので、ウミはそこでやめた。母が目を潤ませる。エメラルド色の綺麗な瞳が、まるで宝石のように輝いた。
「ウミ……」と、彼女が袖で目尻を押さえた。ウミは微笑んだ。
「話してくれてありがとう。お父様、お母様」
 血の繋がりなどなんだというのだろう。今、ここには確かに親子の絆がある。そのことが、ウミにとっては何よりも大切で、かけがえのないことだった。

 おや、と思ったのはそのときだった。
「でも」とウミはもう一度口を開いた。「どうして今、そのことを話してくれたの?」
 すると両親は互いの顔を見合わせ、そしてどちらともなく、若干自嘲気味な笑みを零した。
「いつかは話さなければならないと思っていたのだ」と父が言った。「戦になれば、いつ話してやれるかわからないだろう。本格的な争いに突入する前がいいとは思っていてね。タイミングは、常に探っていた」
 「戦」という言葉に、ウミは落ち着かない気持ちを抱いた。父の言葉は、「いつ死ぬかわからないからその前に打ち明けたい」とも捉えることができた。厭だな、と思ったけれど、その気持ちは押し殺し、なんとか頷くことができた。それ以上考えるのはやめようと、ウミは湧きあがりかけた気持ちに蓋をした。
「どうして私は、ラメール家の王女として育てられることになったの?」
 代わりにそう尋ねた。実の両親のことが知りたいとか、その人たちのもとへ戻りたいとか、そういう気持ちがあったわけではなかった。純粋に、自分の気持ちの矛先を逸らすために言っただけのことだった。実は城の前に捨てられていた子どもでした、という返事であっても構わなかった。どこで生まれ誰の子どもだろうと、そんなことはどうでもよかった。少なくとも、このときは。

「それはね、導師クレフのおかげなのよ」
 ところが母が言った言葉は、ウミの想像からはあまりにもかけ離れたものだった。
「え……?」とウミは大きく目を見開いた。
「『導師クレフ』という人、名前くらいは、おまえも耳にしたことがあるだろう」と父が確かめるように言った。「16年前のことだ。導師クレフは――」
 その後父が続けた内容に、ウミは言葉を失った。

***

 空の天辺から月が見下ろしている。ウミはバルコニーの縁に立ち、静かにその月を見つめていた。下弦のそれは、綺麗な弧を描いている。まったくあなたも間が悪いわね。そう言われている気がした。いつものウミなら反論していただろうけれど、このときばかりは何も言い返すことができなかった。せいぜい、見下ろしてくる月から視線を外さないようにするだけで精いっぱいだった。

 下弦の月は、星の光を邪魔しない。天の川が見えそうだった。北斗七星が、北の空に瞬いている。美しい夜空だった。哀しいほどに。ふう、とため息を落としたとき、視界の隅で何かが揺らいだ。
 ふと見ると、一羽の鳥がこちらへ向かって飛んできていた。遠くにあるうちはさほど感じなかったけれど、近づいてくると、その鳥はずいぶんと大きかった。背中に人を乗せていることに気づくまでに、そう長い時間はかからなかった。

 鳥はあっという間にウミのところまでやってきた。大きな両翼が羽ばたくと、緩い風がウミの頬を撫でた。鳥は、バルコニーの手すりに爪を掛けて羽を休めた。その背に乗っていた人は、ウミの姿を見ると顔を顰めた。
「王女?」と彼が訝しげな声を上げた。
 ウミはしばらく何も答えず、ただじっと彼の瞳を見つめていた。やがて、彼が一度瞬きをしたのを合図に顔を逸らすと、そのまま視線を床へと落とした。自分自身がまとう寝間着の裾が見えた。どう考えても、これから出かけることを前提にした恰好ではなかった。
「ごめんなさい、クレフ。私やっぱり、あなたとは行けない」
 視線を落としたまま、ウミは言った。クレフは何も答えなかった。愕然としているのだろうと思った。彼の表情を見るのが辛くて、ウミは顔を上げずに続けた。
「身勝手だってわかってるわ。でもやっぱり、お父様とお母様を裏切ることは、できないの」
 沈黙が流れた。とても重苦しい沈黙だった。

「……そうか」
 その沈黙を破ったのはクレフだった。彼はたった一言だけそう言った。理由を聞こうともしなかった。それが彼の優しさだということが、ウミには痛いほどよくわかっていた。胸が痛かった。その痛みをごまかすために、爪が掌に食い込むほど強く手を握った。
「ごめんなさい」とウミはもう一度言った。「もう、これで最後にしましょう」
「わかった」とクレフは答えた。ウミは少しだけ顔を上げた。クレフの口元までが見えた。それだけでは表情は窺えなかったけれど、もうそれ以上は耐えられなかった。努めて微笑んだ。上手くできていたとは思わない。無表情よりはましだと、自分に言い聞かせた。
「さよなら」と言って、ウミはクレフに背を向けた。
 彼からの答えを聞く前に、ウミはバルコニーを離れ、部屋へと続くガラス製の扉を押した。中へ入り、後ろ手に閉めると、その扉に寄り掛かった。暗い部屋の中に、星明りが入り込む。それはあの大きな鳥と、そしてクレフのローブの影を映し出した。

 お願いだから。ウミは心の中で祈った。お願いだから、早く行って。そうしてくれないと、もう耐えられない。
 ウミの気持ちが通じたのか、鳥の影がゆらりと動いた。そしておおらかな動きで羽を広げると、一瞬で影は見えなくなった。それは、堪え切れなくなった涙がウミの瞳から零れ落ちたのと同時のことだった。
 体に力が入らなかった。ウミはその場で膝から崩れ落ちた。視線の先には、無造作に広げられた鞄があった。あの鞄を抱えて、私は今ごろ、あの鳥の背に乗っているはずだった。クレフと並んで。でも、できなかった。別れを告げたのは私の方。もう、彼に会うこともない。


「導師クレフは、戦をなんとかして終わらせようとしていた」
 夕方、父は昔話を読み聞かせるような口調でウミに語った。
「戦も終盤に差し掛かっていた、ある日のことだった。突然、導師クレフが私たちのもとへやってきた。彼は生まればかりの赤子を抱えていた。それがウミ、おまえだった。
 そのとき、ラメール本家はすでに滅び、私たちと敵対していたもう一つの王家であるラクロワ家も、崩壊の瀬戸際にあった。導師がおまえを助けたのは、崩れる寸前のラクロワ城の中だった。ウミ、おまえは、ラクロワ家の一人娘だった。それを、導師クレフが戦火の中から救い、私たちのところへ連れてきた。彼は言った。『この子に罪はない。このまま野垂れ死にするのがこの子の運命だというのか。おまえたちにそんなことが言えるのか』と。私たちは反論できなかった。なにしろ私たちは、長い間子宝に恵まれなかったのだ。世継ぎは喉から手が出るほどほしかった。そのことを知っていたから、導師はおまえを、私たちのところへ連れてきたのだろう。私たちがおまえを見捨てることはないと踏んで。
 赤ん坊のおまえは、導師クレフの手を離れると途端にぐずり出した。それでも、エメロードが懸命にあやしていると、いつしか泣き止んだ。おまえを抱いたエメロードを見て、私は決めた。おまえを私の子として、ラメール家の王女として育てていくことを。
 同時に、戦についても、終結させることを約束した。生き延びていたわれわれラメール家、そしてフロイト家の両家がセフィーロを分割統治するという結論で、合意を見た。ただ……当時の私は、まだ若かった。それだけでは面白くなくてね。おまえを引き取り、戦争を終結させる代わりとして、導師クレフに交換条件をつきつけた」

 一度言葉を区切り、父は過去を懐かしむように目を細め、窓の外を見た。
「畏れていたのだ、導師クレフの持つ『力』を。当時彼は、ラメール本家の人間だったが、それにも拘らず、彼はすべての王国の人間から尊敬を集めていた。理由は単純だ。彼が常に中立だったからだ。どの王家の人間に対しても、おしなべて均等に接した。それに彼は、人並み外れた魔法力の持ち主でもあったからな。彼を長としてセフィーロを統一したいという声もあったほどだった。そんな彼の力は、私にとっては脅威だった。だから告げたのだ、『すべてはあなたの力と引き換えだ』と。膨大な魔法力は封じ、二度とラメール家とは関わりを持たないでくれと。
 まったく、今になってみれば馬鹿な話だ。そのような条件がなくともおまえのことは育てていたし、戦争は、遅かれ早かれ終わっていただろう。導師クレフとて、そのような条件を突きつけられるような謂れはなかった。それでも彼は、その条件を呑んだのだ。数日後、彼は幼い子どもの姿となって私たちの前に現れた。一定以上の魔法力は使えないように術を掛けた、術を解くときは私が死ぬときだと、彼は言った。それからいくらも経たぬうちに、導師クレフはラメール家から忽然と姿を消した。今はどこにいるのかもわからない。生きておられるのか、あるいはどこかで誰かに看取られたのか、それすらもわからない」

 何も知らない父は、そのときまで何も知らなかったウミに向かって微笑んだ。
「あのとき、導師クレフがおまえを抱えてやってこなければ、私はおまえに出逢うこともなかっただろう。おまえのような尊い娘を、みすみす殺してしまうところだった。すべては導師クレフのおかげなのだが、礼を告げるべき人は、どこにいるのかさえ。それに私には、礼など口にする資格はないのだ。彼を追いやったのはほかでもない、私自身だったのだから」

 ようやくわかった。どうして私が戦に対して強い嫌悪感を覚えるのか。生まれたばかりのウミは、炎に包まれ、命の危険に曝された。その原因となったのが戦だった。だから無意識のうちに、そのときの恐怖が「戦」という言葉によって蘇るのだ。頭は覚えていなくても、心の奥深いところが覚えているのだろう。

 16年前に死ぬはずだったウミは、クレフの手によって助けられた。ウミの命と引き換えに、クレフは自らの幸せを失った。子どもの姿になり、魔法力を封印し、本来いるべきだったラメール家を追放されてまで、彼はウミを助けてくれた。その事実を、ウミは今日まで知らなかった。知らずにのうのうと、彼とともに逃げ、彼とともに生きていこうとしていた。
 そんなことは赦せるはずも、赦されるはずもなかった。私には、クレフの隣にいる資格はない。彼とともに生きていくべきは、私ではない。
 その気持ちは強く、揺るぎなかった。けれど、それならばどうして今、こんなにも涙が出るのだろう。

 ウミは床に突っ伏した。泣いても泣いても涙は止まらなかった。さようなら、クレフ。あなたのことが、ほんとうに好きでした。「好き」という一言さえ言えなかったけれど、あなたの幸せをいつも願っています。どうかお幸せに。ウミは泣きながらそう言っていたつもりだった。いつの間にか泣きつかれて眠ったことにさえ、気づかなかった。




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プロフィール

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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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