蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

韜晦 10. 破鏡

中編

それが私の約束だった。私の、私との約束だった。

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 パタン、と静かに扉が閉まる。それを見送り、アスコットは窓の外を向いた。無口な横顔を見つめながら、私はきゅっと拳を握った。
「なに? 話って」
 私は再び、鏡の前にある真紅のビロード椅子に腰掛けていた。ただし今度は、先ほどとは違い、自分が映っているであろう大きな鏡には背を向けている。アスコットと二人きりになった部屋は、気のせいかずいぶんと広く感じた。
 アスコットが口を開くのを、私はただじっと待った。横顔だけでは、彼が何を考えているのかまではわからない。不安だった。わからないということは、何よりも人を不安にさせる。それでも私は、何を言われても驚くまい、可能な限り受けとめるのだと、自分自身の心に言い聞かせていた。アスコットはほかでもない、一生を添い遂げるとこれから誓うべき相手なのだ。もう覚悟はしたのだから、いまさらすべてをひっくり返すわけにはいかなかった。

 やがて、アスコットがゆっくりとこちらを振り返った。椅子に腰掛けている私に対してアスコットは立ったままなので、見上げないと視線をぶつけることができない。もっとも、たとえ顔を上げたとしても、アスコットの瞳は長い前髪に隠れてしまっているので彼と目を合わせることはできないのだけれど。
 二人の間には距離がある。この距離を埋めるには、いったいどうしたらいいだろう。私は頭の片隅でぼんやりと考えていた。
「ウミ」
 真っすぐ見つめた私に向かって、アスコットは静かに口を開いた。そして言った。
「今日、君が結婚する相手は、僕じゃない」
 私は目を見開き、絶句した。

 ぞくりと背筋が凍った。私は咄嗟に自分の姿に目を落とした。すべてが夢で、今その夢から醒めたのではないかと思った。けれど違った。私は変わらずウェディングドレスを着ていた。私は今日、アスコットと結婚する。それは現実に今起ころうとしていることであって、夢ではない。
 なんと言っていいかわからなかった。口を開くと、乾いた笑みが零れた。
「やあね、アスコット」と私はぎこちない口調で言った。「よしてよ、そんな悪い冗談――」
「冗談なんかじゃない」
 私を遮り、アスコットはぴしゃりと言い放った。私ははっと息を呑んだ。
 アスコットの瞳は、相変わらずその長い前髪に隠れている。私はいつも、彼と目を合わせて会話がしたいと思っていた。けれど今日ばかりは、その瞳が見えなくてよかったと心底思った。目が合っていたら、きっと激しく取り乱しただろう。

 二人をあざ笑うかのような沈黙が、部屋の支配者となる。私は大きく息を吸い込んだ。どくん、どくんと、耳元で大きく脈打つ鼓動が聞こえた。
「どうして?」と私は言った。どんなに冷静になろうと頑張っても、声の震えは隠せなかった。「私のこと、嫌いになったの?」
「そうじゃない」とアスコットは答えた。とてもはっきりした声で、嘘をついているようには聞こえなかった。体の脇で、彼は両方の拳を固く握り締めている。白い筋が甲に浮かんでいた。
 私と同じように一度深く息を吸い込んだアスコットは、もう一度、先ほどよりもトーンの落ちた声で、「そうじゃない」と言った。
 前髪の奥に、きらりと光るアスコットの瞳がようやく見え隠れする。出逢ったときの幼さをまだ残した、純粋な瞳だった。
「ウミ」とアスコットは言った。「君がほんとうに結婚するべきなのは、導師クレフでしょう」

 その瞬間、私は強い眩暈と吐き気を覚えた。背中を冷や汗が伝う。耳にぶら下がった大きめのピアスが揺れ、小さな音を立てた。
「なに、言ってるの」
 その言葉は、このときの私の精いっぱいだった。声だけでなく、膝の上で揃えた手も震えた。押さえようとして強く膝に押しつけても、まったく効果はなかった。むしろ、そうすることによって手の震えがあからさまに全身に伝わり、余計震えを助長した。

 心の中に、無視できない可能性が否が応でも浮かんだ。考えるも恐ろしいことだったけれど、そうだとすればすべてのつじつまが合う。私はごくりと唾を呑んだ。――まさか、あの夜のことがばれたのだろうか。たった一夜、アスコットのことを忘れてすべてをクレフに委ねた、あの夜のことが。
 いや、と私は心の中でかぶりを振った。そんなはずはない。あの日以来、私にもアスコットにも、特別不自然なところはなかった。私はあの夜のことは記憶の彼方に葬り去っていたし、アスコットがあの夜のことを知るすべはないはずだった。


 あの夜の翌朝、家に戻ると、アスコットは玄関先を行ったり来たりしていた。よほど心配してくれていたようで、私の姿を見止めると、くしゃっと破顔し駆け寄ってきたのだった。どこへ行っていたのだと訊いてきたアスコットに、私は事前に考えていたとおり、「市場から帰る途中で近道をしようと入った森の中で道に迷ってしまった」とよどみなく答えた。アスコットに疑っている様子は微塵もなかった。あの日以降、私はクレフには一度も会っていない。二人しか知り得ないあの夜のことを、私がしゃべるはずはないのだから、クレフが口を割らない限り、アスコットの耳にあの夜のことが入る可能性はなかった。そして、クレフはそんなことをする人ではなかった。
 けれど、ではなぜ今になって、それもこれから挙式だというときに、アスコットはこんなことを言い出したのだろう。解せない私はただ、彼の次の言葉を待つしかなかった。

 後戻りするつもりはなかった。私はアスコットと結婚する。それがクレフの望みだから。
 あり得ない、本来ならばあり得てはいけない理由だということは、痛いほどわかっている。それでも私は、その考えを変えるつもりはなかった。「クレフの望みだから」、その理由がすべてだった。その理由がなければ私は、アスコットと結婚することなどできなかった。
 夜が明けたら、すべてを忘れ、自分を想ってくれる人を大切にする。それがクレフとの約束だった。それは彼自身が望んだことだった。最初はただの望みでしかなかったそれに、私は「約束」という縛りを与えた。その縛りをもって、私は彼をねだった。欲しかったものは手に入れたのだから、約束を破るわけにはいかなかった。

 これからのことを思うと、再び眩暈に襲われそうになった。たとえアスコットが何を口にしたとしても、どれだけ罵られたとしても、甘んじて受け、耐えなければならない。それが私の約束だった。私の、私との約束だった。あの一晩の罪は、私が一生を掛けてあがなっていかなければならないものだった。

 ところが、アスコットが次に発した言葉は、私が予想していたどの言葉とも違った。
「僕は、君に謝らなくちゃいけないことがあるんだ」と彼は言った。
 私はきょとんとした。
「謝る?」
 頷き、アスコットは俯いた。そのせいで、彼の瞳はますます前髪の奥へと隠れてしまう。
「僕は、ほんとうに卑怯だった」
 唇を噛み、アスコットは言った。
「こんなことをしたくらいじゃ赦してもらえないことも、わかってる。でも、僕はやっぱり、ウミには誰よりも幸せになってほしいんだ」
「ちょ……ちょっと待って、アスコット」と私は言った。「どういうことなの? 何のことだか、話が――」
「知ってたんだ、僕は」とアスコットは私を遮った。
「え?」
「知ってたんだよ、ずっと前から」とアスコットは言った。疑いのない口調だった。「ウミが導師クレフのことを好きなことも、導師クレフの方も、ウミのことをずっと大切に思っていたっていうことも」

 私は目を見開き、息を呑んだ。アスコットの言うことは、後半部分はともかく、前半部分は正しかった。自覚がなかっただけで、私はずっと前から――おそらく、出逢ったときから――クレフのことが好きだった。けれど、私がそのことに気づいたのはほんのひと月ほど前のことだった。それなのに、当人でさえ知り得なかったことを、アスコットは「知っていた」という。いつから? いったい、どうやって。
 言葉を返せずにいると、アスコットはふっと肩を撫で下ろした。
「僕は、ウミがまだ自分の気持ちに気づいていなかったことを利用したんだ」とアスコットは言った。「ウミは優しいから、僕が『恋人になって欲しい』って言ったら、絶対に『いいよ』って言ってくれると思ってた。だから、ウミが導師クレフへの気持ちを自覚する前に、自分のものにしてしまおうと思ったんだ」
 アスコットの視線の先を追いかけて、私も窓の外を見た。ガラスの向こう側に広がる、燦燦と降り注ぐ日の光を存分に受ける庭は、憎たらしいほどに美しい。

「でも」と、窓の外を見たままアスコットが口を開いた。「ウミが僕と暮らしてくれるようになってから、ずっと怖くて仕方がなかった。ウミがもし、自分の気持ちに気づいてしまったら、僕から離れていってしまうかもしれないと思ったんだ。だから」
 一度言葉を区切り、アスコットは声を強張らせた。
「ウミに告白してすぐに、導師クレフのところへ行ってお願いしたんだ。『もう、ウミとはあまり関わらないでほしい』って。『ウミを幸せにできるのは僕であって、あなたじゃない』って」
 私は目を見開いた。アスコットが俯く。彼の後ろに伸びた影は、とても短い。
「導師クレフは、『わかった』って言ってくれた。きっと、ウミが僕の気持ちに応えてくれたから、そのことを慮ってくれたんだと思う」
 クレフの笑顔が脳裏に浮かんだ。アスコットの横顔とは似ても似つかなかった。
「そのあとから、君と導師クレフはあまり接しなくなったんだ。導師クレフのやり方はとても自然だったから、ウミは全然、おかしいとは思わなかったでしょう?」
 そこで初めて、アスコットがうっすらとながら笑みを浮かべた。

 私は黙するしかなかった。発するにふさわしい言葉を見つけられなかった。アスコットの言うことは、まさに寝耳に水だった。
 確かにアスコットの言うとおり、思い返せばこの数カ月、クレフとの接触は極端に減っていた。薬湯をもらう機会も、彼の小屋を訪れることもほとんどなくなっていた。けれどそれをおかしいと思ったことは一度もなかった。アスコットの言葉を借りれば、「とても自然」だった。それがまさか、すべてクレフの手によってコントロールされていた自然さだったなんて。

「この数カ月、僕はほんとうに幸せだった」とアスコットは言った。「ウミは毎日僕に優しく接してくれたし、二人で食べるご飯は、信じられないくらいおいしかった。でも、少し前からうすうす感じるようになったんだ。ウミが、たまにどこか遠くを見ていることがあるって。導師クレフへの気持ちに、気づいたんだね」
 少しでも気を緩めたら、今すぐにでも涙が溢れ出てしまいそうだった。今アスコットに見限られたら、もう生きていかれない。自分の心に蓋をして、「約束」のために、ようやく彼とともに生きていこうと決心をつけ、この日を迎えているというのに。
「最初は、見て見ぬふりをしていたんだ。でも、駄目だった。僕の方が辛かったんだ。僕を見て笑うウミを見るたびに、ひとつずつ罪を重ねていっているような気がして。笑顔の裏で、君は泣いてるんじゃないかって、思ってしまうようになった」
 そこまで言って、アスコットがようやくこちらを振り向いた。前髪の奥に、つぶらな瞳が見える。私を優に超える背丈があっても、アスコットはずっと幼いころのままだと思っていた。けれどもう、その瞳に、幼さの色は見えない。
「ほんとうにごめん、ウミ。僕は信じられないくらい自分勝手だった。自分の幸せばかり考えて、ウミにとって何が本当の幸せなのか、全然考えていなかった。ウミの優しさに、ただ甘えていただけだったんだ」
「アスコット……」
 ふっとアスコットが口元を緩める。浮かんだ笑みは、どこか自嘲気味だった。
「君も導師も、優しすぎるんだよ。自分の幸せより、他人の幸せばかり考えてさ。僕とはまるっきり、正反対なんだから。でも、僕はそのウミの優しさに、ずっと救われてきた。だから最後くらいは、僕に恩返しさせて」
 私は首を傾げた。アスコットが、今度は自嘲気味にではなく、吹っ切れたように笑った。そしてその笑顔で、言った。
「僕に、君を振らせて欲しい」

 私は目を見開いた。
「どういうこと?」
「僕が身を引いただけじゃ、君たち……特に導師クレフは、納得しないでしょう」と言って、アスコットは肩を竦めた。「けど、ウミが僕に振られたっていうことにすれば、話は別だ。ウミには何の責任もない、僕が勝手に心変わりしたっていうことになる」
「そんなこと……!」
 私は思わず椅子から立ち上がった。なおも言い募ろうとしたが、アスコットがこちらに手のひらを向け、「いいんだ」と言った。
「これは、ウミの気持ちを考えてこなかった僕の、僕なりのお詫びのしるしなんだ。受け取ってくれないかな。今度こそ、ウミには幸せになって欲しいから」
「でも」
「お互いのためにもそうしよう」とアスコットは私を遮った。「ウミは、導師クレフへの気持ちを僕に隠していた。僕は、ウミの気持ちに気づかないふりをしていた。喧嘩両成敗だ。僕は君を振る。君は僕に振られる。これで五分五分だよ」
 ね、とアスコットは言った。五分五分なんかじゃない。アスコットの方がずっと多くのことを与えてくれる。胸が痛くて、私はぎゅっとドレスの胸元をつかんだ。鋭いけれど、それでいてとても柔らかい痛みだった。アスコットの笑顔が、痛んだ胸に沁みた。こんな優しい人に出逢い、好かれた私は、なんという幸せ者だろう。

 目頭が熱くなる。視界がぼやけそうになったそのとき、アスコットが慌てて、「駄目だよ!」と駆け寄ってきた。
「今はまだ、泣いちゃ駄目だ。導師クレフが待ってるんだから」
「え?」
 思いがけないアスコットの一言に、私の涙はぴたりと止まった。「クレフが待っている」? どういうことだろう。きょとんとした私に、アスコットが穏やかに微笑んだ。そして彼は、私の肩にそっと手を乗せた。
「『式の前に話たいことがある』って言って、僕がチャペルに導師クレフを呼びだしたんだ。今ごろきっと、首を長くして待ってるよ」
 言葉を失った私に向かって、アスコットがこくりと頷いた。
「さあ行くんだ、ウミ。君を本当に幸せにしてくれる人のところへ」

 一秒で泣ける自信があった。それでもなんとか堪えたのは、アスコットの心遣いに報いたかったからだ。今はまだ泣いてはいけないという彼の言葉を、守りたかった。
 アスコットは私のことを「優しすぎる」と言ったけれど、ほんとうに優しいのはアスコットの方だ。優しくない人は、こんな風に、人の幸せを後押ししたりしない。
「ありがとう、アスコット」
 精いっぱい微笑んで、私は言った。笑うことしか、今の私にできることはなかった。
「お礼を言うのは僕の方だよ」とアスコットは言った。「今までほんとうにありがとう。そして……末長くお幸せに」
「ええ」と私は頷いた。「きっと」

 ドレスの裾を持ち上げ、私は駆け出した。最後の最後になってようやく、偽りのない心からの笑みをアスコットに見せることができたと思った。
 胸の高鳴りが、チャペルに鳴り響くであろう鐘の音のように聞こえる。その音だけを聞きながら、私は誰もいない教会の中を駆け、チャペルへ向かった。たどり着いたとき、私は歩みを止めて一度深呼吸をした。
 胸に手を当て、目を閉じる。瞼の裏に、アスコットの笑顔が浮かんだ。
「『末永くお幸せに』」
 彼の言葉を反芻した。くれた想いは、決して無駄にはしない。そう心に誓い、私は目の前の扉を両手で押した。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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