蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 1. 最悪の出逢い

10万ヒット企画

10万ヒット企画、二作目は現代パラレル社会人編です。読み進めていただければわかると思いますので、設定についての説明は省きます。

本文は「続きを読む」からどうぞ。





 社会人一年目は、一度も寝坊なんてしたことはなかった。飲みに出かけて帰りが遅くなった翌日も、長期休暇の後も、いつも決まって同じ時間に起きていた。それなのに、今日に限って。二年目になって正式に部署に配属となる、その初日に限って寝坊するなんて。
「もう! こんな日に目覚ましの電池が切れなくたっていいじゃない!」
 駅まで走りながらつい毒づいてしまう。鞄の中で財布や携帯が踊っている。ヒール靴が走り辛くてかなわない。時折舌打ちをしながら、それでも走る速度は決して緩めない。
 いつもより明らかに人通りが少ない通りは、足音を余計にうるさく響かせる。やっぱり一人暮らしなんてするんじゃなかった――そう思いかけて、やめた。もう24歳になるいい大人が、いつまでも親のすねをかじっているようではいけない。振り切るように、私は風を切って走り続けた。

 努力のかいあって、なんとか遅刻を免れるぎりぎりの電車に飛び乗ることができた。こういうとき、学生時代にずっと体育系の部活をやっていて心底よかったと思う。足腰の強靭さは、一日二日でどうにかなるようなものではない。基礎ができているから、こうしてたまに無理をしても、筋肉痛になることはほとんどなかった。
 いつもは余裕を持って出るから必ず座れるのだけれど、今日の電車は、同じ路線のものとは思えないほどの人で溢れ返っていた。座るどころか立っていることさえ難しい。ぎゅうぎゅうと前からも後ろからも押されて気分が悪くなる。私が降りる駅ではいつも乗客の六割近くが降りる。どこに立っていても降りるのに苦労することはまずないので、車内の中ほどまで、人の流れに乗って進んだ。

 電車が発車したところで、ふう、とようやく息をつく。なんとか始業には間に合いそうだ。初日から遅刻なんて、とても新人がすることじゃない。
 今日から配属される部署は、会社の中でも花形とされる部署で、やりがいはあるけれどノルマがきついとか、部員同士の仲はいいけれどその分ライバル意識も高いとか、いいのか悪いのかわからないような噂しか聞かなかった。とにかく注目度の高い部署であることは確かだ。希望したわけでもないのにどうしてそんな部署に私が配属になったのかは、いまだに謎だ。人事いわく、新人の配属は「それぞれの適正を見て判断している」そうだから、私に適している部署であることを祈りたい。
 配属が決まったのは先週の金曜日のことだった。リサーチする暇もなかったので、どんな人が部署にいるのか、まるで知らない。上司によって仕事のやりやすさが天と地ほどにも違ってくることを、この一年、いろいろな部署を見て廻ってひしと感じた。怖い人じゃなければいいんだけど。せめてどんな部長かくらいは、人事の人に聞いておけばよかったかもしれない。

 そんなことを考えていると、電車が急カーブにさしかかり、私の方にぐっと乗客の体重が掛かってきた。咄嗟に目の前のつり革をつかもうとするも、あいにくそれを別の人につかまれてしまう。伸ばした手を引っ込めることもできず、私はつり革がぶら下がっている鉄棒にしがみついた。キュキュキュ、と電車が鳴る。まるで女の人の金切声のようで、私はこの音が嫌いだ。

 急カーブが過ぎると、すぐに次の駅に着いた。ここではあまり人は降りないから、乗車率は高まる一方となる。この次が、私の降りるターミナル駅なのだけれど、そこまでは五分近くの乗車時間があった。その間、この蒸し風呂のような車内の空気に耐えなければならない。前に立っている男の人のスーツにフケがたまっているのを見てうんざりしたけれど、寝坊した私が悪いのだと覚悟を決めて、大人しく目を閉じた。「閉まっておりまーす」という駅員の声がする中、扉が閉まり、電車は動き出した。


 通勤電車内というのは、いつも張り詰めた空気に包まれている。まるで一触触発の戦前のようだと、私はいつも思う。咳をしただけでも響くし、こうも隣の人との距離が近いと、そのうち互いの心臓の音くらいは聞こえるようになってもおかしくない気がする。実際、すぐ近くで誰かが呼吸をする音が、さっきからまるでBGMのように規則正しく響いている。
 呼吸音の荒い人というのは、ある程度の人数が集まれば必ず一人はいる。一年目の最後に研修をした部署の部長を思い出した。典型的なハゲ頭で巨漢のその部長は、いつも呼吸音が荒くて、季節関係なく汗をかいていた。仕事の出来不出来に関わらず、ああいう部長はできれば勘弁願いたい。ため息をつきかけた、そのときだった。背中にやけに密着してくる手の感触に気づいた。

 気のせいだと思おうとした。これだけぎゅうぎゅうになっていれば、間違って手が触れてしまうこともあるだろうと。
 電車の揺れに合わせて、さりげなく身をよじる。ところがそうすると手も一緒についてきて、ついには私のおしりに触れてきた。
「っ……!」
 カッと顔が赤くなるのを感じた。気持ち悪くて吐きそうだった。撫でまわすように触れてくるその手が不気味すぎる。不意にあの荒い呼吸音が聞こえてきた。その音は、今となってはもう興奮しているときのそれにしか聞こえなかった。きっとあの人なんだわ――実際には顔は見えないのに、どうしてもあのハゲ頭巨漢に脳内変換されてしまう。眩暈がした。

 どうしよう、どうしよう。私はぐるぐると考えた。こめかみを冷や汗が伝う。叫ぼうかとも思うが、しかしこれだけぎゅうぎゅうになっていれば、相手を捕まえるのは至難の業だ。
 次の駅まで、まだあと二分もある。耐えられる気がしなかった。かといって、どうしたらいいかもわからない。私はぎゅっと目を瞑った。お願いだから、早く次の駅に着いて。心の中で強く願った。足ががくがくと震え出す。堪らず胸のあたりで片手を握りしめた。

 そのときだった。電車が大きく揺れたわけでもなんでもなく、突然、私の腰から手が離れていった。えっ、と後ろを振り向こうとすると同時に、呻き声が聞こえた。
「うわあっ」
 途端、車内の空気がさっと凍りつく。思わず身震いした。周囲の視線が、私を通り越してその後ろへ向かう。つられて私も振り返った。すると、どう見ても堅実なサラリーマンにしか見えないような男性が、苦しげに顔を歪めていた。その隣に、あの呼吸音の荒い人が立っている。彼は目を丸くしてサラリーマンのことを見、ひいっと喉を鳴らして身を引いた。私は虚を突かれた気分だった。痴漢の正体はあの人じゃなかったんだ。
 改めて、堅実なサラリーマンのことを凝視する。どこにでもいそうな人だった。頭は七三分けで、黒縁のメガネをかけ、ネクタイをきっちり締めている。彼は左手で、自分の右肩を押さえていた。

「悪あがきはよせ」
 不意にサラリーマンの後ろから低い声がした。さほど大きくない声だったが、凄みがあって、静かな車内にはよく響いた。
「もうすぐ次の駅だ」
 同じ声が言った。するとサラリーマンは、すっかり気落ちした様子でしゅんと項垂れた。左腕はだらりと下ろされたが、右腕は見えない。ひょっとしたら、あの凄みのある声の持ち主が押さえているのかもしれない。顔を見ようと首をもたげたけれど、どれがその人なのかわからなかった。そうしているうちに電車は速度を落とし始め、やがて完全に止まった。

 扉が開かれると、私と同じ車両に乗っていた人は、まるで逃げるようにして次々と降りていった。私も人の流れに乗ってホームに出る。そのままあの堅実なサラリーマンの後ろをついていくつもりだったのに、途中で見失ってしまった。
 人の流れからようやく抜け出し、サラリーマンを探す。群れを成した人混みが、一斉に階段へと流れていく。ホームの混雑が緩和されると、すぐにサラリーマンを見つけることができた。意外と近くにいて、どきりとした。彼は抵抗するそぶりはまったく見せておらず、ただ項垂れていた。サラリーマンを押さえつけていたのは、一人の青年だった。

 無意識のうちに、私はごくりと唾を呑んでいた。そっとそちらへ歩み寄る。青年が私に気づいてこちらを向く。目が合うと、思わず足が止まった。私の目は、サラリーマンではなく、その青年の方に釘付けになってしまった。
 息を呑むほどに綺麗な顔立ちをした人だった。白い肌に、真っ青な瞳がよく映えている。薄紫色の髪は、風が吹くと素直に靡いて繊細だった。
 彼はサラリーマンを押さえる手にまったく力を籠めていないようだったが、サラリーマンはびくともしなかった。関節のポイントを押さえているのかもしれない。そのサラリーマンを体の前にぐいと引っ張り出し、青年が私を見た。
「さて」と彼は言った。電車の中で聞いた、あの凄みのある声と同じだった。「どうする?」
「え?」と私は目を丸くした。
「この男をどうするかと聞いているんだ」と言って、彼はちらりとサラリーマンに視線を落とした。「警察を呼ぶか、それとも」
「勘弁してください!」
 青年を遮り、サラリーマンが初めて声を上げた。顔を上げて私を見る。痛切に訴えかける瞳だった。声まで堅実そうな人だった。
「赦してください。つい、魔が差してしまったんです。もう二度としませんから、どうか、警察沙汰だけには」
「――だそうだが?」と言って、青年も私を見た。

 私はじっとサラリーマンを見つめた。年は30代後半といったところだ。とっくに結婚して、子どもがいてもおかしくない。彼が警察に捕まるようなことがあったら――それも痴漢容疑で――、家族はきっと哀しむだろう。
 彼は心底反省しているように、私には見えた。もしかしたら仕事のストレスでも溜まっていて、今日は月曜日だし、出来心でやってしまったのかもしれない。
「もういいわ」と、私はサラリーマンから視線を外し、彼を押さえつけている青年を見上げて言った。「そう言ってるし、離してあげて」
 青年が、私の真意を測るようにじっと見つめてくる。そんなに真っすぐ見つめないでよ、と私は内心で叫んだ。しまいには直視できなくなってしまって、私の方が顔を逸らした。

「わかった」
 やがて青年は言った。彼がぱっと手を離すと、サラリーマンはよろけて前のめりに何歩か進んだ。私の前で体勢を整えると、彼はちらりと私を見上げて、それから深々と頭を下げた。その左手の薬指には、思ったとおり、指輪がきらめいていた。
「すみませんでした」
 それからサラリーマンは、一度も私や青年とは目を合わせず、逃げるようにして階段を駆け下りていった。


 彼の姿が見えなくなると、私ははっとわれに返り、傍にいた青年の方を向いた。
「あ、あの」
 声が不自然に裏返った。
「助けてくれて」
「君にも非はある」
 ありがとう、という私の言葉に被せるように、青年が言った。
「……は?」
 覚えず頬が引き攣った。青年は面倒くさそうにため息をつき、両手を腰に当てると、眉間に皺を寄せて私の全身にさっと目を走らせた。
「そのような恰好をしていたら、誘われていると誤解されても仕方がないだろう」
 言われて、自分自身の体に目を落とす。そして思わず悲鳴を上げそうになった。寝ぼけた頭で選んだ服は、胸元が深く開いたカシュクールのワンピースだった。中に着ているキャミソールはほとんど意味を成さず、なけなしの谷間がくっきりと見えている。これは確かに、青年の言うとおりかもしれない。そんなつもりはなかったけれど、この恰好はさすがに、満員の通勤電車にはふさわしくない。

 穴があったら入りたかった。一応辺りに目を走らせたけれど、当然そんな穴などなかった。縮こまり、俯く。そうすると、青年がふっと笑ったように聞こえた。
「狙われたくなければ、もう少し早く起きて、はっきりとした眼(まなこ)で服を選ぶことだな」
「なっ……!」
 私はカッとなって顔を上げた。青年は、まったく頭にくるようなドヤ顔を作っていた。私が怯んだ隙に、そのままの表情でくるりと踵を返す。そして一人でさっさと階段を降りていってしまった。
「余計なお世話よ!」
 離れていく背中に向かって、気がついたら叫んでいた。周囲にいた人たちが、ぎょっとして私を見る。けれど肝心の青年はまったく振り向かず、あっという間に人混みの中へと消えてしまった。
 期せずして周囲から注目を浴びてしまい、私は赤面した。ところが次の瞬間、
「あっ」
 とまた声を上げることになった。腕時計に目を落とすと、始業の9時まであと15分しかなかった。
「いけない!」
 私は慌てて階段を駆け下りた。ヒール靴がカンカンと大きな音を立てて、われながらうるさいなと思った。

***

 エレベーターに乗ると、無意識のうちに、直前まで研修していた部署がある階のボタンを押しかけた。すんでのところで止めて、今日から配属になる部署がある階のボタンを押した。
「もう! 何なのよ、あの人」
 ほかに乗員がいないのをいいことに、私は大きな声を出して地団駄を踏んだ。
「『君にも非はある』ですって? こっちは痴漢に遭ったのよ、せめて『だいじょうぶですか』くらい言ってくれたっていいじゃない」
 目が合ったときに一瞬でも胸を高鳴らせてしまったことは、一生の不覚だ。あれだけのルックスなら、普通は絶対にモテるだろうに、とても彼女なんかいそうにない。年は私と同じくらいに見えたからおそらく社会人なのだろうけれど、あんなのと一緒に働かなければならない人たちには心底同情する。

 階数を告げるアナウンスを日本語と英語の両方で行い、エレベーターが止まった。開かれた扉から、滑るようにして外へ出る。左に曲がって廊下に出ると、扉の前に見知った後姿があった。笑顔になって、私は彼に駆け寄った。
「アスコット!」
 肩を叩くと、彼がはっとしてこちらを素早く振り返った。
「海」と、肩を撫で下ろしながら彼は言った。「遅かったね。待ってたんだよ」
「ごめんなさい。寝坊しちゃって」
 私は肩を竦め、それから扉の上に掛かっているプレートを見た。「プロデュース戦略部」――それが、今日から私とアスコットが配属される部署の名前だった。

「行きましょうか」
 アスコットを見上げて、私は言った。うなずくも、アスコットの横顔は明らかに緊張している。一方私はというと、新しい部署での仕事に対するワクワク感の方が強かった。強いと言っても、せいぜい六対四くらいの話なのだけれど。
 首から提げた社員証を、扉の横にあるセンサーに翳す。ガチャリと鍵が開く音がした。アスコットがノブに手を掛け、私を先に中へと促す。礼を言って、私は一歩踏み入れた。すると目の前を、書類の束を持った男性が通り過ぎていった。
「あ、あの!」
 咄嗟に呼び止める。きょとんとして立ち止まった彼は、私よりもいくつか年上だった。私はアスコットと顔を見合わせ、それからもう一度目の前の男性を見た。
「あの、私たち、今日からこちらに」
「ああ」と男性が私を遮って破顔した。「新人さんだね? 待ってたよ。ごめんね、紹介したいんだけど、部長がまだ来てなくて……」
 言いながら彼は、首を後ろに向けてざっと辺りを見回した。そのとき、私の後ろで扉が開く音がして誰かが入ってきた。けれど私は目の前の男性に気を取られていて、後ろからやってきた人にまでは気が回らなかった。その人は私たちの脇を通り過ぎて、さっさと奥へ行こうとした。それを、私の前に立っていた男性が見止めた。
「あ」と言って、男性は目を細めた。「部長」
 えっ、と私は思った。思うに留まらず声に出ていたかもしれない。条件反射で背筋が伸びる。部長に対する第一印象は何よりも大事だ。それは一年目のときに散々教えられたことだった。

「遅かったじゃないですか。部長が来ないから議論が先に進まないって、みんなで嘆いてたところですよ」
 「部長」に向かって男性は言った。言葉や表情の節々に、「部長」に対する信頼が滲んでいる。きっといい部長さんなんだろうなと思った。案外素敵なところに配属されたかもしれない。一瞬でも、私は確かにそう感じた。
 私は「部長」に目を向けた。とびきりの笑顔で、第一印象は完璧にしてみせる。そう意気込んでいた。彼の横顔を見るまでは。
 私の顔は、笑顔を作ろうとしたその時点で硬直した。
 え、なんでこの人がここにいるのよ。と私はまず思った。そしてその直後に、この人が部長なわけないじゃない。彼を「部長」と呼んだ男の人、頭がおかしくなっちゃったんじゃないのかしら。と思った。

「あ、そうそう」
 私にはわからない言葉も使って「部長」と話をしていた男性が、思い出したように私たちの方を向いた。
「部長。新人さんが来てますよ」と彼は言った。その視線の先を追いかけるようにして、「部長」が初めて私を見た。
「ああ」と彼は、驚いた様子もなくうなずいた。そしてすぐに私からアスコットへと視線を移した。私はカッとなって身を乗り出した。もう何がなんだかわからなかった。
「『ああ』、じゃないわよ!」と私は叫んだ。「どうしてあなたがここにいるの?!」
 彼が目を見開いて私を見る。その瞳も髪の色も、そして声も、間違いようがなかった。そこに立っていたのは、つい先ほど私に向かって「君にも非はある」と言った、その人だった。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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