蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 9. あなたのアンチテーゼ

10万ヒット企画

そのときの私は、たぶん相当間抜けな顔をしていたと思う。それでもアスコットは笑わなかった。私とじっと目を合わせ、答えを待っていた。

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 今夜はヨーグルトとフルーツにしようと、一度は確かに決めていた。けれどお腹が空いていないわけではなかったので、おいしそうな食べ物が並んでいれば、それを食べずに済ませることは無理だった。しかも、前から食べてみたいと思っていた激辛麻婆豆腐が、文字どおり目と鼻の先で、山椒の香りをこれでもかと放っている。ダイエットは明日以降に持ち越しだ。
「大変そうだね、新しいプロジェクト」
 その麻婆豆腐を如才なく取り分けてくれながら、アスコットは言った。小鉢を受け取った私は、思わず唸った。
「そうね。まさか『柳』の二号店に関われるなんて思ってなかったから、プレッシャーがないと言ったら嘘になるわ」
 こういう、誰が聞いているかわからないようなところでは、仕事の話をするときは隠語を使うのが当たり前だった。「柳」は「ル・プレリュー」のことを指している。ほかにも、たとえばそのル・プレリューを展開する龍王堂は、「キング」と呼ばれていた。
「でも、とても刺激的で、楽しいわ。勉強にもなるしね」
 いただきます、と手を合わせてから、私は麻婆豆腐を口に運んだ。目が覚めるような辛さだった。それでも最後には、豆腐とひき肉のうまみが喉に沁みる。この、会社から数分の距離にある中華料理屋の麻婆豆腐は世界で二番目においしいと、私は思っている。ちなみに一番は、ママが作る麻婆豆腐だ。

「今回のプロジェクトで、私、部長のことちょっと見直したの」
 問わず語りに、私は言った。
「え?」
 アスコットの視線を受け、私は自嘲気味に笑った。
「これまでは、部長の仕事を間近で見ることって、実はあんまりなかったのよね。でも、今回のプロジェクトでは、一緒に動いているものだから、厭でも目に付くでしょう。そうなると、彼が周りから評価されてるのも納得できるなあって」
 たとえばクライアントのところへ赴くにしても、部長がいるといないとでは、その場の雰囲気がまるで違った。そうは言っても彼は、べつに大きな声で喋るわけでも、あまつさえ終始口を開いているわけでもない。むしろ、部長はたぶん、どこへ行っても一番口数の少ない人だ。それでも、いや、だからこそ、彼の発言には重みがあった。あるときは、滞りかけた場に再び空気を循環させるように、またあるときは、脱線しかけた議論を元に戻すように。要所要所で、部長はその場に必要不可欠な発言をした。そんな彼の一言がきっかけとなって議論が進むということが、ほぼ毎日のようにあった。
 それなのに、部長は自らのそんな能力をまったくひけらかさない。それどころか、すべてはイーグルや私の手柄であるかのように、さりげなく演出してくれる。だからクライアントからの評価は上がるし、仕事は順調だしで、悪いことがまったくなかった。それはもう、ひとつの才能と言ってよかった。部長は、「当たり前のようにすごいことをする人」だった。
「だからね、部長は部長になるべくしてなった人なんだなあって」
 そういうことを一通り説明してから、私は言った。舌がようやく麻婆豆腐の辛さに慣れてきて、うまみの方をより強く感じられるようになってきた。

「人って変わるんだね、やっぱり」
 不意にアスコットが、しみじみとして言った。ちょうど水を飲もうとしていたところだった私は、目だけで「え?」と訊き返した。
「だって海、最初のころは、ずっと部長のこと目の敵にしてたでしょう。配属された日なんか、普通にタメ口利いてたし」
「あっ、あれは……!」
「わかってるよ」と、身を乗り出した私を遮るように、アスコットは言った。「わかってるって」
 気恥ずかしいったらなかった。顔を逸らして俯いた、ちょうどそのとき、まるで二人の会話に区切りがつくのを待っていたかのようなタイミングで、次の料理が運ばれてきた。二人前の北京ダックだった。

 皮で肉を巻きながら、アスコットに言われた言葉について考えた。彼の言うとおり、プロ戦に配属された日、私は部長に対して友達に対するような態度を取っていた。私にとってあのときはまだ、部長は「部長」ではなく、「厭な感じの人」だった。
「もう三か月なのね」
 できあがった北京ダックを見つめながら、私はしんみりと言った。
「なんか、あっという間だったわ」
 改めて思い返すと、配属されたあの日から、確かにもう三か月が経っている。桜が咲いていたはずの木には、いつの間にか雨粒が目立つようになった。もうそろそろ夏がやってくる。暦の上では、もうとっくに夏だ。この間、たくさんのことがあったはずなのに、まるで電光石火のように過ぎ去っていった三か月だった。

「ねえ」と私は、北京ダックを手に持ったまま口を開いた。「私、少しは成長できてるかしら」
 アスコットは大きく目を見開いた。その表情を見て、私は途端に恥ずかしくなった。アスコット相手になんてこと訊いてるの、私ったら。
「当たり前だよ」
 ごめん、今のは忘れて。私がそう言うより、アスコットがうなずく方が早かった。
「海はすごく成長したよ。だからこそ、柳の件にも参加することができてるんだよ」
「そうかしら」
 嬉しいやら恥ずかしいやらで、私は頬を染めて苦笑した。続きを言う前に、北京ダックを一口食べた。甘辛いたれが、刺激的な麻婆豆腐の後には優しかった。
「部長、私に対してだけきつく当たるでしょう。私が仕事ができないからあんなに厳しいんじゃないかって、自信なくしちゃうわ」
 プレセアがやってきてからしばらくは、部長の当たりがきついとは感じなくなった。彼よりもプレセアの態度の方が、あからさまに刺々しかったからだ。ところが、和解してからというもの、プレセアはめっきり優しくなった。もちろん、だめなところはだめとはっきり言うけれど、以前のように理不尽な当たり方をすることはなくなった。そうなると改めて、一向に変化しない部長の態度が堪えた。彼が私を見て笑ったことなんて、たぶん、一度もない。

 はあ、と思わずため息をついた。
「ほんと、未だに信じられないわ、あのひとが結婚してるなんて。私だったら絶対に厭よ」
「どうして?」とアスコットは言った。「いい人だと思うけどな。仕事もできるし、紳士的だし」
「確かに紳士的ではあるけど、でも、それだけじゃない。旦那様があんな風にがみがみ言う人だったら、休まる暇がないわ。お皿の洗い方ひとつでも、すぐ文句言われそう」
「そうかなあ。部長って案外、家庭ではいい旦那様になるタイプだと思うよ」
「それならそれで、ますますムカつくわ。ただの弁慶じゃない。しかも、私に対してはとりわけ厳しいのよ。差別よ、差別」
 話しているうちに、むかむかしてきた。八つ当たりをするように北京ダックを頬張る。この際、ダイエットはなかったことにするしかない。
「ちょっと顔がいいからって、調子に乗ってるのよ。奥様もきっと、あの顔に騙されてるんだわ」
 こうなったらとことん食べてやる。そう決めて、二個目の北京ダックを作り始めた。ところが、肉ときゅうりを挟もうとしたところで突然笑い声が聞こえてきたので、きょとんとして顔を上げた。するとアスコットが、大声になるのを堪えるかのように忍び笑っていた。
「どうしたの?」
 私は首を傾げた。アスコットは「ごめん」と言ったけれど、笑いは止まりそうになかった。

 この中華料理屋は、すべての席が半個室のようになっている。私たちがいる席は窓際にあって、隣の席とは壁で遮られていた。そんな席でなければ、隣の席の人に「この人がどうして笑ってるのかわかりますか」なんて聞きたいところだった。当然そんなこともできず、私にできるのはせいぜい、北京ダックを平らげた口を拭いてもう一度首を傾げることくらいだった。
「ごめんね」
 しばらくして、アスコットはまた同じ言葉を口にした。今度こそ、笑いは収まったようだった。
「どうしたの? 私、何かそんなに面白いこと言った?」
 私が訊くと、アスコットは首を振った。
「そうじゃないよ。ただ、部長のことばっかり話すんだなあって」
「え?」
 私は瞠目した。ふっと息をついたアスコットは、どこか哀しそうな顔をした。そしてその顔のまま、
「好きなの?」
 と聞いてきた。
「好きなの? 部長のこと」
 驚きすぎて、聞き返すことさえできなかった。そのときの私は、たぶん相当間抜けな顔をしていたと思う。それでもアスコットは笑わなかった。私とじっと目を合わせ、答えを待っていた。


「な」と私はようやくのことで口を開いた。「何言ってるのよ。あるわけないじゃない、そんなこと」
「そう?」とおもねるように笑ったアスコットは、全然信じていないようだった。
「そうよ」と私はわれ知らず大きな声を出した。「あるわけないでしょ。どうして私が、部長のことなんか。だって、ほら、そもそも結婚してるじゃない、あのひと」
「じゃあ、結婚してなかったら好きになってた?」
「え?」
「部長が独身だったら、好きだったの?」
 答えられなかった。

 部長が独身だったら。そんなことは考えてもみなかった。私の中で、部長はずっと既婚者の枠の中に入っていた。家族の話は聞いたことはないけれど、そうしてあまり話したがらない姿勢が逆に、いかに家族を大切にしているかということを感じさせた。彼が家に帰って家族のだんらんを囲む姿はとても簡単に想像できたし、きっとそのとおりの日常を送っているんだと思っていた。でも、もしも彼が独身だったら。あの、駅のホームで偶然出逢ったときのまま、何度かただの乗客同士として乗り合わせていたら。上司と部下ではなく、ひとりの男と女として出逢っていたら――
「ありえないわ」
 けれど私は、かぶりを振ってきっぱり答えた。
「部長は部長よ。恋愛対象なんかじゃない」
 自分自身に言い聞かせるような言い方だと、われながら思った。

 鼓動が信じられないほどに速かった。その事実に困惑し、困惑することによってまたさらに鼓動が速くなるという、完全な悪循環が起こっていた。
 膝の上でそろえた手を、ぎゅっと握りしめる。机の上の北京ダックを見ても、もう食指は動かなかった。胸が息苦しいほどに詰まっていた。「もしも部長が独身だったら」――振り切ったつもりだったのに、アスコットの言葉が脳裏をぐるぐると廻っていた。どうかしてると自分でも思う。そんなこと、考えてもしょうがないのに。たられば論ほど、持ち出すことに意味がないこともない。

「じゃあ、僕なら対象になる?」
 唐突に響いた言葉に、私ははっと顔を上げた。目の前のアスコットは、私と同じように膝の上で両手をそろえ、ぎゅっと唇をかみしめていた。その頬は、ほんのりと紅く染まっていた。
「え?」と私は言った。ほとんど空気を発したに等しいような、枯れ声だった。
「海」
 私のそれと比べると、アスコットの声はとてもしっかりしていた。いつもより少し裏返ってはいたけれど、何が言いたいのか、はっきりとした意志を感じさせる声だった。
「君のことが好きなんだ」
 舌の上にまだ残っていた麻婆豆腐の辛さが、その瞬間、忽然と消え去った。

 外では雨が降り続いている。どこか遠くの席ではどっと大きな笑い声が沸いた。厨房では、ひっきりなしに油がはねる。たくさんの音に囲まれているのに、その瞬間、なぜかアスコットと自分の二人だけが、俗世間から切り離されてしまったかのように感じた。




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ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

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篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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