蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 10. 夕焼け色のメッセージ

10万ヒット企画

本当に、何してたんだろう。改めてそう思った。部長はこんなにも私のことを考えてくれているのに、その期待を裏切るようなことをしてしまった。

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 その週は晴天からスタートした。週末をつぶす勢いで降り続いた雨は、日曜の深夜になってようやくやみ、月曜の朝はまるで台風一過のような空が広がった。朝から気温が高くて、天気予報のお姉さんは、「関東甲信地方は今日にも梅雨明けが発表される見込みです」と言っていた。
 プロジェクトは佳境を迎えていた。木曜のプレゼンに向け、部長もイーグルも気合じゅうぶんだ。「ル・プレリュー二号店」について、店のコンセプトと広報の仕方についてはある程度方向性が決まり、あとは細かいところを詰めるばかりだった。ところが私は、朝からまったく別のことで頭がいっぱいだった。

「――き、龍咲!」
 大きな声で呼ばれて、はっとわれに返った。顔を上げると、部長とイーグルがホワイトボードの両脇に立って私を見下ろしていた。ボードには、私たちが考えてきたプロデュースの案がいくつも書き込まれている。それをざっと追いかけて、ん、と頭上にクエスチョンマークが浮かんだ。プロジェクトの一員なのだから私が知らないはずはないのに、中にはなぜか、覚えのない言葉もあった。
 何が起きているのかすぐにはわからず、私は何度か瞬いた。すると向かって右側に立っていた部長が、肩をどっと落として大きなため息をついた。
「龍咲」と部長は私をきつい目でにらみつけた。「やる気がないなら出ていけ」
 ぞくりと背筋が震えるような声だった。その声で、ようやくはっきりと意識を取り戻した。今はプレゼンに向けた最終確認をしている最中だった。

「す……すみません」
 大きな反動をつけて立ち上がると、椅子が音を立てて後ろに倒れた。
「これから気をつけます。だから――」
「だめだ」
 部長はきっぱりと私を遮った。あまりにも毅然としていて、私がびくっと肩を震わせるほどだった。腕を組んだ部長は、私のことを、まるで軽蔑するような目で見た。
「おまえもわかっているだろう。このプロジェクトがどれほどプロ戦に、そしてわが社にとって大切なものか。それほど重大なプロジェクトに関わる者には、呆けている暇などない。ほかのことにかかずらっているような余裕などないはずだ。集中できないというのなら、今すぐにここから出ていけ。そしてまずは、おまえの頭の中を占めている問題を解決してこい」
 カッと顔が紅くなったのが厭でもわかった。見透かされたように、心が落ち着きを失った。
 このひとは気づいているのだ。直裁には言わないが、部長は十中八九、私が今何を考えていたのか、わかっている。
「すみません」
 ほかに言うことなど思い当たらなかった。机の上に広げていたノートや書類を適当にまとめると、逃げるようにして部屋から出た。イーグルの憐れむような視線が、胸に痛かった。どうか、書類を持つこの手の震えに、部長もイーグルも気づきませんように。最後にそんな願いを残し、扉を閉めた。


 会議室を出ると、口からこぼれ出るため息のまま、外に並んでいた椅子に腰を下ろした。体が鉛のように重かった。視線を落とし、ヒール靴のつま先を見つめる。そうするとまた、ため息が出た。
「君のことが好きなんだ」
 金曜の夜というリラックスした時間帯に聞かされる言葉としては、それはあまりにも刺激的なものだった。刺激というなら、その直前に食べた麻婆豆腐の辛さでじゅうぶんだったのに。ぽかんとした私は、目の前に座っていたアスコットをただ見返すしかなかった。あのときの私は、とても人に向けてはいけないような顔をしていたと思う。

「入社式で会ったときから、ずっと好きだったんだ」
 私から視線を外すと、アスコットは紅い顔のまま言った。
「最初は、毎日会えるだけでよかった。同じ部署になれて本当に嬉しかったし、それで満足してたんだ。でも、会うたびに好きになっていって、もうどうしようもないんだ。会えるだけじゃ満足できない。僕は君の恋人になりたい」
 そう言って、アスコットは顔を上げた。
「僕と付き合ってくれないかな」
 そのときの彼の真剣なまなざしといったら。私は気圧されていた。たぶん、あれほど真剣な顔で告白されたら、ちょっとでも彼のことをいいなと思っている女の子ならば、すぐに首を縦に振っていただろう。でも、私はそうはできなかった。アスコットのことをそういう対象として見たことなんて一度もなかったし、あまつさえ、彼の方は私に入社式のときから好意を抱いていたなんて、これっぽっちも気づかなかった。とても「わかりました」と言える状況ではなかった。混乱していた私は、迷った挙句、
「少し、考えさせて」
 と答えた。
 それからどうやって店を出て、どのルートを通って駅まで行き、どうやって家にたどり着いたのか、よく覚えていない。気づいたら家にいて、気づいたら朝になっていた。そしてあっという間に週末は終わってしまい、月曜になった。


 前からも後ろからも圧迫されているような感じがした。気持ち悪くて、またため息をつくと、書類の束を抱えたまま腰を折った。膝に額をつけて目を閉じる。早く答えを返さなきゃと思うのに、どう答えたらいいのかまったくわからなかった。
 アスコットのことは好きだ。でもそれは、あくまでも同僚としてであって、恋をしているという意味の「好き」ではない。だから、答えはもう決まっている。彼の気持ちには応えられない。
 告白されたときにそう答えればよかったのかもしれない。ただあのときは、咄嗟に「考えさせて」と言ってしまった。断るならば理由を言わなければならなくなると思ったからだ。その理由を見つけることが、あのときは、たとえばフェルマーの最終定理を証明するよりも難しいことだと思った。けれどそれは、「男性としては見られない」というその一言だけできっとじゅうぶんだった。それなのに私は、もっと別の理由がなければいけないような気がしていた。もっと別の理由が、自分の中にあるような気がしていた。

 今朝起きたときには、それでも多少は落ち着いていられるかと思った。電車に揺られ、オフィスに着くまでは確かにだいじょうぶだった。ところがフロアに入った瞬間、もうだめだった。アスコットが視線の先にいて、そして――部長もいた。
「部長が結婚してなかったら、好きになってた?」
 部長を目にとらえた瞬間、アスコットに言われたことを否が応でも思い出してしまった。それからというもの、何をするにも二人を意識してしまって、仕事どころではなかった。
 こんなの社会人として失格だ。公私混同は絶対にしないと、配属された日に誓ったのに。それも、大事なプロジェクトのプレゼンが迫っているときに仕事に集中できないなんて、会議を追い出されても仕方ない。

 部長とイーグルに対して申し訳なかった。彼らは真剣に仕事と向き合っているのに、私は何やってるんだろう。しゃきっとしなくちゃ。とりあえず木曜日までは、目の前の仕事に全力を傾けよう。アスコットに返事をするのは、それからでも遅くない。彼だって、私が大事なプレゼンを控えていることは知っているんだから、きっと待っていてくれるだろう。ほかのことに向けるほど、頭に余裕はない。そう決めて顔を上げた、そのときだった。ガチャリと会議室の扉が開いた。

 反射的に立ち上がる。まず先に出てきたのは部長だった。彼は一瞬動きを止め、見開いた目で私を見た。あの、と私が口を開くより早く、部長はため息をついた。
「まだいたのか」
 それだけを言って、部長は私の前を通り過ぎた。
「部長!」
 慌ててその背中に声を掛けたけれど、部長は振り返ることなく行ってしまった。明らかに拒絶されている。遠ざかる背中を見ているだけでわかった。まるで飼い主に捨てられた猫の気分だった。その場でただ呆然と立ち尽くしていると、ぽんと肩を叩かれた。
「だいじょうぶですか?」
 イーグルだった。彼の笑顔を見た瞬間、思わず泣きそうになった。それでもぐっと堪え、ほほ笑んだ。
「だいじょうぶよ」
 そう答えると、イーグルもまた、困ったように眉尻を下げた。そして私の肩から静かに手を離すと、もう一方の腕に抱えていた書類の束の一番上を引き抜き、私に差し出した。
「え?」と私はその書類とイーグルとを見比べた。
「部長からです」とイーグルは言った。「今日の会議の内容のまとめと、それから、あなたに対するメッセージが書かれてあります」
 私は目を丸くした。

 イーグルがくれた書類は、A4サイズの紙三枚を左上で綴じたものだった。その三枚にわたってびっしりと、流れるようにきれいな字で、今日の会議で話し合われたことが書き込まれていた。きれいなだけではない。言葉の選び方や配列の仕方など、文章の強弱が一目でわかる書き方だった。そして最後のページの一番下に書かれていた言葉を読んだとき、ぐっと込み上げてくるものを、ついに堪えられなくなった。
『消費者としての視点を忘れないように。木曜日は龍咲にも発言してもらう』
 本当に、何してたんだろう。改めてそう思った。部長はこんなにも私のことを考えてくれているのに、その期待を裏切るようなことをしてしまった。拒絶していたのは部長の背中ではなく、私の態度の方だった。部長はいつだってそこにいて、私をサポートしてくれていた。

「言い方はきついかもしれませんが、部長の言っていることは間違っていませんよ」
 イーグルが如才なく言った。私は滲んだ涙を指で拭い、顔を上げた。
「わかってるわ」と私はほほ笑んだ。もっとたくさんのことを言いたかったけれど、言葉が出てこなかった。それでも、その一言でイーグルにはすべて伝わったようだった。彼は満足そうに目を細めると、確かにうなずいた。
 もう悩まない。私は心に決めた。迫っているプレゼンに、持てる力のすべてを注ごう。私は私にできることをしよう。
 たった三枚の紙で、人の心を動かせる。部長のほんとうのすごさは、そういうところにある気がした。

***

 部長が三枚の中に込めた情報は、驚くほど多かった。ほとんど会議を聞いていなかった上に途中からは参加すらしていなかった私でも、まるで会議の中にいたように、あの部屋で何が起きていたのか手に取るように理解できた。それでもわからないところにはマーカーを引いた。後で部長に聞くつもりだった。それなのに、彼は会議が終わってからずっと席を外していた。私が紙を二周した後でも、席に戻っていなかった。
 肩透かしを喰らった気分で、ふうと息をついた。部長が戻ってくるまでは休憩にしようと、フロアを出て、最上階の展望室へと向かった。考え事をするのに、展望室ほど最適な場所はなかった。コーヒーを片手に、人気のない廊下をゆっくりと歩いた。

「――なのよ」
 その展望室の入り口に差し掛かったときだった。中から人の声がして、私ははたと足を止めた。
「あれ以来、一度もイギリスに来ないんだもの。心配になるじゃない」
 明らかに知っている声だった。扉の影に隠れ、中の様子を窺う。展望室をぐるりと囲んで張り巡らされた窓辺に、思ったとおりの人の姿があった。ただ、彼女は一人ではなかった。
「すまなかったと思っているよ」と、彼女の隣に立っている人が言った。部長だった。彼の口調は、彼女のそれに比べて軽かった。そのことを彼女も感じ取ったようで、部長を見上げると、咎めるような視線を向けた。
「そういうことを言ってほしいんじゃないの」と彼女は言った。「あなたには幸せになってほしいのよ、クレフ」
 並んで立つ二人は、眩しいほどにお似合いだった。夕陽が二人を逆光の中へと導く。屋内だからそんなことが起こるはずはないのに、風が吹いて、彼女の――プレセアの金髪を揺らしたように見えた。

 静かに流れた沈黙は、二人の足元から伸びる影にすうっと吸い込まれた。じっと部長を見上げていたプレセアは、決して交わらない視線を諦めるように息をついた。そして一歩部長の方へ近づくと、彼の肩にそっと手を置いた。
「わからないかもしれないけど」とプレセアは言った。「でも、ずっと見守ってるのよ。あなたのこと、ほんとうに、好きだったから」
 部長が初めてプレセアを見返した。彼はわずかに目を見開いたが、プレセアの手を除けようとはしなかった。そしてその体勢のまま、静かにほほ笑み、言った。
「Thank you」
 初めて聞いた部長の英語は、たった一言だったけれど、ネイティブでない私でもそれとわかるほど、美しかった。

 それ以上はそこにいられなかった。私はゆっくりと、本当にゆっくり扉から離れると、くるりと踵を返して元来た道を戻り始めた。階段を一段下りるたびに、膝が笑った。大きな足音を立てないように、コーヒーをこぼさないように。努めてそんなことだけを考えようとした。それでも、扉から離れる間際に見たほほ笑み合う二人の姿が脳裏から離れていってくれることはなかった。
 「好き」という言葉を、この数日の間に二度も聞いた。その二つは、同じ言葉なのにまったく違うように私には響いた。アスコットの「好き」は、私でもわかるような甘酸っぱい「好き」だった。一方でプレセアの「好き」は、私などでは到底わからない、もっと深くて、ずっしりとした「好き」だった。

 もしかしたら二人は、昔恋人同士だったのかもしれない。事情があって部長は日本へやってきて、別の人と結婚した。でもプレセアは、ずっと部長のことを忘れられずにいる。そういえば、プレセアは以前言っていた。「日本ってずっと厭な国だと思っていた」と。あれは、好きな人を奪った国だから、という意味だったのかもしれない。プレセアは今でも部長のことが好きなのだ。それでも部長には幸せになってほしいから、遠くから「見守っている」。そう考えれば、すべてのつじつまが合う。好き「だった」と過去形にしたのは、彼女の精いっぱいの強がりだろう。
 プレセアからあんなに想われて、部長は幸せ者だ。彼女に対してでさえあれほど柔らかく笑うのだから、奥様に対しては、きっと比べ物にならないような顔をするのだろう。そして、プレセアが彼に対して言うよりももっと重く、「好き」と言うのだろう。

「部長が結婚してなかったら、好きになってた?」
 アスコットに言われた言葉がまた、耳の奥で響いた。踊場で、覚えず足が止まった。
「――ならないわ」
 吐き捨てるように言った。それでもしばらく、そこから動き出すことができなかった。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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