蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 13. 真夏の蝉

10万ヒット企画

どれひとつとして口にできなかった。うなずかれるのが怖かった。蜜だと思って近寄ったら毒だったなんて、知りたくなかった。

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 オフィスビルを出ると、部長は背中で「ついてこい」と言って、迷うことなく歩き出した。行き先を訊ねるタイミングを失ってしまい、私は黙って彼の後を付き従った。斜め後ろを行きながら、無意識のうちに周囲を窺っていた。そんな自分自身の行動に、さっと紅が差した。何してるのよ、私。見られて困ることなんか、何もないわ。部長と外を歩いているというだけで、どうして後ろめたく思ったりしなきゃならないのよ。

 意識的に背筋を伸ばす。いつも通勤で通っている道なのに、まるで知らない道を歩いているようだった。部長が前を歩いているということが、周囲の景色をまるで違うものにしていた。すれ違う人、特に女性が皆驚いたように部長を見ることに、厭でも気づかされる。けれど当の部長はまるでわれ関せずといった様子だった。見られることに慣れているのだろうか。まるで有名人と一緒に歩いているかのようで、落ち着かない。徒だと思いながら、わざと他人を装うように、部長にはあえて声を掛けずに歩いた。部長の方も口を開かないので、内心ほっとした。

 それから10分ほど歩くと、部長は大通りから小道へと逸れた。通ったことがないどころか、そんなところに道があることさえ、私は知らなかった。そしてもっと驚いたことに、その道の先にはまったくの別世界が広がっていた。表はただのオフィス街なのに、たった一本道を入っただけで、そこは小ぢんまりとした店がいくつか並ぶ、文字どおりの「隠れ家」的な場所へと変わった。
 行き違う人のほとんどはカップルだった。狭い道なので、お互いに道を譲り合うようにして歩く。私たちも向こうからはカップルに見えるのかと思うと、そのたびに気まずかった。間違って部長に手が触れたりしないように、後ろ手に鞄を持って歩いた。

 いったいどれほど進むのだろうと思い始めたころ、ようやく部長が立ち止まった。オフィスを出てから15分は経っただろうか。何気なく目の前の店を見た私は、思わず声を上げた。そこは、まるでヨーロッパから直接空輸されたかのような外見の店だった。レンガ造りの二階建てで、小さく空いたいくつもの窓は、フランスのそれのように格子状になっている。天井には煙突があって、先端からは実際にもくもくと煙が出ていた。演出なのかもしれないけれど、とてもリアルだった。どう? 私、ここで料理を作ってるのよ。そう言っているように見えた。

 すっかり見惚れていた私は、鈴の音でわれに返った。部長が、扉をこちらに向けて開けていた。
「どうぞ」と彼は言った。どきりとして、無意識のうちに背筋が伸びた。
「いらっしゃいませ」と店内から落ち着いた声が聞こえた。私は反射的に一歩踏み出し、部長が開けてくれているドアから中へ入った。なぜかつい「お邪魔します」と言いそうになって、すんでのところで踏みとどまった。誰かの家でもないのにそんなことを言いそうになるのは、お店の雰囲気がアットホームだからかもしれない。
「お待ちしておりました」
 鼻眼鏡をした優しそうな笑顔のボーイは、私を見て開口一番そう言った。その言葉に違和感を覚えて、私はその場で立ち止まった。まだ名前すら告げていないのに、ボーイは私が誰なのかわかっているような顔をしている。どこかで会ったことがあったかしら。急いで記憶の中を探ったが、そのボーイはどこにもいなかった。ボーイは腕をすっと店の奥へ向け、「こちらでございます」と言って歩き出した。
「何をしている」
 ボーイの後姿をぼんやりと見ていると、扉を閉めた部長に、背後から小声で急かされた。はっとわれに返り、慌ててボーイの後を追った。

 そこは外見どおりのこじんまりとしたレストランだった。一階に並んでいるテーブルはわずか五つほどしかない。それでもさほど窮屈に見えないのは、テーブルとテーブルとの間にかなり余裕があるからだ。壁際には暖炉がある。真夏の今は当然使われていないけれど、冬はそこに火が入るのだろう。絵になるだろうなと思った。
 一階を抜け、ボーイは二階へと続く階段に案内した。緩やかな螺旋階段になっている。部長を一度振り返ると、彼はほほ笑んでうなずいた。その表情が、いつも見ている「部長」としてのそれからはるかにかけ離れているように見えて、意識とは別のところで鼓動が大きくなった。振り返ったことを、少しだけ後悔した。ごまかすように前を向き、私は階段を上った。

 二階には、一階とはまた違う雰囲気が漂っていた。二階に来てみて、一階はどちらかというとカジュアルに作られているのだとわかった。二階はもっと、サロンのようだった。そうは言っても、たとえば恵比寿にあるレストランほど堅苦しくない。年齢層も20代から30代といったところだ。ただ、一階には女性のグループもあった一方で、この二階のテーブルはすべてカップルで埋まっていた。
「こちらへどうぞ」
 ボーイが私たちを案内したのは、唯一空席になっていた、窓際の一番奥のテーブルだった。窓の外が見える席の椅子を、ボーイが引く。一応上司を立てるつもりで、そちらではない方の椅子に座ろうとしたが、
「何をしている」とまた部長に言われた。「そこは私の席だ」
 思わず吹き出したのは、その言い方があまりにもぶっきらぼうだったからだ。「すみません」と言って、私はボーイが立っている方の席についた。部長と私は、斜めに向かい合う形になった。
「お食事で苦手なものはございますか?」
 ボーイが私に向かって聞いてきたので、私は「いいえ」と答えた。ボーイは控えめにほほ笑み、軽く頭を下げると席を離れていった。去り際、彼の胸元に、葡萄を模った小さなブローチがついているのが見えた。

 初めて新幹線に乗った子どものようにならないよう気をつけながら、さりげなく周囲を観察する。まるで世間の喧騒とはかけ離れた世界が、ここには広がっていた。皆、楽しそうにワインを傾け合い、お喋りに熱中している。どの顔も幸せそうだった。「幸せの国」という言葉が脳裏を掠めた。行ったことはないけれど、ひょっとしたらブータンは、こんな笑顔であふれているのかもしれないと思った。
「失礼いたします」
 再びボーイがやってきた。彼はシャンパンのボトルを手にしていた。私の知らない銘柄だった。私がナプキンを膝に広げている間に、ボーイが二つのグラスにシャンパンを注ぐ。よどみない手つきに、思わず見惚れた。一時期ワインにはまって、いろいろ勉強しようと思ったことがあった。けれど難しくて、唯一とあるボルドーの赤ワインにまつわる逸話を覚えただけで、途中で挫折してしまった。あれはたしか、二十歳になってすぐのころだった。

 ボーイが去って、私たちは二人になった。いまさら緊張した。ずっと周囲を観察したりして自分をごまかしていたけれど、今は正真正銘、部長と二人きりなのだ。
「では」と言って、部長が自分のグラスに手を掛けた。
 思考を振り払い、私も同様にする。部長はグラスを手にしてから、少し考え込むしぐさを見せた。それでも私が声を掛ける前には表情を元に戻し、
「ピザに熱中しすぎて億単位の損失を出しかけている龍咲に」
 と言った。
「ちょっと!」と私は思わず身を乗り出した。
「冗談だ」と部長は笑った。彼はグラスを軽く傾けると、勝手にシャンパンを口にした。
「……ひどいです」
 頬を膨らませて、私は言った。
「これでも結構傷ついてるのに」
 億単位の損失、と改めて言われると、さすがにへこむ。自棄になって、シャンパンをぐいと飲んだ。ところが、喉を通り過ぎたときのそのシャンパンの味に、瞠目せずにはいられなかった。
「なにこれ」と私はグラスをまじまじと見つめて言った。「おいしい」
「そうだろう」と部長はうなずいた。「あまり知られていないシャンパンだがな」
 何気なく部長を見ると、嬉しそうに笑っていた。その表情に、また鼓動が速くなる。気を逸らすように、私はシャンパンをもう一口飲んだ。

「ところで」
 私はナプキンで口元を押さえながら言った。
「いったいどういう風の吹き回しですか。突然食事なんて」
 しかも、こんなところに。心の中で言って、ちらりと背後に目をやる。われ知らず赤面した。
 照明が程よく落とされている店内には、明らかに甘い雰囲気が漂っている。食事中だからと抑え込んでいるようだけれど、見渡せば、互いの目には互いしか映っていないようなカップルばかりだった。こんな中に「部長と新人」という関係でしかない私たちがいるということが、もう堪らなくくすぐったい。
「なぜこの店が流行っていると思う?」
 私の質問に、部長は質問で返した。
「え?」
「この店は、あまり知られていない。メディアの取材を受けたことは一度もないし、ネット上の口コミサイトにも情報は載っていない。それでも毎晩満席で、予約は一か月待ちの状態だ。ほとんどの客はあまり懐に余裕がない20代であるにもかかわらず、だ。なぜだと思う?」
 私はもう一度、不自然ではない程度に目を廻し、考えた。そう言われてみれば、どうしてだろう。こんなに近くで働いている私でさえも知らなかった店なのに、皆どこから情報を得てくるのだろう。

 考えていると、一皿目の前菜が運ばれてきた。今が旬のトマトを使ったゼリーだった。口にしてみると、普段食べているトマトと同じトマトとは思えないほど、感動的においしかった。
「食事がおいしいからですか?」
 ゼリーをあっという間に完食して、私は言った。部長はまだ残っていた一口を口に運ぶ前にスプーンを置き、私を見上げてにやりと笑った。違うのだと、その表情だけでわかった。
「味のいい店ならばいくらでもある」
 そう言って、部長はテーブルに両方の肘を乗せ、顎のところで手を組んだ。左手の指輪が、キャンドルの光を反射してきらりと光る。その光り方に合わせるように、私の鼓動が大きくなった。蜜に誘い寄せられる蝉のように、部長から視線が外せない。
「たとえば、私が20代だったとしよう」と部長はやにわに言った。「おまえとは同じ会社の同僚で、同じチームで働いている。今はただの同僚でしかないが、私は密かにおまえに好意を抱いている」
「え……?」
 ぐぐぐっと、顔の血流が濁流になるのを感じた。瞬いた私を見、部長は虚を突かれたように目を丸くした。そしてどこか呆れたように、
「たとえばの話だ」
 と言った。ことさら「たとえば」のところを強調した言い方だった。
「あ、はい」と私は無意識のうちに髪に手をやった。「そうですよね」
 自分の初心な反応に、顔から火が出そうだった。けれど部長はそれ以上は気にするそぶりを見せず、「とにかく」と改まって言った。
「もしも私がおまえとそういう関係だったとして、そろそろおまえを口説こうかと思ったら、私は間違いなくこの店を選ぶだろう」
 その一瞬、確かに時間が止まったように感じた。

 再び時が廻り始めると、心臓がうるさいほどに激しく脈打った。私は部長と目を合わせたまま、硬直してしまった。なに、なんてこと言うの? 私を、く、く、口説くですって?
「だから」と部長は念を押すように言った。「本気にするな。もしもの話だ」
 残っていたゼリーを口に運び、部長は笑った。途端にどっと肩の力が抜けた。背中を冷や汗が伝う。汗染みが目立つような服を着てこなくてほんとうによかったと思った。
「もう。からかわないでください」
 部長をにらみながら言った。けれど彼はまったく意に介さなかった。そのとき、まるでタイミングを見計らったかのようにボーイがやってきて、空になった皿を下げた。飲み物はどうしますか、とボーイは言った。部長は私にワインでいいかと訊き、私がうなずくと、ボーイとさらに二言三言話した。ワインの話をしているようだったけれど、詳しくない私には、まるで外国語を喋っているようにしか聞こえなかった。
 しばらくすると、私たちの前に別のグラスが置かれ、そこにボーイが白ワインを注いだ。意外にも日本のワインだった。飲んでみると、すっきりとしていて夏にぴったりな味わいだった。前菜とスープの次にやってきたフォアグラのソテーによく合った。

「でも」と私は口を開いた。「確かに、わかります。このお店だったら、口説かれちゃいそう」
 店内にいるのは、必ずしも気心の知れているようなカップルばかりではなかった。つい先日出逢ったんです、というオーラを発しているテーブルもある。けれどどのテーブルを見ても、みんな笑っていた。口説かれているにしても愛を確かめ合っているにしても、ここにいるカップルはたぶん、みんなうまくいくんだろう。そう思わせるものがあった。
「そうだ」と部長はうなずいた。「それが、この店の繁盛している理由だ」
「え?」
「今どき、味のいい店ならいくらでもある。雰囲気のいい店もそうだ。東京は世界有数の美食都市だからな、生き抜いていくことは難しい。だから、ただおいしい、ただ雰囲気がいいだけでは続かない。プラスアルファの魅力が必要になる。この店は、その『プラスアルファ』に、『口説きに成功する店』というのを選んだのだ」
 そのころになると、私は部長が今日この店に誘ってくれた理由にうすうす気づき始めていた。そして彼は、私が思ったとおりのことを続けた。
「今度の案件に必要なのも、それだ。前回の企画も確かによかったが、あれは所詮、『有名店の二号店』という看板を使っているだけだ。最初の数年はそれでもつだろう。だがそこから先は、あの企画では続かない。レストランを訪れるゲストに、プラスアルファとして何を提供できるのか。それさえ見出すことができれば、あとは簡単だ」

 きっと部長は、もう答えにたどり着いているのだろう。けれどその答えを部長の口から聞いてはだめなのだ。私が自分でたどり着かなければ意味がない。答えがわかっている数式を埋めていくのでは身にならない。だから部長は、こうしていくつかのクルーを出しながら、それを繋ぎ合わせる作業を私にやらせようとしているのだ。
「はい」と私はしっかりと答えた。
 ずっと見えなかった出口がようやく見えてきそうな気がした。週末返上でやってもできなかったことが、この30分足らずで半分以上出来上がったように感じた。すごいな、と改めて思った。部長って、すごい。
「よし」と部長は満足気に笑み、ワイングラスに手を伸ばした。「仕事の話はここまでだ。たまには息抜きも必要だろう。マラソンが42.195キロなのは、それ以上走ると危険だからだ」
「わかりました」と私はほほ笑んだ。
 あれほど詰まっていた頭が嘘のようにすっきりとしていた。すぐにでも会社へ戻って仕事をしたい気分だった。けれどとりあえず今は、このひと時と食事を楽しもう。そう決めて、私もワインに手を伸ばした。勢いをつけて飲み干すと、部長が小さく口笛を吹いた。
「無理はするなよ」
 はい、と私はうなずいた。おかしくて、どちらともなくくすくすと笑った。


 それからは宣言どおり、仕事の話はしなかった。何の話をしたというわけでもないけれど、今の若者はどんなことを考えているのかとか、今投資をするなら日本株がいいとか、日本の広告代理店の問題点とか、そういうとりとめもない話を延々とし続けた。純粋に、とても楽しかった。おいしいワインでほろ酔い気分になったせいもあるのかもしれないが、光や風と一緒にいるときとはまったく違う種類の楽しさが、そこにはあった。
 デザートまで、私たちはきれいに平らげた。この店は味だけを売りにしてもじゅうぶんやっていけるだろうと思った。

 食事を終えるころには、店内は閑散としていた。私がお手洗いから戻ると、部長は「行こうか」と言った。一階に降りると、最初から最後まで私たちのテーブルについてくれていたボーイが、店の外まで見送りにきてくれた。
「今日はありがとう」と部長はボーイに向かって言った。
「とんでもありません」とボーイは答えた。
 二人の話しぶりから、旧知の仲であるように感じた。あまり話はしなかったけれど、とても気さくで、紳士的なボーイだった。外国人がしているような鼻眼鏡が印象に残った。そんな彼に見送られて、私たちは店を後にした。


「しまった」
 部長が急に立ち止まったのは、駅の改札まであと少しというところだった。振り返ると、部長は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「会社に定期券を忘れてきたようだ」
「ええっ」と私は目を丸くした。「うそ」
「すまない」と部長は言った。「先に帰ってくれ。会社に戻る」
 私はくすくすと笑った。
「意外と抜けてるところもあるんですね、部長」
「たまたまだ」と部長は面倒くさそうに言った。けれどすぐに真面目な表情(かお)になって、「ひとりで帰れるか?」と訊いてきた。
「やだ、やめてください」と私は言った。「だいじょうぶですよ。子どもじゃないんですから」
 それもそうだな、と部長が言いかけたとき、突然、私の背中に誰かがぶつかってきた。思いがけないことだったので、バランスを崩してよろめいた。酔っていたのもあって、さらにはヒール靴だったので、不恰好に倒れかけた。
「――っと」
 顔だけは守ろうと咄嗟に腕を上げたけれど、地面に倒れ込むようなことにはならなかった。すんでのところで、部長が私を受け止めてくれたのだった。
「だいじょうぶか」
 部長がこちらを覗き込む。カッと顔が紅くなったのを厭でも感じた。どうしよう、と思ったそのとき、「すみません」と声がした。額にネクタイを巻き、私以上に顔を紅くしたサラリーマンが、私たちを拝んでいた。思わず苦笑した。同じ40代だろうけれど、部長とは大違いだ。
 サラリーマンが改札を潜っていくと、部長に支えられたままだという現実が、突然目の前に突きつけられた。慌てて離れ、私は髪を耳にかけた。
「ごっ、ごめんなさい」
「危なっかしいな」と部長は笑った。

 それ以上話すことなど何もなかった。私は一度部長を見上げ、それから頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「ああ」と部長は言った。「気をつけて。また明日」
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れさま。おやすみ」
 部長は背を向け、会社へ向かって歩き出した。無意識のうちに、私は「部長!」と呼び止めていた。部長がきょとんとしてこちらを振り向く。私は肩に掛けた鞄を握りしめた。
「今度の企画がうまくいったら、祝勝会しませんか」
 部長が目を見開く。ああ、やっぱり言わなきゃよかったかな、と後悔しかけたけれど、直後の部長の笑顔ですべては吹っ飛んだ。
「わかった」と部長はうなずいた。「今日は早く寝ろよ」
 そして今度こそ、部長は人混みの中へと紛れていった。そういえば、私よりも多くワインを飲んでいたのに顔色が全然変わっていなかったことに、今になって気づいた。

 部長の姿が見えなくなっても、私はしばらくそこから動くことができなかった。
「ずるいわ」
 誰にともなく呟いた声は、湿った夏の空気に捉えられ、見えない水蒸気の粒になった。
 ねえ、部長。「予約は一か月待ちの状態」なはずの店に、どうして今日突然入ることができたんですか。しかもあんな、窓際の特等席に。いくらオーナーっぽい人と知り合いだからって、そう簡単にできることじゃないはずですよね。
 もちろん答えはなかった。
 可能性は低い。でも、夕方彼が三時間以上席を外していた理由が、もしかしたら、今日あの店に入ることができた結果に繋がるのではないだろうか。その考えを、私はどうしても拭えなかった。
 密かに傷ついている私を元気づけるため? 仕事のヒントを与えるため? でも、ただの部下にそんなことしますか? どうでもいい相手と、三時間もお喋りが続きますか? それとも部長は、誰が相手でも同じことをするんですか?

 ばかみたいだと自分でも思う。でも、部長と話している間中、左手の指輪にばかり目がいって仕方がなかった。こんな遅くまで外にいていいんですか? 奥様に怒られないんですか? 子どもが泣いていたりしませんか?
 どれひとつとして口にできなかった。うなずかれるのが怖かった。蜜だと思って近寄ったら毒だったなんて、知りたくなかった。毒なら毒で、口にした瞬間に苦しむことなく死ぬことのできる毒だったらいい。夢ならば夢で、このまま醒めなければいい。でも、こんな夢を見せるだけ見せてそれだけなんて、ずるすぎる。こんなに夢中にさせておいて放置プレイなんて、ひどすぎる。
 私は私の心にあっけなく負けた。強がり続けることはもうできなかった。気づいてしまった。ここまで頑張ってこられたのは、部長が「プロ戦に」とって大切な人だからではなく、「私に」とって大切で、なくてはならない人だったからだ。
 夜なのに熱い風が、髪の間をすり抜けていく。もう歩き出すこともできないほど、部長のことが好きだった。




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プロフィール

篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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