蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 16. 惜別の味

10万ヒット企画

滲みそうになる涙を堪え、私は精いっぱいほほ笑んだ。ビネガーのたっぷりかかったこのときのフィッシュアンドチップスの味は、生涯忘れることはないだろう。

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 パパ、ママ。私は今、地獄にいます。
 ここのところ、多忙故に実家からはすっかり足が遠のいていた。そこにいるであろう両親に向かって、私はそんなテレパシーを送った。当然届くはずもなく、どれほど待っても助けはやってこなかった。目の前にはただ、重すぎる沈黙が、変わることなく横たわっていた。
 持て余した視線を、また腕時計へと落とす。前に同じことをしてからまだ5分と経っていなかった。途方に暮れた。この沈黙、あとどれくらい続くのだろう。

 周囲のテーブルが盛り上がるたび、私たちのところだけが浮き上がるように感じる。私と部長が沈黙していることなど、当たり前だがほかの人にとってはどうでもいいことのようだった。高い天井に、笑い声が吸い込まれていく。同じように、この沈黙も吸い込まれていってくれたらいいのに。徒なことと知りながら、願わずにはいられなかった。それぞれにお喋りに夢中になっている人たちに囲まれて、まるで透明人間になった気分だった。
 もうすっかり泡の消えてしまったジョッキを、ぼんやりと眺める。琥珀色の液体の向こう側に、部長が透けて見える。もちろん、そんなことをしなくても向かいに座っている部長の表情ははっきりすぎるほどよくわかるのだけれど、とても直視することはできなかった。足を組み、片方の肘を丸テーブルについてその掌で頭を支えた体勢のまま、部長は微動だにすらしない。せいぜい瞬きくらいしか、部長が生きていることを示す動きはなかった。そうして私たちのテーブルが沈黙に支配されたまま、優に30分が過ぎていた。

 もうだめ。私はついに音を上げた。この沈黙はあり得ない。
 何度もぶち破ろうと試みた。けれど結局成功しなかった。それならばもう、開き直るしかない。
「あの、部長」
「お待たせしました」
 どうしてそんなに不機嫌なんですか。そう続けようとした私の言葉を、不意の声が遮った。
「すみません、遅くなってしまって」
 天使だ。私ははっきりとそう思った。右斜め隣に座ったその天使に、私は羨望のまなざしを向けた。何といいところにやってきてくれました。あと5分、あなたが来るのが遅かったら、私、発狂するところでした。
「イーグル」と私は天使の名を呼んだ。「待ってたわ。ほんとに」
「ほんとに」の部分に、あらゆる思いを込めた。イーグルはちらりと部長を見てからうなずいた。「わかっています」とその顔に書いてあった。彼が座っている位置といい、私と部長との潤滑油に、イーグルはこれ以上ないほどふさわしかった。

「あれ」とイーグルは、わざとらしいほど明るい声で言った。「全然飲んでないじゃないですか。先に始めてていいって言ったのに」
 そうなんだけど、とだけ言って、私はちらりと部長を見た。せっかくイーグルもやってきたというのに、部長は視線さえ動かさない。そんな彼を見るのは初めてだった。
 部長の雰囲気がこれほど張り詰めたのは、イーグルと二人で社長室から戻ってきてからだった。私がアスコットと展望室にいた間に、何か決定的なことが発生したのだろう。それは明白だったが、そこで何が起きたのかを訊ねることは、未だにできていなかった。
「ねえ、イーグル」
 部長に直接訊くことができないなら、イーグルに頼るしかない。私は彼の方へ身を寄せて囁いた。
「何があったの? 部長、もうずっとこんな感じなのよ。何を言っても、返事さえしてくれないの」
 イーグルは困ったように笑うだけで、何も言わなかった。一緒に社長室へ行ったイーグルなら、部長が不機嫌な理由を知っているはずだ。何も言わないというのは、説明する言葉を探っているか、そもそも私には説明するつもりがないかのどちらかだ。けれど仮に後者だとしたら、今日ここに「祝勝会」という名目で三人が集っているのは、滑稽以外の何物でもないように思える。

「あ、すみません」
 イーグルは不意に私から視線を外し、そばを通りかかった店員を呼び止めた。
「ギネスのハーフアンドハーフをください。それから、フィッシュアンドチップスも」
 かしこまりました、と店員が去っていく。注文を終えたイーグルは、何食わぬ顔で取り皿とカトラリーを三人の前に配った。あまりにも普段どおりなその様子に、私は狐に抓まれた気分だった。
「部長」
 そんな私を差し置き、イーグルは部長に声を掛けた。
「海は何も悪くないでしょう。そんな仏頂面でいたのでは、彼女があまりにもかわいそうです。少しは機嫌を直してください」
 その後、部長がようやく体を動かしたのは、先ほどと同じ店員がイーグルの頼んだギネスを持ってきたときのことだった。ため息をついてイーグルの方を向くと、部長は自らのジョッキを手にした。私も慌てて、すっかりぬるくなったジョッキを持ち上げた。
「乾杯」とイーグルが至極明るい声で言った。
 私は小さな声で「乾杯」と返したが、部長は何も言わなかった。部長からは白々しい空気が、イーグルからはあっけらかんとした空気が、そして私からはどぎまぎした空気が発せられて、それらは混ざり合うと完全なる不協和音を奏でた。あまりの居心地の悪さに、イーグルの登場もむなしく、発狂しそうだった。
 そんな空気の中で、私はすべてを流し込むようにビールを飲んだ。ぬるくなったそれは信じられないくらいまずかった。けれどそれがたとえキンキンに冷えたものであったとしても、部長の表情が変わらない限りはおいしいと感じられることはないだろうと思った。

「なぜ自ら名乗り出たりしたのだ」
 ジョッキを置くと、この店に来てから、いや、オフィスを出てから初めて部長が口を開いた。明らかに怒っていた。最初、その怒りは私に向けられているのだと思った。身構え、ともすれば「すみません」とさえ口にしそうになった。けれど部長の視線は私のそれとは交わらなかった。部長が見ていたのはイーグルだった。え、と私もイーグルを見た。
「なぜも何もありませんよ」とイーグルはにこやかに言った。「こうすることが、誰にとっても最善の選択だったんです。僕自身も望んでいたことでしたし」
「寝言も休み休み言え。これがどういうことか、おまえとてわかっているだろう」
「わかってますよ。わかってるから、僕は首を縦に振ったんです」
「イーグル」
「部長」とイーグルは、身を乗り出しかけた部長を遮った。彼にしては珍しく、有無を言わせない口調だった。「もう決まったことです。僕がいなくてもカルディナがいます。海やアスコットも、もうじゅうぶん立派な戦力になってくれるでしょう。僕の穴なんて、すぐに穴とも思わなくなりますよ。それとも、そんなに不安ですか? 僕一人いなくなることが」
「え」と私は瞠目した。「……え?」
 イーグルと部長を交互に見やる。二人は、いがみ合うというよりも、部長がイーグルを一方的ににらみつけてその視線をイーグルがさりげなく跳ね返しているという感じだった。その視線のあいだに割り込もうとしたけれど、気が散ってできなかった。どういうこと? イーグルが、「いなくなる」?

「何言ってるの」と私はイーグルを見て言った。「いなくなるって、どういうこと?」
 悪い意味で部長と二人だけの空気を作り出しかけていたイーグルが、そのときやっと、思い出したように私の方を向いた。そして相変わらずの笑顔で言った。
「今度の人事異動で、香港支社に行くことになりました」
「お待たせしました、フィッシュアンドチップスです」
 先ほどとは違う、やる気がまったくなさそうな男性の店員がやってきて、これまたやる気がなさそうな動作でテーブルにフィッシュアンドチップスを置いていった。彼女と喧嘩したんです、とその背中に書いてあるように見えた。後には魚と油の匂いだけが残された。その匂いに刺激されたのか、胃がきゅっと締めつけられた。けれど食指はまったく動かなかった。私は腑抜けにされた魚のように、ぽかんとしてイーグルのことを見ていた。

「え」
 やっとのことで絞り出した声は、声にもならずに天井へと吸い込まれていった。
「香港って」と今度は少しはましな声が出た。「どうして」
「香港にもプロ戦と同じような部署を作ることを検討しているらしくて、その立ち上げのメンバーに選ばれたんですよ」
 イーグルが言うと、間髪容れず部長が鼻で笑った。
「そんなもの、体のいい理由づけに決まっているだろう。これは明らかな左遷だ。それも、不当な」
「結果さえ出せば、そんなことも言われなくなるでしょう。僕の力の見せどころですよ」
 ようやくいろいろなパーツが繋がり始めた。でも、できることならこんな繋がりは見出したくはなかった。
「もしかして」と私は二人を交互に見ながら言った。「社長のところへ行っていたのは、その話のためだったの?」
 うなずいたのはイーグルだった。
「ただ、この異動は社長の進言ではありません。一部の役員から、結果的にはうまくいったからよかったものの、一連の件で社内を騒がせたプロ戦の責任は重い、という指摘が上がったそうなんです。確かに一理あることです。役員を納得させるためにも、部長か僕か、どちらかに香港に行ってもらいたい。社長には、そう言われました。本来は二人ともという話だったところを、社長が自ら頭を下げてどちらか一人というところまで条件を緩和してくださったんです。社長にとっても、苦渋の決断だったようですよ」
「部署で起きたことの責任は私にあると言っただろう」と部長が声を張り上げた。「責任を取るという意味の異動なのだから、香港へは私が行くべきだ」
「それは違いますよ」とイーグルはかぶりを振った。「あなたはここに必要な人です。あなたのいないプロ戦は、プロ戦ではない。社長だって、それをわかっていたから、僕が手を挙げたときに反論しなかったのでしょう」
 私は呆然として部長を見た。そして、残念ながらイーグルの言うことは正しいと思った。イーグルがいなくなる、その穴は確かに大きい。でも、もしも部長がいなくなるとしたら、その穴はきっと比べ物にならないくらい大きいだろう。個性の強いプロ戦のメンバーがまとまっていられるのは、部長がいるからだ。彼のいないプロ戦など、考えられない。それはもう、「プロ戦」ではなかった。

「でも」と私は堪らず口を開いた。「どうしてイーグルなの? そもそも、どうして『部長かイーグルか』だったの? だって、今回の騒動の元凶は――」
「いいんですよ」とイーグルは私を遮った。「部下を守るのが上司の役目です。それに、あなたはなにも悪いことはしていません。実際、今回のプロジェクトを獲得できたのは、あなたの功績が大きいんですから。あのアイディア、とてもよかったですよ」
 ほほ笑んでそう言ってくれるイーグルに、返す言葉を何も見つけられなかった。私の不注意さえなければ、イーグルが香港なんかへ行くこともなかったのに。けれどイーグルは、あくまでも私にその言葉は言わせたくないようだった。

「そういう奴だったな、おまえは」
 やがて、部長が肩で大きく息を吐き出しながら言った。
「一度言いだしたことは決して曲げない。自分の信念は、何があっても貫き通す」
「あなたの部下ですから」とイーグルはしたり顔で言った。その彼をちらりと見て、部長もようやく笑顔を見せた。笑顔、と言えるほどの笑顔ではなかったけれど、少なくとも、直前まで部長を取り巻いていた不穏なオーラは消えていた。
「部下だという自覚があるのなら、少しは上司の言うことも聞いたらどうだ」
「上司の言うことをほいほいと聞いている部下が有能な部下だとは思いませんよ。あなたにさんざん鍛えられました。常に自分の意見を持てと」
 部長はまたため息をついた。そして吹っ切るように背もたれから身を起こすと、今一度、というようにジョッキを持ち上げた。
「改めて」と部長は言った。今度こそ、私たちはちゃんとした乾杯をした。

「これが僕の送別会ですね」
 ジョッキを置いて、フィッシュアンドチップスに手を伸ばしながらイーグルが言った。
「いつ発つの?」と私は訊いた。
「あさってです」
「あさって?!」
 はい、とイーグルはこともなげにうなずいた。
「行くなら早い方がいいと思って。香港は初めてですから、観光もしたいですし。そのチケットを取りに行っていたので、ここに来るのが遅くなったんですよ」
「でも、そんな急に」
「急なのがいいんです」とイーグルは笑った。「ここ最近は、ちょうど『柳』の件にかかずらってばかりいたので、引き継がなければならないような業務もありませんし。それに、別れの挨拶とか、そういう辛気臭いものは苦手なんです」
 来週出社したときに、もうイーグルはいない。それはあまりにも現実感のないことで、うまく想像できなかった。ただ、今部長との三人で囲んでいるテーブルから彼がいなくなることを思うと、それは逆にあまりにも簡単に想像することができて、なおかつとても淋しいことだった。きっと、イーグル自身が思っているよりも、彼のいなくなる穴は大きい。かといって、それを認めてしまってはいけない気がした。誰よりもイーグルがそれを望んでいないだろうと思った。イーグルなんかいなくてもへっちゃらです。今までと変わらずにやっていけます。そんな言葉を、彼は望んでいるように見えた。

「遊びに行くわ」と私は言った。「夏休みに、香港。そのときは、案内してね」
「喜んで」とイーグルは言った。
「夏休みなんて取れると思ってるのか」
 まるで水を差すように、部長がしれっと言った。
「ええっ」と私は思わず叫んだ。「何言ってるんですか、部長。当たり前ですよ。夏休みは労働者の権利です」
「おまえもずいぶんと生意気な口を利くようになったな」
「僕の部下ですから」とイーグルはけらけらと笑った。そうです、と私が胸を張ってうなずくと、部長はげんなりした風に肩を落とした。というか、私たち二人とも、あなたの部下なんですけど。心の中ではそう思ったけれど、言わなかった。代わりにイーグルと二人、声を上げて笑った。
「今日は飲みますよ。金曜日ですし。ね、部長」
 イーグルが言った。部長の返事を聞く前に、彼は店員を呼んでいた。

 私は彼から、学ぶべきことをすべて学べただろうか。店員を呼ぶイーグルの横顔を見ながら、ひそかに自問した。イーグルは、仕事を遂行していく上でのtipsを数多く教えてくれた。そのすべてを、私はちゃんと、取りこぼすことなく拾えただろうか。
 今後もしも仕事で躓くことがあったなら、そのときはきっとイーグルのことを思い出すだろう。彼は誰よりも頼れる先輩だった。仕事の先輩としても、人生の先輩としても。

 罪悪感に身を沈めるのは、もうやめよう。この瞬間、私は自分自身の心に誓った。私を守ってくれたイーグルと部長のためにも、私がすべきことは、過去の失敗に囚われていつまでもめそめそしていることじゃない。失敗を糧として、今後よりレベルの高い仕事をしていくことだ。
 滲みそうになる涙を堪え、私は精いっぱいほほ笑んだ。ビネガーのたっぷりかかったこのときのフィッシュアンドチップスの味は、生涯忘れることはないだろう。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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