蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 17. 細い指

10万ヒット企画

その言葉の裏に隠した「もう少し一緒にいたい」という本音を、このひとは見抜いているのだろうか。

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 店を出ると、イーグルは大きく伸びをした。
「こんなに飲んだのは久しぶりですよ」と彼は言った。「楽しくて、つい飲みすぎてしまいました」
 うそばっかり、と私は思った。「ほろ」を少し過ぎたくらいに酔い、お手洗いの鏡で見た顔がまさしくおてもやんだった私が言うならわかる。けれどイーグルはまだまだ素面のはずだ。顔色はほとんど変わっていないし、呂律もしっかりと廻っている。私の優に四、五倍のアルコールを摂取したはずの人とはとても思えない。ビールと見せかけて炭酸ジュースを飲んでいたのではないかと疑ってしまうほど涼しい顔をしている部長といい、恐るべしうわばみだ。

「じゃあ、僕はこっちなんで」
 言って、イーグルは駅とは逆方向を指差した。ここからなら歩いて帰ることができる距離に、彼の家はあるのだという。
「イーグル」
 さっさと行ってしまおうとする彼を、慌てて呼び止めた。イーグルが足を止めてこちらを振りかぶる。一瞬の間。呼び止めたはいいものの、何も言葉が出てこない。そんな私に向かって、「心配いりませんよ」と言うかのように、イーグルがほほ笑んだ。
「さよならは言いません。いつか必ず、また一緒に仕事をしましょう」
 その一言は、私に計り知れぬ安心感を与えた。そうだ、きっとまた会える。これは、さよならじゃない。ほほ笑み返し、うなずいた。
「気をつけてね。香港に着いたら、連絡して」
「わかりました」
 イーグルの視線が部長に移る。
「いろいろと、ご迷惑をおかけしました」
 その言葉に、部長はくすりと笑った。
「いいビジネスがあったら、東京に回してくれ」
「いやですよ」とイーグルは即答した。「いいビジネスは、僕がやります」
 きっと二人とも淋しいのだろうと思った。憎まれ口ばかり叩いているが、二人は上司と部下という関係を越えて、よきライバルであり、信頼できる同僚だったはずだ。

「では、おやすみなさい」
 それから二言三言言葉を交わすと、イーグルは最後に普段の飲み会の帰りと同じ言葉を口にした。ひらひらと手を振りながら去っていく彼の後姿を、私はただ見つめ続けた。そうしていると、数刻前の彼との会話が脳裏に鮮やかによみがえった。
「好きになりそうでした」
 部長が中座したとき、イーグルは何の前触れもなくそう言ってきた。その瞬間、店内の喧騒が、私の耳の手前で止まった。
「え?」
 瞠目した私を見て、イーグルはいたずらにほほ笑んだ。
「もう少し一緒に働いていたら、あなたに告白していたと思います」
 言葉を失い、中途半端に口を開けたまま、イーグルのことを穴が開くほど見つめた。そうしていると、あるときイーグルが徐に私から視線を外し、ビールを飲んだ。すると私の肩の力も抜け、再び周囲の音が耳に入り始めた。幾多の感情が複雑に交ざり合う。結果的にそれは、苦笑という形になって現れた。
「それがそもそも、告白じゃないの?」
 アスコットのときとはまるで違った。冗談めかしてそんな言葉を口にできたのは、イーグルの醸し出す気配が軽かったからだ。イーグルは私を見て、笑った。
「それもそうですね」
 あっけらかんとしているイーグルに、目が細くなる。そんな風に自分の気持ちを素直に肯定できる人が、今の私は何よりもうらやましかった。

「部長のことが好きなんですね」
 間を置いて、イーグルは淡々と言った。驚かなかった。彼にはばれているだろうと思っていた。いや、思っていたということに今気づいたというべきか。だからこそ、素直にうなずくことができた。それを受けたイーグルは、なぜか嬉しそうだった。
「頑張ってくださいね」とイーグルは言った。「あのひとは、一筋縄ではいきませんから」
「え?」と私は彼を見返した。「何言ってるのよ。頑張るもなにも、部長はもう……」
 結婚してるじゃない。そこまでは言えなかった。口にするには哀しすぎることだったし、言わなくても、イーグルならば行間を読んでくれるだろうと思った。そしてその期待どおり、彼は私の言わんとしていることを、たぶん、理解した。だからこそ視線を外したのだろう。けれどその直後にイーグルが発した言葉は、私の想定の中にはまったく存在していなかったものだった。
「それも含めてですよ。それも含めて、一筋縄ではいかないということです」


 あれはどういう意味だったの? 去っていく背中に、静かに問いかける。確かに一筋縄ではいかないひとだとは思うけど、でも、結婚している事実はもうどうしようもないじゃない。それとも、結婚していることなど忘れてアタックしろというの? 奪い取る気持ちでいけということ? そんなこと、できっこないわ。
「龍咲」
 すっかり感傷に浸っていた私は、当の部長に呼ばれて思わずびくっと肩を震わせた。振り返ると、逆に部長の方が驚いた顔をしていた。
「どうした、ぼんやりとして」
「ご、ごめんなさい。何でもないです」
 慌てて答え、部長に歩み寄る。まったく、と言うように肩を竦め、部長は歩き出した。そこで、そういえば私たちは帰り道が同じなのだということに気づいた。ここから電車に乗れば、私は二駅先で降りることになる。部長はどこに住んでいるのだろう。気になったけれど、聞けなかった。駅までの道のりを、黙って歩き出した。


 帰りたくないなと思った。別段急に思いついたことではないけれど、その気持ちをはっきりと自覚すると、自分でも驚くほどそれは大きく膨らみ、心を圧迫した。けれどとても言えたものではなかった。すでに夜も9時を廻っている。これから部長と二人きりになったりしたら、私はたぶん、気持ちを抑えていられなくなる。
 今だってじゅうぶん辛いのだ。酔っているのも手伝って、斜め前を歩く部長の手にばかり目が行った。その細い指に、自分の指を絡めたい。でもそんなことをしたら、あの指輪に触れることになってしまう。そう思うと、やっぱりできなかった。勢いのせいにするには、酔いが全然足りなかった。

「龍咲」
 またも突然呼ばれて、私は性懲りもなく、やはり飛び上がらんばかりに驚いた。「は、はい」と、自分でもそれとわかるほど裏返った声で返事をする。部長が立ち止まる。合わせて私も立ち止まった。振り向いた部長と目が合う。ああ、ほんとに好き。
「もう一軒行くか」
 その低い声が紡いだ言葉を、簡単に信じることはできなかった。あ、はい。心の中ではそう言ったつもりだったのに、実際に私の口から出たのは、
「え?」
 といういかにも半端なもので、言葉にさえなっていなかった。
「ああ、用事があるならいい」
 目を丸くした私の反応を、部長はどうやら否定と捉えたらしい。ゆるくかぶりを振ると、彼はさっさと歩き出そうとした。気がついたときには、私は部長の腕にしがみついていた。部長が驚いて振り返る。いい匂いがした。この腕を離したくないと強く思ったけれど、少しだけ力を緩めた。
「用事なんてありません」と私は言った。「もう一軒、行きたいです」
 その言葉の裏に隠した「もう少し一緒にいたい」という本音を、このひとは見抜いているのだろうか。上目遣いに部長を窺う。私がよほど必死に見えたのか、部長は困ったように笑った。その表情がどこかほっとしているように見えたのは、たぶん、都合のいい目の錯覚だろう。私は部長の腕から完全に離れた。

「どうしようか」
 ほとんど独り言のように言って、部長は周囲を見回した。多くはないが、このあたりにも飲食店はある。部長と一緒なら、笑笑でもスタバでも、あるいは吉野家でもよかった。でも、せっかくならという気持ちもあった。アルコールが気を大きくしていた。今なら勢いで何でも言えそうだった。結局、足りないのは酔いではなくて一歩を踏み出す勇気なのだと、いまさらのように思い知った。
「あの」と私は口火を切った。「行きたいところがあるんですけど」
「ああ」と部長がうなずき、先を促す。私はぎゅっと拳を握った。
「この間のレストランで、部長、おっしゃいましたよね。部長がもしも20代で私を口説こうとしていたなら、あのお店に行くって」
 すると部長は、あからさまに訝って眉根を寄せた。何を言い出すのだ、この小娘は。その顔には、わかりやす過ぎるくらいはっきりとそう書いてあった。けれど気にせず、私は続けた。
「それなら、今の部長が私を口説く店に連れていってくれませんか」
 真っ青な瞳をそれ以上できないほど大きく見開き、部長は私を見返した。心臓が、今にも破裂しそうに深く脈打っている。こんなに緊張したことはない。じっと部長の答えを待つ。一秒経つのが、まるで十秒分かかっているように感じた。

 そうして永遠とも思えるような時間が流れたころだった。部長は突然、呆れたように破顔した。そして、
「ばか者」
 と言って、私にでこピンをした。
「痛っ!」
 思わずおでこを押さえた。「何するんですか」と言おうとして顔を上げると、すでに部長は歩き始めていた。
「そういうことは、もっと大人になってから口にしろ」
「な……って、ちょっと、部長!」
 慌てて後を追う。連れて行ってくれるのかくれないのか、どっちなんですか。はぐらかされてしまい、聞くタイミングを逃した。どうしよう、と思っていると、部長が駅の手前の交差点で迷うことなく左に逸れた。途端、私の胸は高鳴った。夢中で部長の背中を追いかけていくと、やがて彼は、とある店の前で立ち止まった。

「誰にも言うなよ」
 扉に手を掛けてから、部長は思い出したように私を振りかぶって言った。
「この店は、誰にも知られたくないのだ」
 わかったな、と部長に念を押されては、否が応でもうなずくしかなかった。私が首を縦に振ったのを確かめると、部長は満足げにほほ笑んだ。そして扉を開き、私を先に中へと促した。
 そのしぐさはデジャヴだった。このあいだレストランに行ったときも、部長は「どうぞ」と言って、今と同じように扉を開けてくれた。会社では男も女も関係なく容赦ないくせに、一歩外へ出ると、部長はこうしてさりげなくレディーファーストをしてくれる。訳もなく胸がちくりとした。その痛みを、けれど深い呼吸とともにそっと飲み干し、私は中へ一歩足を踏み入れた。

 そこは小ぢんまりとしたバーだった。カウンターに八席と、テーブル席も三つしかない。照明は必要最低限しかなく、BGMは、掛かっているのかいないのかわからないほど小さい。中はほぼ満席だった。カウンターはすべて、一人で来ているサラリーマンとカップルで埋まっていた。年齢層は40代から50代が中心だろうか。誰もかれも、まとっている雰囲気が上品だった。なんだかまったく別の世界に迷い込んでしまったかのようで、内心気後れした。
「いらっしゃいませ」
 当然初めて来る店だった。それなのに、カウンターの中からした声になぜか聞き覚えがある気がした。何気なくバーテンと目を合わせる。何度か瞬き、そして私はあんぐりと口を開けた。
「うそ」
 思わず掠れ声でそう言ったとき、部長が私を追い越した。部長はちらりとバーテンに目配せをし、一人でさっさと中へ入っていった。慌てて私もついていく。途中でちらりともう一度バーテンを振り返ったが、もう彼とは目は合わなかった。

 部長はテーブルの間を通り、奥まった席へ向かった。そこは、入り口からだと死角になっている小さな席だった。そこだけ、まるで私たちが来るのを待っていたかのように空いていた。私を奥へ促し、部長が斜向かいに座る。キャンドルの光が、彼の頬を照らした。
「素敵なお店ですね」と私は言った。部長は何も言わずに目を細めた。
 とても座り心地のいいソファに、深く身を沈める。そのタイミングで、あのバーテンがやってきた。彼は最初におしぼりを手渡ししてくれ、それから私たちの前にコースターを置いた。そこには指輪の絵が描かれていて、よく見ると、手前に「LAST RING」と書かれてあった。

「どうする」と部長が言った。
「え?」
「まだ飲めるか」
「あ、はい」と私は反射的にうなずいた。「だいじょうぶです」
 にやり、という言葉がふさわしいように、部長は笑った。そしてバーテンに向かって「では、あれを」と言った。軽く会釈をし、バーテンが去っていく。その後姿を目だけでしばらく追いかけてから、私は部長に視線を戻した。
「どうしてあの人がここにいるんですか? 彼、あのときのフレンチで私たちのテーブルについてくれたボーイですよね」
 鼻眼鏡をかけたあの独特の風貌といい身のこなしといい、間違いない。そのときの私は、探偵が殺人事件の決定的な証拠を見つけたときのように、とても重大なことに気づいた心持だった。けれど部長は、
「この店の方が、彼の本職だ」
 と、あくまでもさりげない口調で言った。
「あのフレンチも、彼の所有ではある。ただ、あそこはごくたまに顔を出す程度で、ほとんどはこの店にいる。もっとも、あの店で出すワインに関しては、すべて彼が選んだものだが」
「そうなんですか」
 振り返り、改めてバーテンを見ようとしたが、その必要はなかった。彼が赤ワインのボトルを手に、ちょうどこちらへやってくるところだったからだ。そのとき私は、バーテンの胸元に光っている葡萄を模ったバッヂを見止めた。そういえば、そのバッヂはソムリエを意味するバッヂだと、前に本で読んだことがある。

 置かれたワイングラスは、飲み口から底にかけてゆったりと広がるデザインの、かなり大きいものだった。その二つのグラスに、バーテンはワインを少しだけ注いだ。彼はテーブルにボトルを置くと、「ごゆっくりどうぞ」とだけ言って去っていった。
「では」と部長は言った。それから少し考えて、「数十億の損失を見事回避した龍咲に」
 その一言に私が思わず身を乗り出したということは、言うまでもない。しかも、前回は「億単位」という曖昧な言葉だった部分が、「数十億」というはっきりとした数字に変わっている。われ知らず身震いした私に向かって、部長はしたり顔で笑い、グラスに口をつけた。グラスを持つ部長の指の繊細さに一瞬見惚れてから、吹っ切るように私もワインを含んだ。
 豊潤な香りの漂う赤ワインだった。しっかりとした重みがあるのに、不思議と飲みやすい。しつこさがまったくなく、思わず「おいしい」と言葉がこぼれていた。
「そうだろう。彼一押しのワインだからな」
 そう言った部長は、とても嬉しそうだった。

 不意に私は、淋しさを覚えた。その理由については、考えるまでもなかった。
「ここ、よく来るんですか」
 ごまかすようにワインを一口飲み、私は言った。
「ああ」と部長は答えた。
「奥様と一緒に?」
 すると部長は、口元に運ぼうとしていたグラスを途中で止め、瞠目した。いいんですよ、べつに。あなたが結婚していることは承知の上なんですから。そういう意味が伝わるように、努めてほほ笑んだ。部長は否定も肯定もしなかった。ただ、懐かしい思い出に浸るような顔をして、下ろしたワイングラスに視線を向けた。
 やっぱりな、と私は思った。「ばか者」と言われた時点で気づくべきだった。この店は、「今の部長が私を口説くなら」という私が出した条件に沿って選ばれた店ではない。部長がこの店を、誰かを口説く目的で使ったことはおそらくそのとおりだろう。ただ、その相手は私ではなく、今の奥様だった。
 これから私、部長が奥様を口説いたときの思い出話でも聞かされるのかしら。そう思ったときふと、友人に言われた言葉を思い出した。
「ご家庭であまりうまくいってらっしゃらないのではないでしょうか、クレフ部長」
 そんなことはなさそうよ、風。私は心の中で言った。うまくいってない人のことを思い出して、普通、こんな顔する?

 なんだかいろいろなことがどうでもよくなった。私はぐいとワインを飲み干し、空になったグラスをテーブルに戻した。コースターに描かれたリングの形が、心に波風を立たせた。
「いいんですか? こんな時間に、こんなところにいて」
 ソファに深く身を沈め、わざと明るい声で言った。
「奥様に怒られちゃいますよ」
 すると部長は控えめに笑った。どうして笑われるのか、まったくわからなかった。照れ隠しか、あるいは小娘だからといってばかにされているのか。カッとなって身を乗り出した。ところがそんな私を制するように、部長が「心配ない」と口を開いた。
「え?」
 部長は私を見た。確かに笑っていた。
「家では誰も待っていない。この18年、ずっと一人暮らしだ」
 そう言って、彼もワインを飲み干した。何食わぬ顔をしながら、部長は私と自分のグラスにワインを注ぎ足した。注ぎ口からワインを一滴もこぼさないので、手慣れているんだなと思った。そんなことを考えている私自身が、私は信じられなかった。

 部長がその細い指でワイングラスを持ち上げると、中身の赤ワインが、気だるそうに揺れた。
「彼女は死んだ。ともに日本へやってきてから二年が経った、ある晴れた日のことだった。二人だけで挙げるつもりだった結婚式の会場へ来る途中に、酒気帯び運転の車に轢かれてな」
 そのとき、カウンターから突然笑い声が聞こえた。とても上品な笑い声だった。ほんのすぐそばにあるはずのその世界が、急に銀河のかなたへと飛び去っていったように遠くなった。部長の手の中で波紋を広げるワインは、そこから外へ飛び出したがっているように見えた。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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