蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

諱 7. 雨

海誕企画★2013

ひとりなのだ。誰もいない部屋で夜が更けていくのをぼんやりと眺めていたとき、不意にそう感じた。

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 世界がすっかり闇に包まれる時間になっても、空腹感は訪れる気配すら見せなかった。昼も夜も、水以外は一切口にしていないはずなのに。そもそも「空腹」がどういう状態を指すのかさえ、よく思い出せなかった。

 セフィーロへ来る際、海はいつも「友達が暮らしている外国に行く」と両親に告げて家を出ている。両親は最初のうちこそ快く送り出してくれていたけれど、最近では渋ることが多くなっていた。今回も、二人を説得するのは思いの外骨が折れる作業となってしまった。
 両親が渋るようになったのには理由がある。海自身は自覚はなかったが、旅行――もといセフィーロへ行くたびに、海は痩せて帰ってくるのだという。
「旅先で、ちゃんとご飯食べてるの?」
 前回戻ったときは、たまりかねたのか母が「おかえり」を言うよりも先にそんなことを訊いてきたので、目をむいた。けれどもっと驚いたのは、その日の晩に体重を測ってみたら、本当に2キロも痩せていたことだった。なぜだろう、と思案したのは一瞬のことで、理由は明確だった。セフィーロにいるとき、海は確かに、ほとんど食べ物を口にしていない。それは訪問を重ねるごとに顕著な傾向となっていった。
 セフィーロの食べ物が美味しくないわけではない。むしろ、「これはいただけない」と感じたものは、今のところ一つもなかった。問題は食べ物そのものにではなく、気持ちにあった。「食欲」という、生きていれば自然に発生すべき欲求のうちのひとつが、まったくと言っていいほど湧かなかった。そして今日もまた、例に違わなかった。

 栄養を摂っていないから、少し歩いただけでもどっと疲れる。けれどかといって眠くなるわけでもなかった。もう何度目かわからない寝返りを打ったとき、海はベッドから下りた。そして静かに部屋を抜け出した。
 今夜海はひとりだった。光や風は、昼食はおろか結局夕食会にも顔を出さなかった海を心配して、今夜も一緒に過ごそうと申し出てくれたのだけれど、それは丁重に断った。今は、二人と長時間顔を突き合わせて平常心を保っていられる自信がなかった。箍が外れたら、それぞれに愛する人と幸せな日々を送っている親友たちに対してとんでもない暴言を吐いてしまいそうで、自分自身が恐ろしかった。
 ひとりなのだ。誰もいない部屋で夜が更けていくのをぼんやりと眺めていたとき、不意にそう感じた。二人の親友はそれぞれ望んでいたものを手に入れ、豊かな人生を歩んでいる。ずっと一緒だと思っていた二人とは、いつの間にか歩く速度が変わってしまったようだ。そう思うと、まるで自分だけが別の世界にひとり取り残されてしまったように感じた。それは、5分と身を置いていられないほど残酷な「孤独」だった。

 回廊にはまるっきり人気がない。それほど遅い時間でもないが、セフィーロの人々は一日を終えるのが早い。しんと静まり返った回廊には、海の足音だけが必要以上に大きく響く。その音を、まるで遠いところで奏でられるBGMのように聞きながら、海の足は自然とひとつの部屋へ向かっていた。
 誰でもいい、何でもいいから、この心を包んでほしい。それしか考えられなかった。あまりたくさんのことを考えられるような余裕はなくて、真っ先に脳裏に浮かんだ人のところへ行くほかに、海の中に選択肢はなかった。「辛くなったら、いつでも来るといい」――そう言ってくれたその人の声だけが、今の海が縋ることのできる、ただひとつのものだった。

 その部屋は何度も訪れていたので、迷わずにたどり着くことができた。扉の前に立つと、海はまじまじとその扉を上から下まで見回した。この扉の向こうに、部屋の主がいるとは限らない。彼はこの国の住人ではないし、前日も、急に自国からの呼び出しを受けて帰っていった。もしも彼がいなかったら、それまでと思って、大人しく部屋に戻ろう。そう心に決めて扉をノックしようとしたとき、ふと、海の耳は新しい「音」を捉えた。
 いったん手を止め、回廊の外を見やる。夜露だけではない雫が、茂る葉の先から落ちるのが見えた。次第に「音」は大きくなっていく。雨が降り出した。

 多くの者が寝静まるときを狙っているのか、今のセフィーロでは、夜の間に雨が降ることが多かった。もともとそんなに雨は好きではない。湿って髪がごわつくし、化粧の乗りも悪くなる。けれど今夜ばかりは、雨が降ってくれてよかったと思った。ささやかでも音があるだけで、孤独から解放されたように感じられた。急に増した、雨に対する親近感に浸っていると、目の前でガチャリとノブの廻る音がした。
 途端われに返り、はっと身じろぎする。開かれた扉の向こうで、枯茶色の瞳が大きく見開かれた。部屋の主――イーグルが、隙間から漏れる白熱灯の逆光の中に佇んでいた。
「……ウミ」

 海は少なからず狼狽した。どうしてイーグルは、海が扉の外にいることに気づいたのだろう。確かに一度ノックをしようとしたけれど、その手は途中で止めたはずだった。雨に気を取られているうちに、ひょっとしたら手が扉に触れていたのだろうか。それとも、この部屋へ向かう足音が、必要以上にうるさく回廊に響いていたのか。ともかく、心の準備が完全に整ってはいるとは言いがたい状況だった海は、心拍数が一気に上昇するのを感じた。
「ご……ごめんなさいイーグル、こんな時間に」
 イーグルが一度瞬く。刹那、羞恥心が海の頬を染めた。足を運んで来てしまったことを後悔した。「いつでも来てください」なんて、社交辞令に決まってるじゃない。それを真に受けてこうしてのこのこやってくるなんて、何考えてるのかしら。穴があったら入りたい気分で、俯いた。
「ほんとにごめんなさい」と海は言った。「帰るわ。大した話があったわけじゃないの。邪魔をして――」
「どうぞ」
 けれど海の言葉は途中で遮られた。はっと顔を上げると、イーグルは穏やかな笑みを浮かべ、扉を大きく開いて部屋の中へ海を招き入れるしぐさをした。
 わかってるんだ。イーグルの、どこかほろ苦い笑みを見て、海は直感した。私がなぜ今夜この部屋を訪れたのか、その理由を、この人は知っている。
 そうとわかると、急速に心が落ち着いていくのを感じた。何も知らないのは私だけなのかもしれない。唐突にそんなことを思った自分がばかばかしかった。海は自嘲気味にほほ笑み、小さな声で「ありがとう」と言うと、招かれるままに部屋の中へ入った。


 イーグルが自室として使っているその部屋は、精神エネルギーの使い過ぎによって彼がひたすら眠り続けていたときから、ほとんど変わっていない。大きなベッドと二人掛けのソファ、それに小さな机がある程度の、とても殺風景な部屋だ。六年前と比べて変わった点といえば、ワードローブがひとつ増えたくらいだろうか。それは、バスルームへと繋がるもう一枚の扉のすぐそばにあった。
「何か飲みますか?」とイーグルが訊いてきた。
「ありがとう、お構いなく」と海は答えた。
 本当に、何かを飲み食いしたい気分ではなかったからそう言った。けれどイーグルは、海の言葉など聞こえなかったかのように机の方へ向かうと、そこに置かれていたガラスケースの扉を開けた。
 そのケースにイーグルのアルコールコレクションが入っていることは、知っていた。海もようやく嗜むことのできる年になり、何度かこちらの世界の人たちと飲み交わしたことがある。イーグルはどれほど飲んでも変わらない人だった。一番の酒豪はザズだが、イーグルも負けず劣らず酒に強いと、海は思っている。「酔ってますよ」と言いながら、彼はまったく顔色を変えないのだった。
「座っていてください」
 こちらに背を向けたまま、イーグルは言った。少し迷った彼の手が、海が比較的好きな果実酒を取り上げたのを見て、海は口元をそっと緩ませた。

 改めて部屋を見回す。回廊にいたときは、開かれた扉から漏れ出た光をずいぶん明るいと感じたが、実際に部屋を照らしている明かりはごくごく最低限のものでしかなかった。一番明るいのはベッドサイドのシェードランプだ。ほかは壁のところどころにある間接照明が照らされているだけで、部屋の大部分は仄暗い。
 中庭へと続く大きな窓は閉ざされ、そこには薄いレースのカーテンが引かれている。晴れた夜であればそこから月明かりが入ってくるのだろうが、今夜は部屋の中の方が明るかった。静かに降りしきる雨の音が、耳に心地よかった。
「座っていて」と言われたので、素直に座る場所を探す。最初は二人掛けのソファに腰掛けようと思ったのだけれど、そこはイーグルが使っているようで、何冊の本がばらばらに置かれていて座れなかった。結局、そのソファと向かい合うようにしてベッドの端に腰を下ろした。ふかふかの羽毛布団に体が沈む感覚には、えも言われず安心するものがあった。

「こんなものしかなくて、すみません」
 しばらくすると、イーグルは二つのグラスを手にやってきた。差し出された一方のグラスを受け取り、礼を言う。数種類の果実が複雑に混ざり合った香りが鼻を突く。その飲み物を見て、驚いた。どこから出したのか、そのお酒にはレモンの輪切りが添えてあった。海は確かに、その果実酒にレモンを絞って飲むのが好きだ。けれどそれをイーグルに教えた覚えはなかった。何気なく見て、知ったのだろうか。思わずイーグルを見上げたけれど、彼はにっこりとほほ笑むだけだった。
 イーグルは自身のグラスを手に、海と斜めに向かい合ってソファに腰を下ろした。イーグルのグラスにはレモンはない。それを見ながら、海は手にした酒を口に含んだ。丸一日水以外の物を受け入れていなかった体には、必要以上にアルコールが沁みた。
「おいしい」と海は呟いた。
「それはよかった」
 そう言って、イーグルはさりげなくベッドサイドの丸テーブルを引き寄せた。飲まないときはそこにグラスを置けということだろう。そういう如才ないことが本能的にできてしまう人、それがイーグルだった。

「何があったんですか」
 その言葉は、あまりにも唐突だった。海は思わずはっと肩を震わせ、イーグルを見やった。
 イーグルは普段、相手に何か話したいことがあるのだということがわかっても、自ら話題を振りかけるようなことはほとんどしない。どんなに痺れを切らしたとしても、今のような言い方をするのを聞いたことはなかった。「何『か』あったんですか」ではなく、「何『が』あったんですか」。イーグルは確かにそう言った。それは、「何かあった」ことはすでにわかっていて、その「あったこと」の中身を知りたがっているということだった。
 俯き、両手で持ったグラスの中身を見つめた。水面がゆらゆらと波打っている。
 その波紋を追いかけていると、急に、張り詰めていたものが堰を切ってあふれ出てくるのを感じた。グラスをつかむ手に力を込める。そしてほとんど勢い任せに、中身をぐいっと喉に流し込んだ。
「ウミ……!」
 驚いてイーグルが身を起こすのも気にせず、海はグラスの半分ほどを一気に飲み干した。喉が焼けるように熱くなったけれど、それは心の痛みに比べれば何でもなかった。グラスをテーブルに置き、息をついた。するとイーグルが呆れたように苦笑した。
「それ、飲みやすいですけど、アルコール度数は結構高いんですよ?」
 咎める口調ではなかった。それが天の救いなのか、それとも残酷な悪魔の囁きなのか、海にはわからない。けれどもう、どちらでもいいことだった。

「忘れたいの」
 ぽつりと口から漏れた言葉とともに、目から冷たい雫がこぼれ、膝の上でそろえた手の甲に落ちた。
「クレフを好きになったことも、彼と過ごした時間も、全部……全部、忘れたいの。それなのに、何ひとつ、消えてくれないの」
 あらゆる努力のすべては水の泡だった。それは、今こうして流れる涙が証明している。ほかの人に振られたときのように簡単に忘れられたらいいのに、どうして彼に限っては、どうしてクレフに振られたときに限っては、この心の痛みを消し去ることができないのだろう。

 初めてのキスの相手は、顔もろくに覚えていない。初めて抱かれた男に至っては、行為の痛みばかり記憶に残っている。ついこの間別れた八歳上の彼のことだって、すでに記憶の遠いところへ向かおうとしている。それなのに、クレフのことはことごとくすべて残っている。鍵のかかる大事な箱に入れられているかのように、すべてが起こったままに。
 最初はしかめっ面ばかりだった彼が、初めて向けてくれた笑顔。戦いの最中に握ってくれた手の温もり。穏やかになったセフィーロで、海が訪れるたびに「どこへ行こうか」と訊ねてくれた優しさ。時に叱り、時に耳に痛い言葉をぶつけながら、温かく見守ってくれていたこと。何ひとつ、忘れていない。忘れられない。この六年間、海の記憶は常にクレフとともにあった。東京にいるときも、お菓子を食べていれば「これならクレフも食べられるかしら」と考え、勉強に詰まれば、「こんなの、クレフならきっと朝飯前ね」と考えていた。

「知ってたのよ、彼が応えてくれないこと」
 海は問わず語りに言った。
「知ってたのに、どうしてこんなに苦しいの? クレフが私を受け入れてくれないことは、誰よりも私がよくわかっていたのに。当たり前のことが起きただけなのよ。振られるだろうと思っていた人に、現実に振られた。それだけなのに、私、ご飯も喉を通らないほどになるの」
 誰でもいい、何でもいいから、この心の痛みを自分以外のせいにしたかった。私が望んだことじゃない。そう思い込みたかった。けれど、できなかった。心の奥で、もうひとりの自分が慟哭している。痛い、痛いと叫んでいる。クレフに振られたその事実よりも、もう彼のそばにいられないということが、何よりも哀しいと言っている。
「クレフなんか、好きにならなきゃよかった。クレフに会わなかったら、私、こんな気持ち知らずに済んだわ。全然違う人のことを好きになって、今ごろ幸せな生活を送ってたかもしれないのに。全部、クレフのせいよ。そう思うのに、どうしても、嫌いになれないの。私、もう、どうしたら――」
 言葉を中断せざるを得なくなった。突然唇に柔らかいものが触れたからだ。それがイーグルの唇だったと知ったのは、ややあって彼のそれが離れ、至近距離で見上げられたときだった。

 イーグルは海の両腕をつかんで床に膝をつき、その枯茶色の瞳に、海だけを映していた。
「僕じゃ、だめですか」
 そんな風に掠れた彼の声を聞いたのは、初めてだった。
「……え?」と海は瞬いた。
 アルコールが廻ってきたのか、体が熱い。イーグルに触れられている腕はひんやりとしていて、そこだけが、まるで現実ではないようだった。
「僕なら絶対に、あなたをこんな風に泣かせたりはしない」
 イーグルが首を振ると、その鳶色の髪がさらりと揺れる。眉間に皺を寄せて、彼は訴えるように海を見た。ベッドサイドのランプに横顔だけを照らされたイーグルは、海のよく知った彼とはまるで別人のように見えた。
「僕じゃだめですか。僕じゃ、あなたの心に寄り添うことはできませんか」
 ぎゅっと腕をつかまれて言われたその言葉に対して首を振れるほどの強さを、このときの海は持ち合わせていなかった。

 震える唇をかめば、涙でしょっぱい味がする。つかまれた腕を、海はそっと持ち上げた。そのまま両手をイーグルの首の後ろに廻すと、彼がその動作に応えるように体を浮かせる。再び重ねられた唇は、先ほどよりも深い口づけを求め合った。
 果実酒の香りが、鼻のあたりに立ち込める。その香りと、齎される口づけの甘さに、文字どおり酔いしれる。追い詰めるような口づけに、自然と体が後ろへ倒れる。羽毛布団に背中が沈んだ。
 一度、イーグルの唇がそっと離れる。至近距離で見つめ合ったその瞬間、海はすべてをかなぐり捨てた。
 雨の夜でよかったと思った。何かごまかす音がなければ、嬌声と泣き声の区別がはっきりとついてしまっていたかもしれなかった。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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