蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 19. 撞着

10万ヒット企画

辛かった。節々に、部長がどれほど亡くなった婚約者のことを想っているのかを感じさせるものがあって、そのたびに、部長との間に距離を感じた。

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 眩しいと感じて首を傾けると、もっと眩しくなった。うーん、と呻けば、途端に頭が割れるように痛んだ。
「痛っ……」
 思わず頭を押さえる。目を開けると、カーテンの隙間から日差しが射し込んできているのが見えて、それが眩しさの正体だとわかった。
 ゆっくりと起き上がる。頭痛が本当にひどい。全身気だるいし、指はむくみが深刻だ。どうしたんだっけ、と、廻らない頭をなんとか廻そうと試みる。ゆうべはたしか、部長とイーグルとの三人で祝勝会に行ったはずだ。そうそう、イーグルと別れてから、部長と二人で二次会にも行った。そこで部長の衝撃の昔話を聞かされた。そのときに感じた心の痛みははっきりと覚えている。今の頭痛とは比べ物にならないほど強い痛みだった。問題はその後だ。覚えていることといえば、呆れたようにため息をついた部長のしぐさくらいだけれど――
「あ」
 ようやく思い出した。というより、思い出せないことを思い出した。途中からの記憶が、途切れ途切れにしかない。完全に泥酔していたのだ。どうしよう。ただでさえブルーな月曜日が、来週は部長に怒られるという最悪の展開からのスタートになりそうだ。
 はあ、とため息をつき、掛かっていたブランケットをはがす。見れば、きのう着ていた服のままだった。あちゃあ、と額を叩く。スカートもブラウスも、皺くちゃになっている。これはクリーニングに出すしかなさそうだ。

「え?」
 おかしいことに気づいたのは、ベッドから片足を下ろしたときだった。床の雰囲気が、なんだか私の部屋とは違うように感じた。顔を上げ、それが勘違いではないと確信する。やけに殺風景でだだっ広いそこは、どこからどう見ても私の部屋ではなかった。
 なんだろう、ここ。どこかのホテルかしら。そんなことを考えていると、壁のハンガーに掛かっているジャケットが目に留まった。え、と思ったのは、そのペールグレーのジャケットに見覚えがあったからだ。そのジャケットを羽織ったひとの姿が脳裏に浮かぶ。間違えるはずはなかった。彼とはほぼ毎日顔を合わせているのだから。
「うそっ」
 飛び起きた。反動で頭が割れるように痛んだが、それどころではなかった。
「うそうそうそ」
 改めて部屋を見回す。この殺風景さも無機質さも、「そう」だとすれば納得できる。ここは、あのジャケットの持ち主の、つまり部長の部屋かもしれない。でも、どうして。どうして私が彼の部屋のベッドで寝ているの。

 簡単には思い出せそうにもない記憶を、どうにか掘り起こそうと努める。二件目に行ったバー――名前はたしか、「LAST RING」――で、亡くなった、部長の奥様になるはずだった人の話を聞いて泥酔したところまでは覚えている。それから、どうした?「お客さん、どうしますう?」。そう言ったのは誰だった?「いやです。帰りたくない」。そんなことを言った気も、しないでもない。「だいじょうぶか?」それは何度も言われた。揺り起こされて見れば、知らない家に着いていた。玄関に入って、それから――
「……最悪」
 吐き捨てるように言った。完璧に思い出してしまった。忘れていた方がおそらく何倍も幸せだった、ゆうべの記憶を。ここは間違いなく、部長の部屋だ。でも、部屋の中に当人の姿はなかった。

 ベッドサイドにある時計に目を向ける。それは6時を3分ほど過ぎたところを指していた。二件目のバーを出たときは、定かではないが、すでに深夜0時は優に廻っていたはずだ。それからここへ真っすぐやってきたのだとしても、睡眠時間はせいぜい四時間といったところだろう。普段とは比べ物にならないほど短いのに、なぜか眠くはならなかった。頭痛はひどかったが、起きていられないほどではなかった。
 どうしよう。さんざん迷ったが、最終的には意を決して出ていくことにした。このままこの部屋にいるわけにもいかない。だいたい、我慢できそうになかった。起きてから気づいてしまった。彼のベッドで寝ていたせいで、部長の匂いが全身に染みついている。こんな状態のままでこの部屋の中に留まっていられるわけがなかった。すでに心臓は、うるさいくらいに速く脈打っていた。


 そっと部屋を出る。廊下にはまったく人気がない。どうやらそこは一軒家の二階のようだった。私が出たそのすぐ隣と、廊下の突当りに、それぞれ一部屋ずつある。けれどどちらの部屋も扉はきっちりと閉ざされていて、使われている気配がまるでなかった。それらの部屋の本来あるべき姿には思い当たるところがあったけれど、それ以上は考えないようにして、黙って階段を降りた。
 家の中はしんと静まり返っていた。外から微かに鳥の声が聞こえるが、それ以外には、音らしい音はなにもない。ないのは音だけではなかった。どこに目を向けても塵が、ほんのひとつまみとして落ちていなかった。まるで物語の中からそのまま抜け出してきたかのように、きれいすぎる家だった。
 玄関のすりガラスを通して、鈍い朝日が射し込んでくる。靴が二足並んでいた。一足は私のもので、もう一足はやはり部長のものだった。私の鞄も置いてあったその玄関を尻目に、リビングへと続く扉をそっと開けた。

 向かって左側はダイニングだった。テーブルの奥にはアイランド型のキッチンがある。調味料や調理道具が整然と並べられたそのキッチンだけは、妙に生活感があった。
 次に右側へ目を向ける。部屋の角に大きなテレビがあって、その向こうはほぼ一面窓になっていた。窓に掛かったレースのカーテンを通り、朝日が部屋の中を照らす。夏らしく真っ直ぐな日射しだった。その日射しの先に、長いソファがあった。こちらに背を向けてはいるけれど、その背もたれの向こう側に、伸ばされた足が見えた。どくん、と鼓動が大きくなる。ごくりと一度唾を呑み込み、そろそろと近づく。前面に廻ると――やはり。部長が寝ていた。
 彼は私とは違い、きのう着ていた服のまま寝ているということはなかった。大判のガウンを羽織り、タオルケットも何もかけずに横になっている。いくら真夏だとはいえ、家の中はクーラーが効いていて涼しい。こんな恰好で寝ていたら風邪をひいてしまうのではないか。けれどもっと驚いたのは、ソファの前にあるローテーブルの上に、ブランデーのボトルとグラスが置いてあるのを見止めたときだった。ゆうべあれだけ飲んだのに、帰ってきてからも、部長はひとりで飲んだのだろうか。そっと部長の顔色を窺う。酔いつぶれた様子はまったくなかった。やっぱり、恐るべしうわばみだ。

 整った顔の近くで、そっとしゃがむ。まったく、と思う。自分の家なのに、私のことをベッドで寝かせて自分はソファで寝るなんて。どうしてそんなに優しくするんですか。優しくされたら、私、忘れられなくなっちゃいますよ。それでもいいんですか。
「ねえ、部長」
 よく眠っていたはずだった。それなのに、私がそう呟いた刹那、まるで突然スイッチが入ったかのように部長はぱっと目を開けた。驚いて思わず飛び上がった。ひょっとして、ずっと起きていたのだろうか。けれど部長は、それからしばらく動こうとしなかった。おそらく本当にたった今起きたのだろう。何度か瞬きを繰り返してから、部長はようやくといったように「ああ」と息を漏らした。
「龍咲。起きたのか」
 そう言って、部長はむっくりと起き上がった。いつもはサラサラの髪なのに、今日は少しだけ寝ぐせがついていた。その髪を掻き上げて、部長は眩しそうに目を細めた。「今何時だ?」と言って壁の時計を見て、「まだ6時か」と言った。そして唐突に私を見、
「ずいぶん早いな。眠れなかったか」
「あ、いえ」と私は慌ててかぶりを振った。「よく眠れました。ただ、目が覚めちゃって」
「そうか」と部長はすんなりうなずいてくれた。
「あ、あの」
「ん?」
「昨夜はすみませんでした」
「ああ」
「あの、私、何か失礼なこと……」
「言った」
「えっ」
「それはもう、さんざん言われた」
「ほ……ほんとに?」
「嘘をついてどうする」
「そうですよね……」
「まあでも」
「え?」
「大したことは言われていない。だから、気にするな」
 そう言って、部長はほほ笑んだ。

 もうやめて、と私は思った。もうこれ以上、好きになりたくない。
 部長の笑顔は猛毒だった。かといって視線を逸らすこともできない。私は押し黙った。すると部長の方が先に視線を外した。
「とりあえず」と彼は言った。「おまえはシャワーを浴びた方がいい」
「えっ」
 私の声が裏返ったことに気づいていないはずはないのに、部長はさっさとキッチンへ向かっていった。
「そ、そんな」と私は慌てて後を追った。「お邪魔して、しかもお風呂まで借りるなんて。そんなこと、できません。私、これで失礼します」
「その顔でか」と部長は蛇口を捻りながら言った。
「え?」
 私が目を丸くすると、部長はコップいっぱいに溜めた水を喉に流しながら、廊下の方を指差した。
「好きに使っていい」
 お風呂場へ行けという意味なのだろう。憚られたものの、部長に言われた言葉が引っ掛かり、遠慮がちにそちらへ足を向けた。まるでホテルのような広い洗面所に、大きな鏡があった。そしてその鏡に映った自分自身と目が合った瞬間、喉の奥ですり切れた悲鳴を上げた。化粧崩れに加えてくまもできていて、目元が悲惨なことになっていた。確かに「この顔」では外を歩けない。けれどそれよりも、部長にこの顔を見られたということが、私にとっては大問題だった。
「最悪……」
 この台詞、本日二度目です。私はその場でへたり込んだ。泥酔した挙句、さんざん迷惑をかけて、極めつけはこの顔。たった一晩で、いったいいくつの弱みを部長に握られてしまったのだろう。考えるのも厭だった。

 そうとわかってはシャワーを浴びないわけにはいかず、大人しく服を脱いだ。髪にはひどい寝ぐせが残っている。櫛を借り、だまになったところを梳かしてからお風呂場へ足を踏み入れた。二日酔いの朝の熱いシャワーは、思った以上に気持ちよかった。そのお風呂場には、メイク落としも、なぜかロクシタンのシャンプーまであった。とても男の人が一人で住んでいる家のお風呂場とは思えない。どうしてそんなものがあるんだろうということは、考えるまでもなかった。
「今すぐに、彼女が帰ってくるような気がしてね」
 ゆうべ部長がこぼした言葉が耳に響いた。きのうの記憶も、このシャワーと一緒に流れていってくれたらいいのに。

***

 今度はすっぴんをさらすことになるのかと思うとうんざりしたけれど、化粧が中途半端に崩れたあの顔を長時間見られるよりはいいと思い直した。さすがに服までは替えがあるわけもなく、脱いだばかりのそれを身に着けて洗面所を出る。そのまま暇(いとま)を告げるつもりでリビングに入ったのに、けれどぽかんと開いた私の口からその言葉が出てくることはなかった。
「え?」
 部長といるといったい何度驚かされなければならないのだろうと思った。香ばしい香りが部屋中に立ち込める中、部長はキッチンに立っていた。いつの間にか白いシャツに着替えていた彼は、慣れた手つきで料理をこしらえていたのだった。

「ちょっとこれ、持っていってくれないか」
 まるで料理人のような手つきに、半分以上は呆気に取られながらもつい見惚れていると、部長は私に気づいてそう言った。
「え?」
「これ、そっちのテーブルに」と部長は、カウンターに並んでいる二枚の皿を顎で示した。反射的にそれに目を向けると、二枚の皿にはそれぞれトーストが一枚ずつ乗っていた。
「あ、あの」と私はどもった。「私、いいです。朝ご飯なんて」
 ん、と部長はフライパンから顔を上げた。フライパンの中では、おいしそうな二つのハムエッグが仲良く肩を並べていた。
「なんだ、朝は和食派か」
「そういうことじゃなくて」
「では問題ないだろう」
「ありますよ。だって、こんな――」
 言いかけた私の言葉は遮られた。私のお腹から、意志とは無関係に発せられた、至極間抜けな音によって。
 慌ててお腹を押さえたが、時すでに遅しだった。上目遣いに窺えば案の定、部長は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「体は正直だな」
 もう反論できなかった。こんなときなのに、いつもと同じように空腹感があるなんて。観念して、言われたとおりに皿をダイニングテーブルに並べる。それからすぐ、部長がハムエッグとサラダの乗ったプレートを二枚持ってやってきた。ご丁寧にミルクまである。思えば、男の人の手料理を食べるなんて、パパ以外では初めてだった。向かい合って座ると、部長は何も言わずにカトラリーを手に取った。私は胸元で手を合わせ、「いただきます」と言った。

「部長って、いつも料理してるんですか」
 塩コショウだけのかかったハムエッグをフォークで突き刺し、訊いた。いったいどんな味付けをしているのか、並べられた料理はどれもこれも奇跡的においしかった。
「暇なときはな」と部長は言った。「ほかにやることもないのでね」
 ほかにやることがないからといって料理をする男性なんて、普通いないと思います。その言葉は、けれど言わずにおいた。部長がいろいろな面から見て「普通」ではないことは、とっくにわかっていた。
「しかし」と部長は感慨深げな表情になって口を開いた。「何年振りだろうな、人に振る舞うなど」
「え?」
 部長は私に視線を戻した。
「そもそも、この家に人を入れる機会がなかったからな」
 そう言って、彼は微かに表情を和らげた。
「そう、ですか」
 少ない言葉の中に、部長は果たしてどんな意味を込めたのか、あるいは意味など込められていない、ただ、私の緊張をほぐそうとした殊勝な言葉だったのか。どちらにしても、彼の言葉が私の心に深く沁み込んだことは明らかだった。もう、相手は誰でもいいから早く再婚しちゃってください。そんな言葉が喉元まで出かかっていた。もしも現実にそんなことになったら、泣いてしまうくせに。自分のあまのじゃくさに、ほとほと嫌気が差す。

 辛かった。節々に、部長がどれほど亡くなった婚約者のことを想っているのかを感じさせるものがあって、そのたびに、部長との間に距離を感じた。それは本当に辛いことだった。それなのに、部長とこうして一緒にいられることが嬉しかった。二人で食事をしている様子は、少なくとも私にとっては至極自然なことだった。あるいはこのまま、「今週末はどこへ行こうか」なんていう話に発展してもおかしくないような気さえした。そんなことは絶対にあり得ないのに。
 嬉しくて、だけど辛くて。心が張り裂けそうだった。ねえ、部長。私そんなに強くないんです。好きな人の気持ちが自分に向いていないことを知っていて、それでもそばにいられるほど、強くないんです。
 食事をごちそうになったら、今度こそ帰ろう。そう心に決めて、一口一口を味わうようにして食べた。もう二度と、こうして部長の手料理を食べることなんてないだろうから。


「送っていく。家はどこだ」
 ところが、食事が終わると部長はさもないことのようにそう言った。
「あの、部長」
 まさにやっとの思いで口を開いた。
「一人で帰れますから。子どもじゃありませんし」
 まあ、部長から見たら子どものようなものかもしれないけれど。
「気を使わなくてもいい。私も出かける用がある。そのついでだ」
 部長はにべもなかった。それどころか、早くも家を出る準備をしている。いったいいつの間に寝癖を直したのだろう。
「でも」と私は食い下がった。「私の家の方向に用事だとは限らないじゃないですか」
「つべこべ言わずに、行くぞ」
 そう言い放ち、部長はさっさと一人で玄関へ向かっていく。呼び止める暇すら与えてくれなかった。完全に彼のペースに巻き込まれているとわかっても、私には、そのペースを無理やり曲げるような力はなかった。大人しく従い、彼の後をついていった。


 部長の車は、私でも知っている外国メーカーのオープンカーだった。後ろの席などないに等しく、必然的に、私は助手席に座ることになった。その日はいよいよ本格的な夏の到来を思わせるカラッとした天候だったのに、部長はせっかくのオープンカーの屋根を開けることはしなかった。開けないんですか、と訊くと、おまえを下ろしたら開ける、と部長は言った。私が日焼けをしないように気を遣ってくれているのだということに気づいたのは、部長がエンジンをかけてからだった。
 私が家の場所を説明すると、部長は「ああ」と一度うなずいただけで、深く道順を訊いたりすることはなかった。馴染みのある場所なのかもしれなかった。

 車に乗り込むと、私たちは言葉少なになった。かといって部長は、音楽をかけることもしない。けれどその沈黙は、耐えられないようなものではなかった。外の景色を見ながら、こんな車で北海道なんかを走ったら気持ちいいだろうな、と思った。
 ゆうべはしこたま酔っていて、周囲の景色に気を配る余裕などまるでなかったが、今改めて見ると、部長の家は閑静な住宅街の一角にあるのだとわかった。目の前の通りを挟んだ向かい側は公園になっている。家の中の日当たりがよかったのはそのせいだろう。そこからいくつか細い路地を通ると、やがて比較的交通量の多い通りに出た。そこでようやく場所がわかった。私の家からは二つ隣の町だ。

「矛盾しているだろう」
 不意に部長が言ったのは、大通りの交差点で信号に引っ掛かったときのことだった。
「え?」と私は部長を見た。彼は前を向いたままだった。いつの間にか、薄いブルーのサングラスをかけていた。
「帰ってくることを期待していると言いながら、こうして私ひとりがようやく乗れる程度の車しか持とうとしない。明らかな矛盾だ」
 そう言って、部長は自嘲気味に笑った。
「わかっているのだ。私が待とうがどうしようが、世界は変化しながら廻り続けていく。その変化の中に彼女がいることは、絶対にない。そのことを、私はずっと、自らの中で認めてやるきっかけを求めていたのかもしれない」
 途中からは、独り言なのか私に向かって言っているのかわからなくなった。私は部長から視線を外し、前を向いた。
「そうですか」
 点滅する横断歩道を、高校生らしきカップルが駆け足で渡っていく。手を恋人つなぎにしたカップルは、仲良く人混みの中へと消えていった。そのあいだに信号が青になって、車が走り出した。それからは部長も私も、口を開かなくなった。


 次の角を曲がれば家だというところで、私は部長を止めた。
「本当にここでいいのか」
「はい。すぐそこですから」
 シートベルトを外し、私はドアに手を掛けた。
「ありがとうございました」
「ああ」と部長は言った。「気をつけて」
「はい」
 部長と目を合わせないまま、私は車を降りようとした。
「龍咲」
 そのとき突然呼び止められ、思わずぴくりと肩を震わせた。はい、と振り返ると、部長は何かを痛切に訴えかけるような顔をしていた。胸がどきどきした。そのまま私たちは、言葉もなく、しばし見つめ合った。先に視線を外したのは部長の方だった。
「いや」と彼はかぶりを振った。「なんでもない」
 また月曜日に。そう言って、彼はほほ笑んだ。もう一度「ありがとうございました」と言って、私は今度こそ、部長の車を降りた。

 だいぶ歩いてから、私はそっと後ろを振り返った。部長の車は、影さえもなかった。どこかに髪を止めていたバナナクリップを落としてきたことに気づいたのは、風に流された髪を手で押さえたときのことだった。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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