蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

乙女の祈り 3

中編

たとえすべてを忘れてしまっても、私のことだけは覚えていてほしかった。そんな醜いことを考えてしまっている私は、マリアと何も変わりない。

本文は「続きを読む」からどうぞ。





 空が茜色に染まっていたことにも気づかなかった。ぽんと肩に手を置かれてはっと顔を上げると、そこにいたプレセアの頬が紅かった。何をそんなに照れているの、と思ったのは一瞬のことで、そうして紅くなっているのは彼女の頬だけではないのだと、すぐに気づいた。
「やっと見つけた」
 プレセアは私の肩に手を置いたまま、ほろ苦く笑ってそう言った。その一言だけで、ずっと探し続けてくれていたのだとわかった。ごめんなさい、と心の中では思ったのに、言えなかった。プレセアに心配をかけたのは申し訳ないと思う。けれどクレフの部屋を飛び出してきてしまったことは、悪かったとは思えなかった。むしろ、彼の胸ぐらをつかんでなりふり構わず怒鳴り散らしたりしなかっただけ、褒めてほしいとさえ思った。

 無言のまま、プレセアから視線を外す。世界は夕闇の影に身を隠そうとしていた。太陽が上げる緋色の断末魔は、まるで私の心の悲鳴のようだった。ここから俯瞰する景色を美しいと思うことこそあれ、哀しいと思ったことなど一度もなかった。早朝の朝焼けも昼日中の青空も満天の星空も、いつも空は輝いて見えた。今だって輝いている。けれど今の私にとっては、その輝きはむなしいだけだった。
 何も変わらないのだ。私の中では決定的に変わってしまったことがあるのに、それっぽっちのことでは世界は変わらない。そのことがたまらなく切なかった。まるで、誰からともなくクレフ一人の存在などどうでもいいと言われているかのようだった。時間は前にしか進まないなんて、いったい誰が決めたのだろう。

「クレフと一緒に、よくここに来たの」
 問わず語りに、私は言った。プレセアが私の肩から手を離し、隣に静かに腰を下ろす。私はたった今まで突っ伏していた岩に腕を置いたまま、吹き付けてくる風に髪を遊ばせた。
「最初にここに連れてきてくれたときは、涙が出るほど感動したわ。奇跡みたいな景色が、現実に、見渡す限り広がっていたんだもの。クレフも笑ってくれたわ。ここから見るセフィーロが一番好きだって、教えてくれた。おまえたちが齎してくれたんだって、『ありがとう』って……」
 視界が滲んだ。けれどそのことを認められず、私は腕の中に顔を埋めた。あのとき向けてくれた笑顔も言葉も、クレフはもう覚えていないのだ。ベッドの上に座っていたクレフの、まるで感情を失ったような瞳が忘れられない。目を覚ましてくれただけでよかったと思うべきだろうに、どうしても笑えなかった。

 記憶がどれほど大切なものかなんて、これまでは意識したこともなかった。あって当たり前のものだったからだ。けれど記憶を失ったら、人はもうそれまでと等しくは生きられない。自分が歩いてきた道がわからなければ、そこからどちらへ行ったらいいのかわからなくなる。引き返すことも進むこともできず、その人はただ、道半ばで立ち止まらなければならないのだ。次に歩き出すときは、これまで描いてきた軌跡とはまったく別の人生を描くことになる。今のクレフは確かに「クレフ」かもしれないが、私のよく知ったクレフではなかった。同じ名前で同じ顔で同じ声をした、まったくの別人だった。

「ごめんなさい」
 プレセアが不意に口を開いた。
「やっぱり、会わせるのはもっと後にするべきだったわね」
 恐ろしいほど重たい頭を、ぐっと力を込めて腕から上げる。袖で目尻を拭い、私はやっとの思いでかぶりを振った。
「そんなことないわ。むしろ、早くに知ることができてよかった。後で知ったら、もっとショックだったと思うもの」
 プレセアはやるせなく笑った。その下瞼が、少しだけ腫れていた。
「本当に、同じヴァンパイアでも、全然違うのね」
 再びプレセアに横顔を向け、私は呟くように言った。
「え?」とプレセアが言った。
 稜線が、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。記憶がなくても、せめてこの景色を「美しい」と感じてくれたらいいと思った。そして、この世界をここまで美しく導いたのはほかでもない彼自身なのだということに、誇りを持ってほしかった。
「私たちの世界にも、『ヴァンパイア』がいるの」と私は言った。「白い二本の牙も、かんだ相手に二つの赤い斑点が残るのも同じ。でも、私たちの世界のヴァンパイアは、血を吸うの。『吸血鬼』と呼ばれているくらいだから」
 二つの世界のまったく違う性質を持つものが同じ名前を冠しているということが、そもそも不思議でならなかった。
「同じ『ヴァンパイア』でも、全然違うのね」とプレセアは神妙に言った。「セフィーロのヴァンパイアは、人の『記憶』を吸うもの」
 いっそのこと、血を吸ってくれるのだったらよかったのに。記憶を吸われることに比べたら、血を吸われることなんて、輸血さえすれば済むのだからなんでもないことのように思えた。記憶は血のように補充することはできない。誰かの記憶をクレフの心に入れることなんてできない。失われたものは失われたままで、空白が満たされることは永遠にない。

「マリアは、最初からヴァンパイアだったわけじゃないのよ」
 紅に染まる街に目を細めながら、プレセアは問わず語りに言った。
「もちろん、ヴァンパイアは世襲で受け継がれていくから、彼女がヴァンパイアの末裔だったことは確かよ。でもマリアは、『私はヴァンパイアにはならない』ってずっと言っていたの」
「え?」
 思わず、といったように、私は瞠目した。そんな私の反応に同意するように、プレセアはうなずいた。
「もともとマリアは、とても優秀な魔導師だったの。私が創師の最高位を拝命するよりずっと前から、その名を知られていたわ。クレフと一緒にいることが多くて、彼に意見することができるのは、彼女くらいのものだったのよ。それだけの力を持っていたの。素直じゃないところが玉に瑕だったけど、マリアの実力は誰もが認めていたわ。当時は空席だった『神官』の座に就くのはきっと彼女だろうと言われていたくらいだもの」

 ちくりと胸が痛んだのは、「神官」という称号を持つ人が、私の中ではたった一人しかあり得なかったからだ。神官ザガート。私が殺してしまった人。でも、これまでの歴史の中で「神官」という称号を冠していた人は、当然ザガート以外にもいるのだ。いまさらのように思い知った。そしてそのことによって、マリアが実力者だったということについて納得がいった。ザガートと同じ地位に就くだろうと目されていたということが、何よりの証明だった。

「でも結局、マリアが『神官』の座に就くことはなかったわ。ある日突然、彼女はヴァンパイアとして生きる道を選んでしまったの」
 当時のことを思い出したのだろう、プレセアは、その瞳に悲痛な色を浮かべた。
「いったいマリアの身に何が起きたのか、誰もわからなかったわ。人々が戸惑っているあいだに、彼女はどんどん、当時のセフィーロ城の中枢へと近づいていったの。みんなはっとなったわ。もしかしたら、マリアの狙いは『柱』であるエメロード姫なんじゃないかって」
 はっとしたのは私の方だった。
「そんな」と私はうろたえた。「もしも『柱』から記憶が消されたりしたら」
「『柱』でいられなくなってしまう可能性があるわ」
 そんなことになったら、セフィーロは破滅だ。過去の話をしているのだとわかっているつもりなのに、鼓動は高止まりしていた。

「誰もが必死でマリアを止めようとしたわ。でも、導師であるクレフに匹敵するほどの魔法力を持っていた彼女に勝てる者は、皆無と言ってよかった。マリアはあっという間に、エメロード姫のもとにたどり着いてしまったの。そこで最後の砦となったのが、クレフだったのよ。クレフはマリアの説得を試みたけれど、彼女はクレフの言葉にさえ耳を貸さなかった。痺れを切らしたクレフは、やむを得ず、マリアを本の中に封印したの。おかげで、『柱』が記憶を奪われるという最悪の事態だけは、間一髪で回避されたわ。……でも、その後、クレフはずいぶん非難されたのよ」
「え」と私は思わずプレセアを見た。「非難って、どうして」
「マリアのことを、殺すのではなく封印するという方法を取ったからよ」とプレセアは言った。「クレフのことをよく知らない人たちが、影でこそこそと彼のことを悪く言っているのを、何度も耳にしたわ。『本当は、導師こそがマリアにヴァンパイアとなるよう水を向けた張本人で、すべてはエメロード姫の失脚を目論んでのことだったのではないか』とまで言う人もいたくらいよ」
「ひどいわ」
 プレセアは泣き笑いのような顔になった。
「クレフのことを知っている人なら、あのひとが誰かを殺せるような人じゃないということくらい、簡単にわかるわ。特にマリアは、あのひとが幼いころからずっと一緒に育ってきた人だもの。封印という選択にも、クレフは相当心を痛めたはずよ」

 プレセアの言っていることは、手に取るようによくわかった。クレフは道端の草花がしおれているのを見るだけで心を痛めるようなひとだ。自分の手で誰かを殺して平気でいられるわけがない。まして、その相手が幼なじみだったなら、クレフが抜刀できるわけはなかった。クレフはきっと、マリアが更生する可能性にかけたのだろう。普通の人生を生きてほしい。そんな希望を、クレフはあの本に込めたのかもしれない。
「でも」とプレセアは苦笑した。「まさかそのクレフが、マリアの犠牲になってしまうなんてね」
 思わずプレセアから顔を逸らしてしまった。あのとき、クレフは最初からマリアの標的になっていたわけではなかった。クレフは私のことを守って、それでマリアにかまれてしまったのだ。私さえ気をつけていれば、クレフが記憶を失くすことはなかった。あのとき笑った膝が、恨めしかった。

「どうしてマリアは、ヴァンパイアになる道を選んだのかしら」
 けれど過去を悔いたところで何の解決にもならない。無理やり気持ちに蓋をして、私は訊ねた。プレセアはすぐには答えなかった。しばらくじっと、空と稜線の境目あたりを見つめていた。そのあたりはもう、濃紫に染まっていた。
「『欲しいものがある』って、言っていたわ」
 それはどこか唐突に響く言葉だった。
「欲しいもの?」
 ええ、とプレセアはうなずいた。
「エメロード姫を守るためにクレフがマリアと対峙していたとき、私もそばにいたの。クレフは、今あなたが言ったのと同じことを口にしたわ。そしたらマリア、笑ってそう言ったのよ。その『欲しいもの』が何なのかまでは、言わなかったけど」
 何かが心に引っ掛かった。奇妙なデジャヴに、頭がくらくらする。どこかで聞いたことがある――「欲しいもの」、それがあると言ったあの人は誰だった?
 思い出したその瞬間に、前触れは何もなかった。はっと顔を上げ、私は瞠目した。
「クレフの、記憶……?」
「え?」
「マリアの『欲しいもの』って、クレフの記憶だったんじゃないかしら」と私は言った。「あのときマリア、言ってたわ。『これがずっと欲しかったの』って」

 考えてみればおかしいのだ。あのときマリアは私を狙っていたはずだったのに、その私を庇ったクレフにかみついてしまったことについて、ちっとも驚いていなかった。仕切り直して再び私を襲ってくることもなく、むしろ満足そうに笑っていた。けれどもしも彼女の目的が最初からクレフの記憶を手に入れることだったとしたら、すべて説明がつく。
「そうよ、そうに違いないわ」と私は言った。「マリアは狙いは、クレフの記憶だったのよ」
 刹那、目の前の霧が晴れていくように、すべてのことが腑に落ちた。マリアはクレフの記憶を手に入れて、クレフと過ごした時間を自分だけのものにしてしまいたかったのだ。クレフだけが知っているはずのクレフを知ることで、ほんとうのクレフを手に入れたかった。きっと、ヴァンパイアになると決めたその瞬間から。マリアの狙いはエメロード姫ではなかった。城の中枢を目指していたのは、エメロード姫と一緒にいたクレフのところに行くためだ。
 でも、と必死にかぶりを振る。そんなのは間違ってる。記憶はその人だけのもので、ほかの人がどうにかできるものじゃないし、すべきでもない。それに、クレフから記憶を奪ってしまったら、クレフの中からは永遠に、マリアと過ごした日々は消えてしまうのだ。彼女だけがすべてを覚えているなんて、そんなの、哀しすぎる。

「……ウミ」
 プレセアを見られなかった。この瞬間、私は私の中にある想いをはっきりと自覚してしまった。マリアの選択が間違っていると言っているのは、偽善者の私だ。本当は、クレフの記憶を手に入れたいと願ったマリアの気持ちを、理解できている。なぜなら私も彼女と同じ想いを抱いているからだ。
「私とこの子の心の波長が、ぴったり一致したの」。マリアの言っていた意味がようやくわかった。私の想いとマリアの想いが、あの一瞬、繋がった。そしてそれは見えない『道』となり、あのとき、マリアを封じていた本を私の手元まで導いたのだ。
 こんなことが起きて初めて、自分の気持ちに気づくなんて。行き止まりだと思っていた壁が崩れ、果てしなく広がる道のスタート地点に立っているような気分だった。胸が痛い。たとえすべてを忘れてしまっても、私のことだけは覚えていてほしかった。そんな醜いことを考えてしまっている私は、マリアと何も変わりない。マリアはクレフの記憶を手に入れることを願ったけれど、私はクレフの記憶に残るただひとりの人になることを願った。二つの願いは、一見異なるように見えても、本質では同じだ。

「プレセア」
 つかみ掛かるような勢いで、私はプレセアに迫った。
「クレフはずっとこのままなの? 記憶を取り戻す方法はないの?」
 もしも方法があるのなら、それがたとえどれほど危険なことでもやるつもりだった。クレフの記憶は絶対に取り戻さなければならない。ほかの誰のためでもない、自分のために。すべては私の心の弱さが招いたことだ。贖罪を果たすには、クレフの記憶を取り戻す以外に選択肢はない。
「記憶を取り戻す方法は、あるわ」
 やがてプレセアは、きっぱりと言い切った。
「『精霊の森』のはずれに、『エスペランサ』という泉があるの。『記憶の泉』とも呼ばれているエスペランサの水を飲ませれば、クレフの記憶は戻るわ」
「エスペランサ」と私はプレセアの言葉を繰り返し、うなずいた。「わかったわ。その泉の水を持ってくれば、クレフの記憶は戻るのね」
「ええ。ただ……」
 言葉を濁したプレセアに、私は首を傾げた。プレセアは一度視線を外し、そしてもう一度顔を上げた。
「エスペランサは、マリアの領地なの」
 プレセアの瞳は夕陽と同じ色なんだと、こんなときなのに思った。




web拍手 by FC2

コメント

コメントを投稿


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

TB*URL

PrevEntry |  to Blog Top  | NextEntry
What's new?
ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

▶ 連作短編集を始めました。クレ海学生パラレルです。今後年中行事に合わせて不定期更新の予定です。詳しくはこちらからどうぞ。

▶ こちらは作品展示専用です。コメントへのお返事は別ブログにて行っております。
カテゴリー
最新記事
月別アーカイブ
全記事表示
Counter
プロフィール

篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

このブログは作品展示専用です。
いただいたコメントへのお返事は別ブログにて行っております。
どうぞお気軽にコメントお寄せくださいませ^^

 

Copyright ©蒼穹楼. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha. Photo by sozai-free 2000px.