蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

乙女の祈り 5

中編

ずっとそばにいたのなら、あなただって、クレフがどういう人なのかくらい、わかっているでしょう?――マリアの瞳に、無言でそう訴えた。

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 一歩足を踏み出すたびに、全身が悲鳴を上げるように痛んだ。致命的な傷こそないが、頭のてっぺんから足のつま先まで、無数の切り傷や擦り傷に覆われていた。加えて、大きな魔法を立て続けに放ったことによる心の消耗が深刻だった。そんな私をそれでも歩かせているのは、クレフの記憶を取り戻したいという願い、ただそれだけだった。

「それが、『エスペランサ』ね」
 間を空けて立ち止まり、私は言った。マリアは泉を守るようにして私とのあいだに立ちはだかっている。その泉を囲む開けた空間に足を踏み入れたとき、私はプレセアの言っていた意味を知った。確かにこの空間は、マリアの支配下にあるようだ。辺り一帯に漂う気配が、マリアを包むそれと等しかった。
「そうよ」とマリアは口角を引き上げた。「ここまで来られるなんて、意外だったわ。大変だったでしょう」
「その水を分けて」
 表向きは親切に聞こえるマリアの言葉を、けれど私はぶった切った。その態度が癪に障ったのか、マリアは一瞬で笑みを消し、私に背を向けた。もっと慎重に言葉を選ぶべきだったかもしれない。けれどはっきり言って、私にはもうほとんど余裕がなかった。万一ここでマリアと一戦交えるようなことになれば、おそらく私に勝ち目はほとんどない。だからできれば戦わずに済ませたい。その急いた気持ちが、私の言葉を乱暴にしていた。けれど本当は、戦いたくないのなら、もっと下手に出るべきなのだ。頭ではわかっているのに、行動が追いつかなかった。子どもだな、と思う。明らかな皮肉のこもったマリアの言葉をさらりと受け流すことさえできない。

 マリアは何も言わず、泉の縁にそっと手を置いた。長く伸びた爪は、真紅に彩られている。白い肌によく映える色だった。きのうはちゃんと顔を見るような余裕もなかったが、こうしてじっくりと見れば、マリアはとても美しい人だった。もっとも、今だってそんなに余裕があるわけではないのだけれど。
「わたしの魔法を破ったことは、褒めてあげる」とマリアはこちらを見ないまま言った。「でも、この水を分けてあげることはできないわ」
 まったく予想していなかった答え、というわけではなかった。むしろ十中八九そう言われるだろうとさえ思っていた。にもかかわらずすぐに反応することができなかったのは、ほんの一瞬、マリアの横顔に一抹の淋しさが浮かんだように見えたからだ。その淋しさに、無意識のうちに吸い寄せられていた。私は剣の構えを解いた。
「どうして、あんなことしたの」
 無防備ですわ、海さん。風ならそう言って窘めるかもしれないと、ふと思った。けれどこのとき、私には、マリアが攻撃を仕掛けてくるとはどうしても思えなかった。
「仲、良かったんでしょう。クレフと」

 マリアが私と同じ気持ちなら――彼女もクレフのことが好きなのだとしたら、クレフの心を手に入れて自分のものにしたいと思う気持ちは理解できる。きのうは確かにそう思った。けれど冷静になってよく考えれば、本当にそうかなと首を傾げざるを得なかった。もしも私がヴァンパイアだったとして、けれどそれでも、マリアのようなことはしないだろうと思ったのだ。
 力づくで人の記憶を手に入れることに、どんな意味があるというのだろう。記憶を失ったら、その人はもうその人ではなくなってしまう。今のクレフがかつてのクレフとはまるで別人になってしまっているように。このままではマリアは、彼女が好きになったはずのクレフに二度と会えなくなる。思い出は確かに美しいかもしれないが、それはどうしても色褪せていくものだ。これから先、どれほど続いていくかわからない未来は、思い出に縋っていては歩いていくことはできない。

「良かったのかしら」
 不意にマリアは言った。
「え?」
「仲、良かったのかしら、わたしたち」
 私は思わず瞬いた。そんなこと、私に訊かれたってわかるわけないじゃない。心の中で突っ込む。プレセアの話を聞く限りでは、マリアがクレフの手によって封印されたのはもうかなり前のことのようだ。私がこの世界と交流を持つようになったのはほんのわずか三年前からのことで、それより前の出来事についてはほとんど知らない。そんな私が、クレフとマリアの関係を批評できるはずはなかった。

「ずっと一緒だったのよ。小さいころから、ずっと」
 遠くに想いを馳せるような目をして、マリアは問わず語りに話し出した。
「魔導師になる修行だって一緒にしたし、二人でふざけて遊んだこともあったわ。でも、クレフはどんどん力をつけていって、いつの間にか『導師』になった。簡単に会えるような人ではなくなってしまったのよ。それでも、たまに会うクレフは昔のままだった。だから、会うたびにほっとしたわ。肩書がついても、クレフは変わらないって。でも」
 一度言葉を区切り、マリアはため息をついた。
「変わらないものなんて、この世にないのよ」とマリアは言った。「『導師』として人前に立つクレフを初めて見たときのことは、何年経っても忘れられない。ぞっとしたわ。そこにいたのは、私の全然知らないクレフだった。人々から恭しく頭を下げられて、当然のように『柱』の隣に立って、にこやかにほほ笑んでいるの。それがクレフと同じ名前で同じ顔をした別人だったらいいのにって思ったわ。でも、そんなことはもちろんなかった。わたしが気づかなかっただけで、クレフとの距離は、もう埋められないほど大きく開いてしまっていたのよ」

 言葉を返せなかった。「同じ名前で同じ顔をした別人」という言葉が、琴線に触れた。それはまさに、目を覚ましたクレフを見て私が感じたことと同じだった。あのときに受けた衝撃は、私も一生忘れることはないと思う。マリアにとっては、『導師』の顔をしたクレフを見た瞬間がそうだったのか。
 わからなくはないな、と思った。確かにクレフは、『導師』として人前に出ているときとそうでないときとでは、まるで違う顔をする。本人はおそらく無自覚だろう。執務室で私と二人きりでいるときは、控えめだけれどよく笑うし、所作がなんとなく柔らかい。それがひとたび、たとえば各国からの大使を交えての会議となれば、笑い方はどこか凛としたものになり、顔つきも厳しくなる。時には辛辣なことをためらわずに口にすることもあった。そういうクレフを見るとき、私は得も言われぬ淋しさを感じた。ただしこれまでは、その淋しさには見て見ぬふりをしてきた。なぜなら、それを認めてしまえばクレフのことを特別に見ているということを認めてしまうことにもなると、暗にわかっていたからだ。

 今になって思えば、もうずっと前から、きっと初めて招喚されたときから、私はクレフのことをほかの人とは違って見ていた。強制的に東京へ帰された後もずっとクレフのことを考えていた。クレフはどんな想いで私たちを導いたんだろう。「セフィーロを救ってほしい」と言ったとき、どんな気持ちだったんだろう。今ごろどうしているだろうか。また眉間に深く皺を寄せているのだろうか。それとも、ひとり泣くこともできずにいるのだろうか――。気が気ではなく、眠りの浅い毎日が続いていたことを、今でも鮮明に覚えている。
 三年も経ってようやく自覚するに至った、私にとっての初恋だ。それなのに、手放しでは喜べない。あまりにも無謀で、かなう望みの薄い恋だった。


「わからなくなったの。クレフの気持ちが」
 マリアの言葉に、私はいつの間にか沈んでいた顔を上げた。
「導師になっても、会えばクレフはいつも優しかった。二人のあいだに出来た隔たりを埋めることはできなくても、二人きりのときは、クレフは『導師』の肩書を取り払っていたと思ったわ。それだけが、わたしにとっての救いだった。わたしはクレフにとって心の拠りどころになっている。自分に必死でそう言い聞かせることで、心のバランスを保っていたの。でも……そんなの、剣を持たずに『沈黙の森』へ入るのと同じくらい、危険なことだったわ」
 そう言って、マリアは自嘲気味に笑った。
「見ちゃったの。クレフがほかの人に笑いかけているところ。何も変わらなかったのよ、わたしと一緒にいるときと。クレフにとって、わたしは特別じゃなかったの。わたしは『その他大勢』の一人に過ぎなかった。そう知った瞬間、心の奥底から、信じられないほど醜い感情が湧き上がってきたの」

 自分の気持ちがマリアのそれにシンクロしていくのを、抑えることができなかった。私が理性で必死に押し込めている、それこそ醜い感情を、マリアの言葉が炙り出そうとする。けれどマリアを止めることはできなかった。彼女が自らの掌を広げ、そこに視線を落とすのを、瞬きを忘れた目で追いかけた。
「クレフがほかの人に笑いかけるのが、赦せなかった。わたしだけに笑っていてほしかった。わたしだけのものにしたかった。だから、ヴァンパイアとして生きることに決めたの。クレフの記憶を奪ってしまえば、彼を独り占めできる。わたしの知っている『クレフ』を、この掌に閉じ込めて、わたしだけが触れられるようにしようと思ったわ」
 開いていた掌を、マリアは慈しむようにそっと握った。そしてどこか傷ついたように笑った。
「子どもだったのよね、そんなことを考えるなんて。記憶を手に入れたって、それはクレフに愛されていることにはならないのに」

 彼女は心からクレフを愛しているのだろうと思った。その愛情が少し矛先を見誤ってしまっただけで、彼女の行動は、憎しみや怒りに支配されたものではない。すべてはただ、クレフのことを想う気持ちがあってこそなのだ。そしてたぶん、その中身は違っていたかもしれないけれど、クレフだって、マリアのことを想っていたはずだ。
「あなたは愛されてたと思うわ」
 私の言葉に、マリアは瞠目した。その黄金の瞳を見返し、私は精いっぱいほほ笑んだ。
「クレフは、あなたを封印したことで相当心を痛めたはずだわ。本当は、あなたには普通に生きてほしいと思っていたのよ。そうじゃなかったら、本の表紙に封印を解く呪文を書いたりしないもの」
 あれは、パスワードが掛かっているエクセルファイルのファイル名がそのままパスワードになっているようなものだった。いくら書庫の奥深くで保管されていたとはいえ、もしも誰かがあの本を見つけたら、マリアの封印は簡単に解けてしまう。クレフは本当は、そうなることを望んでいたのだろう。マリアを封印した、その瞬間から。
「それに、もしもあなたを本当に封印するつもりがあったのなら、きのうもう一度封印すればよかっただけのことでしょう。でも、クレフがまずやったことは、あなたと話をしようと試みることだったわ」
 それに、倒れる直前、クレフは言った。「マリアにあの場所を」と。あれはきっと、このエスペランサのことについて訊けと言いたかったのだろう。つまりクレフは、マリアはエスペランサの水を分けてくれると信じていたということだ。自分を襲い、記憶を奪われてもなお。とても並大抵の信頼ではない。

 ずっとそばにいたのなら、あなただって、クレフがどういう人なのかくらい、わかっているでしょう?――マリアの瞳に、無言でそう訴えた。クレフのことをずっと見てきたなら、彼の些細な行動の一部始終に愛情がこもっていることくらい、簡単にわかるはず。
 けれど一方で、私は自分の発言がずるいということを認識してもいた。クレフは確かにマリアを愛していたと思う。けれどそれは、マリアが求めていた愛とは違っていた。だからこそマリアは、クレフがほかの人に対してほほ笑みかけているのを見て嫉妬した。本当は、問題の本質はそこにある。けれど今は、こう言うほかになかった。あとはマリアが納得してくれることを祈るしかない。

「そうね」
 一筋縄ではいかないだろうと覚悟していた。だからこそ、そのあまりにもあっさりとしたマリアの一言は意外すぎて、返事すらできなかった。極め付けに、マリアは笑った。
「いろいろ言ったけど、実はもういいの」とマリアはあっけらかんとして言った。「あなたが封印を解いてくれたおかげで、わかったから。クレフの心にはちゃんと、わたしの居場所があるんだって」
「え?」
「奪ったクレフの記憶の中に、わたしとの思い出がちゃんとあったのよ。二人で、いつか立派な魔導師になろうって誓い合った日のこと。それぞれの名前を刻んだ石碑のことまで、覚えてたみたい」
 そう言って、マリアは一層目を細めた。
「ちゃんとわたしを覚えていてくれてるんだってわかったら、なんか吹っ切れたわ。正直言って、わたしは忘れてたことだったから、余計かも」

 呆気に取られた私は、ぽかんと口を開けたまま、マリアのことを穴が開くほど見つめた。まさに「吹っ切れた」という顔をしているマリアは、直前までとはまるで別人のようだった。けれどもしもそれが本心なら、なぜ私がここへ来ることを邪魔したのだろう。
「邪魔をしたのは、あなたを試すためだったのよ」
 そのとき、まるで私の心を読んだかのように、マリアは言った。
「試す?」
「あなたが本当に、この水を渡すのにふさわしい人なのかどうか」
 途端に緊張した。背筋がしゃんと伸びる。その「試し」に、私はパスしたのだろうか。どくどくと鼓動が鳴る。いくばくかの沈黙が流れたあと、マリアはやおら私から視線を外し、泉に向かって迷いなく手を翳した。マリアの掌に光が生まれる。刹那、その光に向かって泉の水が逆流した。ある程度の量が集まると、マリアはすっとその水をつかむしぐさをした。それを手にしたまま、マリアがこちらへ向かって歩いてくる。目の前で立ち止まった彼女が差し出したのは、オーロラ色の水がいっぱいに溜まった、涙型のガラス瓶だった。

「いいの?」
 顔を上げ、私は思わず言った。マリアはにっこりと笑ってうなずいた。
「クレフに伝えて。『わたしは修行の旅に出るわ。いつか最強の魔導師になって、あなたから「導師」の座を奪うから』って」
 了承しかけて、途中で首が止まった。
「修行の旅って……クレフに会ってから行かないの?」
 伝言だって、彼女が直接クレフに言えばいいのに。けれどマリアは、特に深く考える様子もなくふるふるとかぶりを振った。
「次に会うのは、わたしがクレフを上回る魔導師になったときよ」
「でも」
「だいじょうぶよ」とマリアは私を遮った。「もう、ヴァンパイアはやめるわ」
 彼女の言葉に反応し、手に持っていた剣が、自動的にグローブの宝玉に納まった。それを見て、マリアは満足そうにほほ笑んだ。
「ねえ、わかる? どうしてわたしが、あのときあなたを襲ったのか」
「え?」
「わたしが目覚めたとき、あなた以外にも大勢人がいたでしょう。それなのに、どうしてわたしはあなたを狙ったと思う?」
「私と心の波長が一致したから、でしょ」
「鋭いわね」とマリアは目を輝かせた。けれどすぐに、「でも、そうじゃないわ」
「違うの?」
「もうわかってると思うけど、わたしの目的は、クレフの記憶を手に入れることだったのよ? それだったら、クレフを直接襲えばよかったと思わない?」
 それもそうだ。確かにどうしてそうしなかったのだろう。ちょっと考えたけれど、わからなかった。降参の意味で首を傾げると、マリアはふふふ、と含み笑った。
「理由はふたつあるわ。ひとつは、クレフを直接襲ったら、跳ね返される可能性が高かったから。そしてもうひとつは、あなたを襲えばクレフが必ず庇うと思ったからよ」
「え?」と私は瞠目した。

 当然、そう思ったのには理由があるのだろう。私はマリアの言葉が続けられることを待った。けれど二人のあいだには沈黙が流れるだけで、マリアはいつまで経っても二の句を継がなかった。
「ど……どうして?」
 痺れを切らして、私は訊いた。けれどマリアは、人差し指を立てて左右に小さく三度振り、その動きに合わせて唇を鳴らした。
「答えが知りたかったら、クレフに告白でもするのね」
 予期せぬ言葉に、カッと顔が紅くなった。「なんで」と思わず身を乗り出すと、マリアは声を立てて笑った。
「自分のことばっかり棚に上げて。好きなら告白しなさいよ」
 正論過ぎてぐうの音も出ない。けれど告白なんてもってのほかだ。少なくとも、今は。だって、気持ちに気づいてからまだ一晩しか経っていないのだ。心の準備がまったく出来ていない。黙り込んだ私を見て、マリアは意味深に笑った。
「きっとだいじょうぶよ、あなたなら」
 何がどうだいじょうぶなのかはわからなかったが、ここは首を横に振ってはいけない場面のような気がした。私はやはり無言のまま、小さく小さくうなずいた。

「でも」とマリアは不意に思い出したように言った。「告白するなら、クレフにその水を飲ませてからにしてね」
「え?」
「その『エスペランサ』の水を飲むと、記憶を失っていたあいだのことは忘れてしまうから」
 ね、とマリアはウインクした。そんな仕組みがあるのか、と私は手にした瓶をまじまじと眺めた。
「頑張ってね」
 それがマリアの最後の言葉だった。ありがとう、と言おうとして顔を上げると、マリアはすでに姿を消していた。彼女が立っていたところで、一輪のスズランが花開いていた。




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篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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