蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 23. 無神論

10万ヒット企画

鏡に映った私は答えなかった。ただ、今にも泣き出しそうな顔をして、私のことを見ていた。

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 この業界には、お盆はあまり関係ない。皆通常どおりに出勤し、通常どおりに退勤する。まあそうは言っても、繁忙期に比べればだいぶ暇だ。クライアントの中には完全に営業を停止するところもあるから、社内でも、この時期に夏休みを取る人は多い。プロ戦も例にもれず、一週間前と比べればフロアは閑散としていた。なんといってもカルディナが休暇中であることが大きかった。彼女の声が聞こえないと、一気に五人は部員が減ったように感じた。
 人は、失って初めて、そのものの大切さに気づく。――私はふとそんなことを思った。もちろんカルディナはただ休んでいるというだけで、彼女を失ったわけではないのだけれど。こういうのをきっと、喪失感というのだろう。柄にもなくつい感傷的になってしまう理由を、部長も休暇中であることに求めようとするのは、少し夢見がち過ぎるだろうか。

「珍しいこともありますわね。部長がこの時期に休暇をお取りになるなんて」
 ぼんやりと彼の机の方を眺めていると、不意に声がして、私は慌てて顔を上げた。声の主は二班の大道寺さんだった。
 若干27歳ながら、彼女は二班長を任されている。その愛くるしい見た目と笑顔は圧倒的な癒し系だが、おそろしく仕事のできる人だった。彼女だけは、私は未だに下の名前で呼ぶことができない。配属が決まった日に、イーグルが私のチューターに任ぜられたのを見て「お似合いですわね」と言ったのは彼女だった。そのときから私の中では、大道寺さんは「大道寺さん」だった。年齢の近い女性社員の中ではダントツに、目標としたい人だった。本を何冊か抱えていた大道寺さんは、部長の席の方を見ながらきょとんと首を傾げた。
「いつもでしたら、9月か10月あたりのかなり遅い時期になってからお休みを取られてますのに」
「そうなんですか?」
「ええ」と大道寺さんはうなずいた。「今回は突然、この週にお休みされることをお決めになったようですわ。――もっとも、突然お決めになるのはいつものことですけれど」
 そう言って、大道寺さんはくすりと笑った。私はいつになくがらんとしている部長の机を見、「ふーん」とぼやけた返事をした。

 部長の休暇が決まったのは、確かに突然のことだった。というより、私たちにはまったく知らされておらず、月曜になったらいきなりプレセアから「今週クレフはお休みだから」と宣言されてその事実を知った、という具合だった。ちゃっかりしているというかなんというか、部長は自らの分の仕事はすべて終わらせていたようで、私たちの業務に支障が出るようなことはなかった。けれどそういう問題ではなくて、せめて一言くらいあってもよかったんじゃないかと思う。もっとも、今の私は、部長とまともに顔を突き合わせることができるような状態にはないのだけれど。
 あまのじゃくだな、と自分でも思う。実際目の前に部長がいれば頼むからどこかへ行ってくれと願うのに、いなくなったらいなくなったで、今度は早く帰ってきてほしいと願ってしまう。まるで駄々をこねる子どものようだ。大道寺さんに気づかれないよう、私はひっそりと苦笑した。


 その日は、午前中の仕事は早めに切り上げて、11時過ぎに席を立った。外交に出ていないときのランチは大抵誰かを誘って行くのだけれど、今日はひとりになりたい気分だったので、誰にも声を掛けずに会社近くのカフェに入った。ほとんど満席だった中、いいタイミングで窓際のソファ席が空席になったので、そこに陣取った。カフェにあるものとしては意外なほど、そのソファは座り心地がよかった。身を沈めると至福を感じた。こんなことで幸せになれるのだから、自分でも、安上がりな女だなと思う。

 程なくしてやってきた、エッグベネディクトが美しく盛り付けられたワンプレートランチとカフェオレ、そのどちらにも、けれど私はしばらく手をつけることができなかった。ふと視線を上げると、そばの壁に時計が掛かっていた。日付と曜日が入っているタイプの時計で、それは今日が水曜日であることを示していた。
 まだ水曜日か、と私は思った。最後に部長に会ってから、気持ち的にはもう一か月も経ったような気がしている。けれど実際には、いつものように部長に「お疲れさまでした」と声を掛けてオフィスを後にした先週の金曜からはまだ五日しか経っていない。今週は、誰かが時計の進みを遅くしているのではないかと思うほど、一日一日を長く感じた。次に部長に会えるのは、どんなに早くても来週の月曜日だ。うんざりして思わずため息をついた。今日までですでに一か月が経ったかのように感じているのだから、月曜日がやってくるころには、二か月は過ぎ去ったように感じているのだろう。
 会いたい、と思った。部長のいない日々は、心に穴が空いたように虚空だった。

 ふと、店内のBGMに混じって子どもたちの笑い声が聞こえてきた。顔を上げると、遠くのテーブルに集っている賑やかな家族連れが、メニューを決めるのにああでもないこうでもないと四苦八苦しているのが見えた。そういえば、今はちょうど夏休みだ。お盆ということもあり、久々に家族が全員そろったという家庭も少なくないのだろう。
 どうしてるかしら、部長。私は一度だけ訪れた彼の家を思い浮かべた。一人で住むには広すぎるあの家に、彼はずっと一人で暮らしているのだと言った。たとえば隣の家から賑やかな笑い声が聞こえてくるとき、たとえば前の通りで近所の人たちが楽しそうに雑談をしているのを見かけるとき、彼は淋しくないのだろうか。

 ――部長。私は遠くの空へ向かって呼び掛けた。今、どうしてますか。一人で淋しくないですか。
 本当は、淋しいのは私の方だった。
「中途半端な気持ちでクレフに接することだけはやめて」
 その淋しさに追い打ちをかけるように、プレセアの言葉が脳裏を過る。私はソファに座ったまま硬直した。ため息が出たのは無意識のうちのことだった。
 あのときプレセアに言われたことについてずっと考え続けているが、答えはまだ出ていない。過去もすべてひっくるめ、部長を愛し抜く覚悟があるか。その問いに対して首を縦に振ることは、まだできていない。
 かといって、この気持ちが中途半端なものかといえば、それは違う。部長のことを、たとえば見てくれがいいから好きになったわけでも、紳士的だから好きになったわけでもない。ある特定の部分を取り出して彼を好きになったわけではないのだ。うまくは言えないが、部長が部長だから、好きになった。たとえ今の彼を形成しているどこか一部分が抜け落ちたとしても、私の部長に対する想いが消えるようなことはないだろう。

「それは、愛し抜く覚悟があると言えるのではありませんか」
 タイミングがいいのか悪いのか、プレセアと会った次の日には、もともと光と風の三人でランチをする約束をしていた。光はまた仕事で来られないというので、前回に続いて風と二人でのランチとなった。その話になったのは自然な流れだったのだろう。ひとりで抱え込むには問題が大きすぎて、私はプレセアと話したことのすべてを風に打ち明けた。理路整然とした説明ではなかったが、聡い風は正しく理解してくれた。どうしたらいいのかわからない、と頭を抱えた私に風が掛けたのが、その言葉だった。

「愛し抜く覚悟」という表現が重いのかもしれない。これがたとえば、「彼のことを一生好きでいられる自信」という言葉に置き換えられるのだとしたら、すぐに首を縦に振ることができる。けれど残念ながら、「愛し抜く覚悟」という言葉はほかの言葉に置き換えられるようなものではなかった。ただ好きでいることとも、ただ隣にいることとも違う。そういうことなら簡単にできる。けれど「愛し抜く」ことなど、私にできるだろうか。

 覚えずため息がこぼれた。もう何日も、同じことを堂々巡りに考えている。それなのに答えあぐねているのは、自分に自信がないからだ。自信があれば、きっと簡単に肯定している。
 今日も答えは出そうにない。諦めるように私は体を起こし、カトラリーを手に取った。時間が経ってしまったため、オランデーズソースの表面にうっすらと膜が張り始めていたが、味に遜色はなかった。ほとんど空腹は感じていなかったのに、食べ始めると箸が進み、最終的には残さずきれいに食べきった。

***

 携帯が鳴ったのは、フロアへ戻るエレベーターの中でのことだった。見ると、ディスプレイに表示された名前は「鳳凰寺風」だった。満員のエレベーターで電話を取るわけにはいかないので、一旦マナーモードに設定した。大方ランチの誘いだろう。あいにく私は食べ終わってしまったので、どのみち断るしかない。
 ところが、マナーモードに設定してすぐ、また鳴った。バイブレーターの振動が手に伝わる。音が聞こえるわけでもないのに、なぜかそのバイブレーターが急いているように聞こえて、戸惑った。どうしたのよ、風。何かあった?

 フロアに着き、エレベーターを降りると同時に振動が止まった。私は携帯のロックを解除すると、すぐにリダイヤルした。
「海さん」
 ワンコールも終わりきらないうちに、風は応答した。
「どうしたの、風」
「たった今、上席と昼の会食に行ってきたんですが」
 ということはつまり、ランチの誘いではないということだ。けれどそんなことはとっくにわかっていた。ランチの誘いのために、出ない人の携帯を二度、三度と鳴らすわけがない。
「クレフ部長、今度の人事異動でイギリス本社へ行かれてしまわれるんですって」

 その瞬間、脳内をさあっと風が吹いていったような気がした。それが錯覚だと気づいたのは、われ知らず立ち止まった視線の先で、大道寺さんが廊下を横切っていったときのことだった。そこでは時間が変わることなく淡々と流れていた。私をひとり置いて。時間の流れに追いつけない私に、けれどこれは現実だと、視界の奥へと消えていく大道寺さんの紺色の髪が、無情にも告げていた。
「海さん」
 風の声でわれに返った私は、辛うじて何らかの音を発することには成功した。けれどそれがどんな音になったのかまではわからなかった。
「クレフ部長、今日はいらっしゃいますか?」と風は訊いた。
「いいえ」と私は答えた。「今週一週間、休暇を取ってるわ」
「それでしたら」と風は言った。まるで、電話の向こうで彼女が身を乗り出しているのが見えるかのような言い方だった。「おそらく、今週中に発たれるおつもりなのですわ。辞令は9月1日付ですのに、クレフ部長、それよりも前には行けそうだとおっしゃっていたそうですもの」
「淋しくなるわね、部長がいなくなると」
 そう言ったのは、私でも、まして風でもなかった。私は携帯を少しだけ耳から離し、聞こえてきた声の方に集中した。
「プレセアが残ると聞いたときはたしかにおかしいなとは思ったけれど、まさかこんな裏があったなんてね」
 先ほど大道寺さんがそうしたように、今度は二人の女性が、私の視線の先を横切っていった。大道寺さんと同じ二班の、撫子さんと火煉さんだった。

 気がついたら駆け出していた。うまく走れないのは足が震えているからだということには、なかなかどうして気づけなかった。海さん、と風に呼ばれた気がしたが、その声はもう遠くからしか聞こえなかった。エレベーターホールのど真ん中に、私は携帯を落としていた。
 撫子さんたちに追いつき、それぞれの肩をつかんで強引に振り向かせる。二人とも悲鳴を上げたが、相手が私であるとわかると、一瞬にして怯えたような顔つきへと変わった。
「海ちゃん」と二人は言った。声はあまりそろっていなかった。
「どういうこと?」と私は言った。「今の話、なに?」
 二人は気まずそうに顔を見合わせた。その態度は、私を激昂させるにはじゅうぶん過ぎた。
「ちゃんと言って! どういうことなの?」
「怒らないで、海ちゃん」
 慌てて撫子さんが言った。それからしばらく三人は沈黙した。ああ、お願いだから。私は心の中で十字を切った。誰でもいいから、すべては冗談だと言って。その一言を聞くためになら、たとえ何を手放すことになっても構わないから。

「今度の人事異動で、部長はイギリス本社へ行くことになったの」
 この世に神なんて存在しない。火煉さんが淡々と紡いだ言葉は、私にはそう聞こえた。私の中にわずかに残されていた希望を粉々に打ち砕く言葉だった。求めよ、さらば与えられん。それがキリスト教の教えだったはずなのに、十字を切ってまで求めたものは、与えられなかった。
「ちょっと」と撫子さんが火煉さんを窘める。けれど火煉さんはふるふるとかぶりを振っただけで、再びその双眸に私を捉えた。
「いろいろと手続きをしなくちゃいけないことがあるから、私たち二人だけは、事前に知らされていたのよ。ほかの人には決して言うなと、部長からは口止めされていたから――」
 そこから先は、私の耳には入ってこなかった。
「あ……ちょっと、海ちゃん!」
 伸ばされてきた撫子さんの手は、私をかすりもしなかった。エレベーターホールへ戻り、携帯を拾うと、ちょうどやってきたエレベーターに飛び乗った。

 エレベーターの鏡に、私が映っている。私は私と目を合わせた。ねえ、どうして? どうして人は、失わなければ気づかないの?
 鏡に映った私は答えなかった。ただ、今にも泣き出しそうな顔をして、私のことを見ていた。




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2013.11.20    編集

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