蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 24. 飛行機雲

10万ヒット企画

どうか間に合って。必死で祈る。こんな別れはしたくない。何も聞かずに去っていくなんてずるい。やっとわかったこの気持ちを告げもしないまま別れるなんて、絶対にいやだ。

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 平日の昼下がりだというのに、JRの駅は大勢の人でごった返していた。その理由を教えてくれたのは、ホームへと続く階段を上ろうとしたときに響き渡ったアナウンスだった。
『お客様にお知らせいたします。山手線は現在、大塚駅にて発生した人身事故のため、外回りの運転を見合わせております。繰り返します――』
 こんなときに限って。行儀が悪いと知りながらも、舌打ちをせずにはいられなかった。けれどここで文句を言っても仕方がない。ホームには未練なく背を向け、ざわめく人々の間隙を縫って改札を出ると、地下鉄のホームへと駆け下りた。遠回りにはなってしまうが、タクシーを使うよりは速いと踏んだ。ここからだと、車で行けば「開かずの踏切」に引っ掛かってしまう。1時間のうち45分は遮断機が下りている踏切だ。よほど運が良ければ一発で通過できるが、まずあり得ないことだった。

 幸いにして、地下鉄の駅はさほど混雑していなかった。それでも、残暑の厳しい東京の昼下がりだ、地下鉄構内を漂うもわっとした空気が、全身にまとわりつく。走ったせいもあって、電車に乗った途端、全身の汗腺という汗腺から汗がどっと噴き出してくるのを感じた。
 せめて鞄くらい持って出てくるべきだったかもしれない。今手にしているのは財布と携帯だけだった。ハンカチもない。けれど今は一分一秒も惜しかった。鞄を取りにフロアへ戻っている暇があったら、その分一本早い電車に乗りたかった。
 無事たどり着けるだろうか。汗みずくの額を手の甲で押さえながら、懸命に記憶をたどる。目指すべきところ――部長の家のある場所を思い出そうと、頭をフル回転させた。

 そこへ行ったことがあるのはただの一度だけだ。それも、行くときは泥酔していて、帰るときは部長の車に乗っていたので、道順を覚える理由もタイミングもなかった。辛うじて覚えていることは、私の家から二つ隣の町だったということだ。その町自体は馴染みがある。駅前の大きなファッションビルに何度か足を運んだことがあるからだ。駅前からは羽田行きのバスも出ているので、海外旅行のときは友人と待ち合わせることもある。けれど問題は、住宅街への行き方だった。誰か知り合いがいるならまだしも、部長以外にあの町に住んでいる知り合いはいない。住宅街に足を踏み入れたのは、あの泥酔した夜が初めてのことだった。
 無事部長の家にたどり着けるか、自信はほとんどなかった。それに、そもそも部長が家にいるとは限らない。けれどほかに思い当たる場所などなかった。たとえ1%だったとしても、部長がいる可能性のある場所なら足を向けなければならなかった。どうしても部長に会わなければならない。ようやくわかった、ようやくストンと腑に落ちたこの気持ちを、伝えるために。


 その町の駅に、電車が滑り込む。ドアが完全に開かれる前にホームへ降りると、私は改札まで全力疾走した。人々からは奇異な目が向けられたが、どの視線も跳ね返した。
 外に出ると、晩夏の容赦ない日差しが肌を焼いた。取りあえず走り出したはいいものの、案の定、道はまったく覚えていなかった。そのため途中からはほとんど勘に頼って進むことになった。瞬く間に汗だくになった私を、蝉があざ笑う。木陰に隠れて姿の見えないその蝉たちに向かって、私は心の中で悪態をついた。
 たぶんこっちじゃないか、という確度のまったく低い予感に沿い、ただひたすらに走り続けた。ほかに頼れるものなどなかった。自分の直感を信じるしかない。
 そうしてどのくらい走っただろうか。とある角を曲がったとき、目の前に広がる景色に確かなデジャヴを感じ、足を止めた。

 左側に広い公園があり、通路を挟んだ右側にはずらりと家が並んでいる。ほかの地区と比べて、そこに並んでいる家々は、いずれも隣家との間隔が広く取られていた。ここを覚えている――はっきりとそう感じた刹那、私は思わず息を呑んだ。あの部長のオープンカーが私に背を向けて走り去っていく幻が、一瞬ではあったが、確かに見えた。
 幻が消えると、ほとんど通路を塞ぐようにして大きなトラックが止まっているのを見止めた。ぞくりと悪寒が走ったのは、そのトラックが止まっている正面の家に見覚えがあったからだ。洋風建築をところどころにさりげなく取り入れたその家は、確かに私の記憶の中にあった。

「部長!」
 思わず叫び、駆け出した。トラックを追い越し、前へ廻る。その瞬間、誰かと正面から激突した。
「うわっ」
 悲鳴を上げたのは相手の方だった。男の人の声だった。もしや、と思い、一瞬呼吸が止まる。姿勢を立て直し、急いで顔を上げる。けれどそこにいたのは部長ではなかった。
 いたた、と呻いて頭をさすったその人は、キャップをかぶり、ツナギを着ていた。胸元に刺繍されたパンダのワッペンからして、明らかに引っ越し業者の人だった。
「すみません」と私はまず謝った。おざなりな謝罪だという自覚はあったけれど、それどころではなかった。「あの、この家の人は」
「え?」と業者は目を丸くした。それから「ああ」と言い、背後を振り返った。「あちらですよ」
 彼が指差した方を見て、私は瞬いた。そこにいたのは一組の老夫婦だった。時には大きな荷物を業者が三、四人がかりで運び入れている玄関の手前で佇み、老夫婦はほほ笑み合いながら家を見上げていた。家を――部長の家を。

 もう何がなんだかわからなかった。頭の中がゲームオーバーしたテトリスのようになっていたが、混乱しているのだという自覚すらなかった。取りあえず老夫婦のもとへ足を向ける。すぐそばまで近づいても、二人ともこちらにはまったく気づかなかった。
「あの」
 大きな声で呼びかけると、老夫婦はようやく振り向いた。お喋りに熱中しているところを邪魔して申し訳ないなどという気持ちはこれっぽっちも浮かばなかった。老夫婦のどちらにも面識はなかったが、おばあさんの方は、その年になってもはっとするほど美しい人だった。
「ここの家って」と私はそのおばあさんを見て言った。けれどそこから先はどう続けるべきかためらってしまい、二の句を告げなくなった。すると、
「ご近所の方ですか?」
 とおばあさんが訊き返してきた。
「私たち、きょう越してきたんですよ」
「え?」
 私は目を丸くした。改めて家を見上げる。間違っただろうかと訝るも、そんなはずはなかった。ここはたしかに、部長の家だ。あのとき二人で朝食を食べた、その家だ。

 私はもう一度老夫婦へと視線を戻した。
「でも、ここって違う人が住んでますよね」
「私たちが買ったんですよ」とおじいさんが言った。「実は、ずっとこの家をいいなあと思っていましてね。そうは言っても、不動産屋からは『持ち主が手放すことはなさそうだ』とさんざん言われていたものだから、ほとんど諦めていたんですよ。それが、数日前になって突然、『この家を買う気はまだあるか』ときたもので」
 いやあ、生きていればいいこともあるもんですな。そう言って、おじいさんは笑った。
「ちょっと待ってください」と私は言った。「買ったって、この家を、ですか」
 私の態度がよほど切羽詰まっていたのか、おじいさんはそれまで浮かべていた笑みを消し、「はあ」と曖昧にうなずいた。
「それじゃあ、前の持ち主は、この家を売ったんですか」
 畳みかけるように言った私に、老夫婦は互いの顔を見合わせた。
「あの、何かあったんでしょうか」とおばあさんが不安そうに言った。「このおうちに、ゆかりのある方か何か?」
 私は答えなかった。いや、答えられなかった。
 もう一度家を見上げる。ここを部長が売ったなんて信じられなかった。何かの冗談だと思った。だってここは、部長にとっては、婚約者のシエラさんと一緒に住むはずだった家なのだ。それを手放すなんて。18年も彼女を想い続けてひとりで住んだ家を、いくら日本を離れるからといって、他人の手に渡すなんて。

「もしかして」
 不意におばあさんの声がした。彼女の方を向くと、おばあさんはおじいさんの腕を軽く叩き、「ねえ」などと言っていた。「ああ」とおじいさんもうなずく。どうしたんですか、という意味できょとんとすると、おばあさんは私を見て瞬いた。
「あなた、もしかして、『龍咲』さん?」
「え?」
「この家の前の持ち主の方とお知り合いだった、『龍咲海』さんですか?」
 私はたじろいでしまうほど困惑した。それでもなんとかぎこちなくうなずくと、老夫婦は破顔した。
「ああ、よかった」とおばあさんは言った。「もしもあなたがいらしたら渡してほしいと、頼まれていたものがあったんですよ」
 そしておばあさんは、肩にぶら下げていたポシェットの中に手を入れた。やがて「はい、これ」と差し出されたのは、一部スパンコールの剥がれ落ちたバナナクリップだった。
 私は言葉を失った。
「あなたが来なかったら捨ててくれと言われていたんですけれど、こういうものを捨てるっていうのもねえ。会えてよかったわ」
 感慨深げに言ったおばあさんは、呆然としている私の手に、そのバナナクリップを握らせた。私の手の震えに気づいたのだろう、おばあさんは心配そうに眉を顰めた。

 そのバナナクリップを手にした瞬間、ありとあらゆる記憶が脳裏を走馬灯のように駆け抜けた。みっともなく泥酔した私を、けれど叱るどころか優しく介抱してくれた部長。千鳥足だった私を抱き上げてくれた、力強い腕。優しくベッドに寝かせてくれた笑顔。二人で食べた朝食。助手席に乗った車。「龍咲」と私を呼ぶ、彼の声。
 どうしてこんなもの。私はバナナクリップを握りしめた。こんな、みっともなく装飾が剥げ落ちたものなんか、捨ててくれてよかったのに。だからこそ、部長の家に忘れたのかもしれないという可能性に気づいても、訊かなかったのに。それなのに、どうしてわざわざ取っておいてくれたりしたんですか、部長。
「わからない? クレフにとってあなたがどんな存在なのか」
 不意にプレセアの声が聞こえた気がした。
「わからないわよ」
「え?」
 思わず呟いた私の声に、老夫婦が瞬いた。私は藁にも縋る思いで二人を見つめた。
「どこへ行ったか、知りませんか」
「なんですって?」
「このクリップをお二人に預けた人です。それはいつのことだったんですか。彼はどこへ行ったんでしょう。なんでもいいんです、ご存知のことがあったら教えてくれませんか」
 私がここへ来たのは、そのわからない答えを知るためだ。それなのに、すべてを謎のままで終わらせることなんてできない。
「つい今しがたのことですよ」
 おばあさんは訝しがりながらもそう答えた。すると隣でおじいさんもうなずいた。
「本当に、今さっきのことだ。お嬢さんと入れ違いだったよ。たしか……そう、これから日本を発つ、とおっしゃっていたな」
 私ははっと後ろを振り返った。そういえば、この町の駅前からは羽田行きのバスが出ている。
「ありがとうございました」
 老夫婦に向かって深々と頭を下げると、二人が呼び止めるのも聞かず、私は走り出した。引っ越し業者とまたぶつかりそうになったが、口先ばかりの詫びをして、その場を去った。


 どうか間に合って。必死で祈る。こんな別れはしたくない。何も聞かずに去っていくなんてずるい。やっとわかったこの気持ちを告げもしないまま別れるなんて、絶対にいやだ。
 駅前へ戻ると、大きなリムジンバスが止まっているのが目に飛び込んできた。外からでもほぼ満席になっているのがわかる。そのバスこそ部長の乗り込むバスに違いないと、何の根拠もなく思った。急いで乗り口の方へ廻ったところで、私ははっと息を呑み、急ブレーキをかけて立ち止まった。乗客の一番後ろから、部長がバスに乗り込んでいったまさにその瞬間だった。
「部長!」
 私の叫びに、そばを歩いていた人たちがぎょっとした。どうでもいい人たちからはそうしてしっかりとした反応があったのに、肝心の部長は、私の声はきれいに無視してバスに乗り込んだ。聞こえなかったのだろうか。
 部長を乗せると、バスは生き急いでいるかのように即座に扉を閉めた。そのタイミングで信号が青になり、バスは鼻息荒く発車した。
「部長!」
 私はバスを追いかけた。学生時代に鍛えた瞬発力を発揮するなら今しかないと思ったが、ヒール靴では思うように走れなかった。それでも、胴体の重いバスは出だしの走りがひどく緩慢だったので、全速力をすれば追いつけそうだった。

 どんどん距離を縮め、バスのおしりを叩こうと、ぐっと手を伸ばした。ところがその手は無情にも空を切った。突然バスが速度を上げ始め、あっという間に引き離された。今度はどんどんバスとの距離が開いていく。それでも、と私は歯を食いしばった。ここで諦めるわけにはいかない。バスが幹線道路に出ても、歩道を同じ速度で走り続けた。何度も人にぶつかりそうになりながら、それでも足を止めることはしなかった。絶対に止まらないと決めていた。ほんの小さな段差に躓いて、派手に転んでしまうまでは。
「だいじょうぶですか?」
 脱げて飛んだ靴を、優しそうなサラリーマンが拾ってくれた。見ればヒールがぽっきりと折れていた。裸足でもいいから起き上がろうとしたが、途端足首に激痛が走り、思わず呻いた。顔を上げると、部長を乗せたバスがもうナンバープレートがわからないほどまでに遠ざかっているのが、厭でもわかった。

 拳を強く握ると、そこにもまた鋭い痛みが走った。掌に、あのバナナクリップが食い込んでいた。
 食い込んだところが赤紫色に内出血を起こしている。カッとなって、私はバナナクリップを握った拳を振り上げた。けれどその拳が振り下ろされることはなかった。震える腕を静かに下ろし、アスファルトに手をついた。その焼けるような熱さに、このまま溶けてしまえたらどんなにかいいだろうと思った。
 もうどうしようもなかった。バスの背中に向かって、私は目だけで「部長」と言った。このバナナクリップは、あなたからのメッセージなんですか。すべて日本に置いていくと、そういうことなんですか。こんなにあっけなく行ってしまうんですか。さよならも言わずに。私には何も言わせずに。

 止まることなく、バスは淡々と走り続ける。交差点に差し掛かり、ついにその姿は見えなくなった。開けた空に、飛行機雲が描かれている。その空が、人の目に映るよりも私には滲んで見えていることにさえ、気づかなかった。
「部長!!」
 蝉が鳴き続けている。その鳴き声は、私の叫びを簡単に掻き消すほど大きかった。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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