蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

ラスト・リング 26. 夜明け前

10万ヒット企画

たくさんの言葉が胸のところまでせり上がってきて、そこでわれ先にと飛び出したがり、せめぎ合う。その中からたったひとつを選び抜いて口火を切ることが、今の私にとっては何よりの難問だった。

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「うそよ」
 こぼれた第一声はそれだった。
「そんなはずないわ」
 そうしようと意図したわけではなかったけれど、怒ったような口調になった。すると目の前に立っていた人は、ふっと肩を竦めて呆れたように苦笑した。その笑い方は、たしかに私の知っている部長のものだったけれど、何かが違った。彼は一年前とは明らかに「何か」が違っていた。その「何か」を、私は血眼になって探した。それさえ見つけられたら、これが現実ではないという証明になると思った。けれどなかなかどうして、その「何か」を見つけることは容易ではなかった。

「仮にこれが嘘だとして」
 私の思考を遮断するように、部長が口を開いた。
「ずいぶんとたちの悪いいたずらだとは思わないか」
 ぐっと言葉に詰まった。否定できなかった。彼の言うことはまさにそのとおり、私が考えていたことだった。これは夢か幻か、はたまたどっきりに違いないと思う一方で、もしも本当に夢だったなら私は底知れず傷つくのだろうとも思った。そんな傷はお断りだった。私の心にはもう、傷を受け止められるような余裕は残されていなかった。
「でも」
 堪らず私は身を乗り出した。ところがそこから先へは言葉が続かなかった。結果的に黙り込んでしまった私を見て、部長は目を細めた。
「付き合ってほしいところがある」と彼は言った。
 どうしてここにいるのか、こんなところで何をしているのか、部長は何も説明しなかった。彼の「付き合ってほしいところ」へ行ったら、すべてを説明してくれるのだろうか。
 気がつくと私は首を縦に振っていた。それを確かめると、部長はやにわに私の方へ手を伸ばしてきた。身構えたのは条件反射だった。その反応に気づいて部長は一瞬手を止めたが、結局は何も見なかったかのようにその手を再び伸ばし、私の手から、引き出物の詰まった紙袋を取り上げた。そしてさっと踵を返し、先だって歩き出した。身軽になった私は、落ちてくる雪とは逆に、心ごと空へと舞い上がってしまいそうだった。
 何も言えなかった。たくさんの言葉が胸のところまでせり上がってきて、そこでわれ先にと飛び出したがり、せめぎ合う。その中からたったひとつを選び抜いて口火を切ることが、今の私にとっては何よりの難問だった。首もとで血管が脈打っているのをありありと感じ取れるほど、私の鼓動は速かった。

 部長の足取りが緩やかになるまでに、そう長い時間はかからなかった。途中から、私は辺りの景色に見覚えがあることに気づいていた。否が応でも記憶が呼び醒まされる。甘酸っぱい気持ちが心を満たす。まったく、一年半も経っているというのに、心はすべてを憶えているようだった。けれどそれは、驚くようなことではなかった。あの日々を忘れたことなど、一日たりともなかったのだから。
 とある店の前で立ち止まり、部長は紙袋を持たない方の手で扉を開けた。鈴の音が、私の耳をくすぐる。やってきたのは「ラスト・リング」だった。
「いらっしゃいませ」
 営業スマイルで顔を上げたバーテンは、先に入った私と目が合うとさすがに驚いた顔をした。店内は珍しく空席が目立った。まだ5時を過ぎたばかりだから、バーで飲むには早いのだろう。店内をぐるりと一周させた視線をバーテンに戻すと、彼は目を細めてにこやかにほほ笑んだ。
「ようこそ」と彼は言った。鼻眼鏡の奥の瞳が嬉しそうに輝いたことが、私も嬉しかった。

 部長と二人、かつて何度か座ったことのあるあの席へ向かう。荷物を置き、コートを脱ぐ。結婚式のためにドレスアップしていた私の恰好が浮きはしないかと心配だったが、部長の方も白いシャツに濃紺のスーツという比較的かっちりとした恰好をしていたので、私一人が浮くということはなかった。部長はネクタイをしていないシャツのボタンを二つも開けていた。「東京の方が寒い気がする」というのはそんな恰好をしているからではないかと思った。

 バーテンがやってきて、私たちの前にコースターを置き、おしぼりを差し出してくれる。バーテンは何も言わなかった。たとえば「お久しぶりですね」とか、「長いことお見かけしていませんでしたね」とか、普通ならそういう言葉が出てきてもおかしくないところなのに、そういった類のことは一切口にしなかった。一年半という時間など、この空間には存在していないかのようだった。もっとも、「ラスト・リング」は一年半前とどこも変わっていなかったので、まるで昔にタイムスリップしたような感じがするのは事実だった。
 何を飲むかと訊かれたので、モスコミュールをお願いした。披露宴でワインを飲み、その上二次会でもカクテルを何杯か飲んだので、あまり強いお酒を飲みたい気分ではなかった。
「私はペリエを」
 部長が言うと、バーテンは「かしこまりました」と言って去っていった。その流れがあまりにもさりげなかったので、一瞬そのままやり過ごしそうになる。けれどすんでのところで思い留まり、え、と私は瞬いた。
「ペリエって」
 飲まないんですか、部長。そう続けようとしたが、思いがけず部長と目が合ってしまい、声を発することができなくなってしまった。口の中でくぐもった言葉を、唾とともに飲み込む。部長は目を細めた。心なしか、その目尻の皺が増えたように見えた。
「一年半ぶりだな」
 私から視線を外し、部長は言った。
「メールのひとつでも来るかと思っていたが、ずいぶん薄情じゃないか」
「なっ、それは」
 思わず身を乗り出したときにちょうどバーテンがやってきたので、私は言葉を濁した。部長と私、それぞれの前に飲み物が置かれる。私たちは形式的な乾杯をした。そこに音頭はなかった。

「それは、部長だって同じじゃないですか」
 モスコミュールを一口含み、私は改めて言った。一呼吸置いたことで、声のトーンを落とすことができた。喉を通っていくとき、ジンジャーがぴりりと沁みた。それはとても心地よい沁み方だった。
「部長はもっとひどいですよ。何も知らせずに、いきなり行ってしまったんですから」
 部長は表情だけで笑った。どこか自嘲気味な笑い方だった。ペリエの入ったグラスを両手で軽く抱えると、部長はそっと瞼を下ろした。そして言った。
「追いかけてきただろう」
「え?」
「私が乗った、羽田へ向かうバスを」
 言われて、私は絶句した。身を乗り出したときに手がグラスに当たり、鈴が鳴るような音が立った。
「気づいてたんですか」
 どくん、どくん、と耳の奥で鼓動が鳴る。それは「あのとき」と同じだった。いよいよ時間が巻き戻ったように感じた。鼻の奥がツンとする。そこをめがけて何かが溜まろうとしていた。
 ようやく顔を上げた部長は、目尻を下げ、申し訳なさそうにほろ苦く笑った。
「あのときは、私も辛かった。よほどバスを降りようかとも考えたよ。だが、あのときはまだ、そうすることはできなかった。当時の私に、その資格はなかったからな」
 私は無言で部長を見つめた。彼が何を言わんとしているのか、いまいちわからなかった。

 そうしてわずかな沈黙が流れると、部長の視線が外れた。彼はペリエを一口飲み、正面の壁を、それがまるで何光年も離れたところにある星であるかのように見つめた。
「もうずっと、シエラのことを忘れられずにいた」
 問わず語りに、部長は言った。
「それを辛いと思ったことは一度もなかった。なぜなら、彼女がもうこの世にいないということが現実として理解できていなかったからだ。どこにも姿は見えないのに、彼女とともに生きているような錯覚さえあった。私の『時』は、22歳で止まっていた。そしてそのまま続いていくのだろうと思っていた。そのことに何ら疑問を抱いたことも、変えたいと思うこともなかった。あの日、おまえに出逢うまでは」
 そう言って、部長は私を真っすぐに見返した。
「え……?」
 掠れた声で問い返し、私は瞬いた。部長は一瞬目を細めたが、今度は笑いはしなかった。すぐに視線が逸れる。部長は両方の膝に腕を乗せ、あいだで軽く指を組んだ。
「気がつかないか、私の変化に」
「え?」と私はもう一度言った。

 そのまま部長は黙した。そういえば、と私は思った。何かが違うと感じたのは私の方だった。そして今、部長自ら彼が「変化した」と言う。変化とは何だろう。どこにあるのだろう。私はじっと、その全身に目を凝らした。けれどすぐにはわからなかった。変わったところといえば、目尻の皺が増えたくらいだろう。そう思った。
 けれどそこで私は息を呑んだ。その変化は一見当たり前だ。人は生きているのだから、目尻の皺くらい簡単に増える。けれどその「当たり前」のことが、このひとの場合は「当たり前」ではなかったのではないか。
 私が気づいたことに、部長も気づいたようだった。気配を緩め、彼はうなずいた。
「そうだ。止まっていた時間が、動き出したのだ。おまえと出逢ったことによって」

 一年半という時間は、決して膨大な時間ではない。けれど人は着実に年を取る。そして部長も「年を取った」。部長はたしかに、過ぎた時間の分だけ年を重ねていた。22歳で体の成長が止まったと言っていたはずの、彼が。
「おまえは、止まっていた私の時計の針を進めた。そのことに気づいたとき、簡単に腑に落ちた。おまえは私にとって、なくてはならない存在なのだと」
 驚きを通り越し、呆れそうになった。これはやっぱり、都合のいい夢なのではないか。
「だが、それを認める前に、私にはやらなければならないことがあった」
 部長はまた壁に目を向けた。キャンドルに照らされた部長の頬やシャツの奥の肌にはちゃんと影があった。部長は生きている。そして私も、鼓動がはっきり感じ取れるほど力強く生きている。夢では、ない。
「ずっと背を向け続けてきた過去に、いよいよ向き合わなければならないと思った。長いあいだ、私は矛盾を抱えていたのだ。シエラの死を認めることができなかった一方で、彼女との思い出にまで顔を背けていたことで、ともに過ごした日々をも否定していた。その矛盾と正面から向き合い、解消しなければならなかった。かつての『私』が生きていた時間は、過去の繰り返しに過ぎなかった。だから『私』は成長しなかったのだ。前へ進むためには、その過去のループから抜け出す必要があった」
 過去のループ。部長の言葉は、私の心に焼きついた。それはまさに、私がこの一年半を過ごした時間軸だ。周囲のすべてが変わっていく中で、私ひとりがいつまでも変わらずにいる。それが、私にとってのこの一年半だった。

「20年ぶりのイギリスは、ほとんどすべてがことごとく記憶に残っているとおりだったので、驚いた」
 そもそも部長がイギリスへ行くと聞いた時点で、何かがおかしいと気づくべきだったのかもしれない。シエラさんが亡くなってから、部長は一度もイギリスへ足を運んでいなかった。それが、異動のためとはいえあっさり行くことにするなんて、何か決定的な心境の変化が起きたと考えるのが自然だろう。
「彼女の両親にも会い、話をした。二人は、私が彼女の墓を参ることを快く赦してくださった。18年ぶりに、私はシエラと対面した。そこで初めて、ほんとうに初めて、私は――泣いたよ」
 部長は大きく息を吐き出した。まるで肩に乗っていた重荷のすべてを外すかのようなしぐさだった。
「それがすべてだった。私は泣いた。シエラの喪失を想って泣いた。そうすることで、私は彼女の死をようやく受け止めることができた。そして同時に、祈ることができた。どうか、彼女の魂が来世にて幸せをつかむことができるようにと。それから」
 一度言葉を区切り、部長は私を見た。
「ひとつ、シエラと約束を交わしてきた」
 私は無言のまま微かに首を傾げた。そのころになると、私は部長に起きたもうひとつの変化にも気づいていた。
「シエラの亡骸が眠る墓に向かって、私は言った。『ここに連れてきたい人がいる。日本人の女性だ。私を変えてくれた人だ。彼女が望んでくれるなら、いつか君に会わせたい』と」
 咄嗟に口元を押さえた。そうしなければならなかった。掌の下で唇が震える。声にならない叫びが、胸をかき乱した。
「龍咲」
 私のよく知っている声が、私の名を呼ぶ。
「私とともに、シエラのところへ来てくれないか」
 これが夢でないならば、もしかしたら世界は逆方向へと廻り始めたのかもしれないと思った。モスコミュールのグラスの中で、氷が融けて鳴いた。

 答えられなかった。否定も肯定もできず、ただ部長を見返すしかなかった。彼はその表情にいくばくかの緊張を乗せていた。そしてその表情のまま、不意に懐に手を伸ばすと、そこから何かを取り出した。部長はそれをテーブルに置き、私の目の前までそっと滑らせた。細い黒のリボンが掛かった、同じく黒い、小さな小さな箱だった。
「私と結婚してほしい」
 箱を見ていた私に向かって、部長は言った。
 私は顔を上げた。部長は見たこともないほど真剣に、その蒼い双眸で私のことを射抜いた。一度瞬きをすると、目尻から滴が流れ、口元を覆っていた手に落ちた。その滴をすくいながら私はそっと手を離し、膝の上で震えていたもう一方の手を、咎めるように握りしめた。
「はい」
 囁くような声で答え、私は首を縦に振った。
 その瞬間、部長はすべての緊張を解き放つように相好を崩した。そして彼自身の左手で、私の両手をそっと包んだ。なんの装飾もない、綺麗な指だった。
「ありがとう」と部長は言った。

 部長の手は、余韻に浸る暇も与えないままに離れていった。彼は私に箱を開けるよう促した。言われたとおり、箱に手を伸ばす。リボンを解くと、涙がテーブルに落ちた。頬を拭い、箱を開ける。一粒ダイヤのリングが姿を現すと、そのダイヤに負けないほど大粒の涙が、またしても私の瞳からこぼれ落ちた。
 部長の細い指が伸びてきて、リングを持ち上げる。私の左手を取り、薬指に、彼はそれを嵌めた。まるで誂えたようにぴったりだった。
「ありがとうございます」と今度は私が言った。
「おめでとうございます」
 そこに声が掛かった。部長と二人で声の方を振りかぶると、バーテンが立っていた。彼は一本のワインボトルを手にしていた。そのラベルを見て、私は思わず「あっ」と声を上げた。まさか、という思いでバーテンを見上げる。バーテンは鼻眼鏡の奥の瞳をすっと細め、こくりとうなずいた。
「ああ」と部長が感慨深そうに言い、バーテンの差し出したワインに手を伸ばした。
 ワインを受け取ると、部長は郷愁に浸るような顔をしてまじまじとワインを見つめた。そしてそのハート型のエチケットを私の方へ向け、
「覚えているか、このワインのことを」
 と訊いてきた。
 忘れるはずもなかった。そのワインは、最後に部長とこの店に来たときに目の前に差し出された「カロン・セギュール」だった。

「あのときは参った。まさかあのタイミングでおまえに想いを告げられるとは思っていなかったからな」
「え?」
「私が本社への異動を打診されたのが、あの日だったのだ」
 なるほど、と私は思った。あの日、部長とそろって呼ばれた社長室で部長だけが残るように言われたのは、その話をするためだったのだ。
「もうひとつ」
 私が内心でうなずいていると、部長が言った。
「え?」
「参った理由はもうひとつある。あのとき、もしも本社への異動を命ぜられていなかったら、私の方がおまえに告白するつもりだった」
 私は文字どおり言葉を失った。部長は照れくさそうに笑み、バーテンを見上げた。
「せっかくこのワインを用意してもらったのに、あのざまだ」
 どうにも叫び出したい衝動に駆られた。あのときの私たちは、同じ方向を見ていたのだ。そのことが、こうして一年半という月日が経ってから明らかになるなんて。
「だが、異動を命ぜられたことで目が醒めた。一歩を踏み出す前に、私にはやらなければならないことがあった。そのことに図らずも気づかされた。この一年半は、必要な時間だった。今では確信を持ってそう言える。……まあ、当時は心を引き裂かれる思いだったがな」
 そう言って、部長は泣き笑いのような顔をした。
「おまえの告白を断るのに私がどれだけ胸を痛めたか、知らないだろう」
 胸が熱くなって、すぐには言い返すことができなかった。そんな台詞はずるい。また鼻の奥がツンとしたのを感じて、ごまかすために、私は慌てて顔を逸らした。
「部長だって、知らないでしょう。この一年半、私がどんな想いでいたかなんて」
 すると部長は、くすりと笑みをこぼし、
「それは、これからとくと教えてもらうことにしようか。このワイン片手に」
 と言った。
「いつかこのワインをおまえと二人で飲みたいと思っていた。おまえは、私の心のあるところだから」
 部長の言葉は、私の涙腺を破壊した。あふれる涙を止めることができなかった。部長はワインを大事そうに抱え、バーテンに向かって「ありがとう」と言った。ほほ笑み返したバーテンは、
「感無量です」
 と言った。

***

 年が明けて二日目、私は羽田空港にいた。
 空では明けの明星がこれでもかというほどその存在を主張している。まだ夜明け前だというのに、空港は意外と混雑していた。ロビーでひとり座っていると、チェックインの手続きを済ませた部長が身軽になって戻ってきた。
「終わりました?」
「ああ。あとは出発を待つばかりだ」
 部長は私の隣に座った。正面に見える東の空が、徐々に明るくなってきている。この空が完全に明るくなるころには、長期休暇を終えて仕事に戻る部長を乗せた飛行機が、イギリスへ向かって飛び立つ。そう思うと、今生の別れというわけでもないのに、淋しさが募ってきた。けれどその淋しさには無理やり蓋をして、
「半年後、楽しみにしてますね」
 と笑顔で言った。
「すまないな、準備はすべておまえ一人に任せることになってしまうが」
 部長は申し訳なさそうに眉尻を下げた。私はふるふるとかぶりを振った。
「だいじょうぶですよ、パパとママもいますし。何より、私は『La derniere bague(ラ・デルニエール・バーグ)』を誰よりも知り尽くしてますから。最高の式にして見せます」
「そうだな」と部長は笑った。


「お二人とも、6月1日のご都合はいかがでしょうか」
 私の両親を前にして部長がそう切り出したのは、ゆうべ、食事が終わって一息ついていたときのことだった。
「この日に、結婚式を挙げようと思うんです。『ラ・デルニエール・バーグ』で」
 両親はもちろん驚いていたけれど、一番驚いたのは私だった。そんな話は初耳だったし、それに何より、
「どうしてですか? だって、『ラ・デルニエール・バーグ』の結婚式は、もう向こう一年半は予約で埋まってるって、このあいだ、桜塚さんが」
 すると部長は、私を見て、そのときのことを思い出したのかげんなりと苦笑した。
「本当に、大変だった。一年前、辛うじて予約が取れたのだからな」


 飛行機が一機、滑走路をゆっくりと進んでいるのが見えた。部長が乗ることになっている航空会社のものだ。その白いクジラのような胴体が滑るように視界の隅へ消えていったのを見届けて、私はそっと左手を持ち上げた。寝るときと入浴のとき以外は一度も外していない指輪が、そこで無二の輝きを放っている。
「それにしても」と私は指輪を撫でながら言った。「まさかプロデュースした私が、コンセプトを地で行くことになるなんて、思ってもみませんでした」
 「ル・プレリュー」の二号店として一年半前にオープンしたのが、「ラ・デルニエール・バーグ」だった。コンセプトは、「一生通いたくなる店」。ただのレストランではなく結婚式も請け負い、そして結婚式を挙げてくれたカップルを一生フォローしていくことにするというのが、私たちの提案したプランだった。まさか部長と一緒に取り組んだ最初で最後の案件となったあの店で結婚式をすることになるなんて、当時の私は、もちろん想像だにしていなかった。
 店の名前は、あのバーの名前「LAST RING」をフランス語に変えて使わせてもらうことにした。あのバーのようなアットホームな雰囲気の店にしたいというゲン担ぎがひとつ、そしてもうひとつは、「人生で最後にはめる指輪をもらう店にしたい」ということ。

「言っただろう。あのとき」
「え?」
 意外な言葉に、私は部長の横顔を見た。部長は私を見返し、目を細めた。
「社長の前で、『落ち着いたころに足を運んでみようと思う』と」
 私は瞠目した。部長はほろ苦く笑い、軽いため息をついた。
「一年半も経てばさすがに少しは落ち着いているだろうと思ったが、すさまじい人気のようだな」
 私が断らなかったからいいものの、もしも私が部長のことは完全に吹っ切れてまったく別の人と付き合っていたりしたらどうするつもりだったのだろうと、いまさら思った。プロポーズの前に結婚式場を予約するなんて、部長くらいしか思いつかないんじゃないだろうか。よほど私が部長を想い続けていることに自信があったのだろうか。
 もっとも、仮に別の人と付き合っていたとしても、あんな風に言われたら部長の胸に飛び込まないわけにはいかなかっただろう。部長は私にとって、最初で最後の「本気の恋の相手」なのだから。

「しかし、本当にいいのか、日本に残らなくても」
 足を組みながら、部長は言った。
「何も無理して私についてくることもないんだぞ。本社は喜んでおまえを迎え入れてくれるだろうが、逆に日本支社は、おまえを手放したがらないんじゃないのか」
 ちっとも変わらないなと、私はつい笑ってしまった。仕事のことになると、部長は「真面目」という言葉を体現したような人になる。ゆうべ私の実家で過ごしたときは「婚約者」の顔をしていたのだと、改めて思い知った。
「だいじょうぶですよ。これから半年で、後輩に全部引き継ぎますから。それに」
 一度言葉を区切り、私は顔を上げた。空が少しずつ染まり出している。その色は、プレセアの瞳の色と同じだった。
「全力で応援するっていう、約束だから」
「え?」
 首を傾げた部長に向かって、私は軽くかぶりを振った。
「とにかく、だいじょうぶです。半年後、結婚式を終えたら、私もイギリスへ行きます」
 だいたい、これ以上部長と離れていることなんて、できそうになかった。これからさらに半年、遠距離恋愛をしなければならないというのに、その先もだなんて、とても考えられない。

 視界を焼くような明かりが一面に広がったのは、突然のことだった。日の出の瞬間だとすぐにわかり、私は歓声を上げた。
「ほら、部長」
 私は身を乗り出し、空を指差した。
「日の出ですよ」
 そうだな、とか、きれいだ、とか、そういった類の返事を期待していたのに、部長はそのどちらも口にしなかった。代わりにうんざりしたようなため息が聞こえてきたので、私は驚いて振り返った。部長は軽く頭を抱え、私を横目に見ると苦笑した。訳がわからず、首を傾げる。すると部長は、無造作に置かれていた私の手に自らの手を重ね、軽く握った。どくん、と心臓が鳴った。
「いつまで続けるつもりだ」と部長は言った。
「え?」
「いい加減にやめないか。私はもう、おまえの『部長』ではないのだぞ」
 かあっと顔が紅くなった。部長が促すようにほほ笑む。ああ、もうやめて、好きになってしまう――紆余曲折あったせいでついそんな風に考えてしまうけれど、もうそんな必要はない。けれどそうとわかっていても面映ゆかった。おどおどする私に、部長はさらに追い打ちをかけるように言った。
「海」
 両親の前で「海さんのことを」と言うときとは全然違う、もっと艶めかしい口調で、彼は初めて私の名を呼んだ。
 ああ、恥ずかしくて顔から火が出そう。
 どんどん強くなっていく太陽の光が、それでも背中を押してくれているように感じた。勇気を振り絞り、私は彼の手を握り返した。
「クレフ」
 そして私も初めて、彼の名を呼んだ。
「大好きよ」
 搭乗口が開くまでのあと数十分が永遠に続けばいいと思いながら、私たちは肩を寄せ合い、夜明けを眺めた。私の左手薬指にはめられた指輪が、太陽に負けない輝きを放っている。生まれたての朝日が、二人を柔らかく包み込んだ。




ラスト・リング 完





最終話だけ二話分くらいの分量になってしまいました;
よっぽど途中で切ろうかと思ったんですが、どこでも切れないのでこのままアップです。
というわけで、セバスチャンさんからのリクエストで、クレフ部長パラレルでした。
これを書きたくて10万ヒット企画を始めたと言っても過言ではありません。(でも途中から、これが企画物の作品だということを忘れてました。長く書きすぎましたw)
珍しく(?)、かなりの純愛物になりました。キスすらしてない(笑)
パラレルでしたが、たくさんの方にご好評いただけてとても嬉しかったです^^ 個人的にも思い入れの強い作品となりました。

ここまで読んでくださってありがとうございました^^

2013.11.30 up




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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