蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

諱 18. 子

海誕企画★2013

もう二度と訪れることはないと思っていた。見れば思い出してしまうから、見るのも厭で、都内でもできるだけ東京タワーが目につかないところで住居を探していた。

本文は「続きを読む」からどうぞ。





 腕時計とパソコンの画面とを交互ににらみながら、指でトントントンと机を叩く。急いでいるときに限って、パソコンがシャットダウンするのに時間がかかる。海は苛立ちを募らせながら、「シャットダウンしています……」の表示が消えるのを待っていた。
 腕時計が指した時間は、5時10分。こんな時間まで仕事が残ることなどめったにないのに、急ぎの仕事が舞い込んできたために、いつもより二時間も遅い退社になった。まったく、どうしてこうタイミングが悪いのかしら。心の中で毒づきながら、パソコンの画面に刺すような視線を送り続ける。そうしていると、ある瞬間に突然モニターが真っ暗になった。弾かれたように顔を上げ、椅子に置いていた鞄をふんだくる。それから周囲の人々に向かって、
「お先に失礼します!」
 とおざなりな挨拶をすると、一目散にオフィスを飛び出した。

 海はヒールで走るのが好きではない。足音が必要以上に響くし、そうするとたくさんの人がこちらを見るので、まるで「注目してください」と自ら言っているようで厭なのだ。けれど今日ばかりはそんなことは言っていられなかった。人混みを掻き分け、階段を駆け下り、閉まりかけた地下鉄の扉からギリギリのところで車内に滑り込む。最初こそ、息を切らす海に怪訝そうな視線を向けてくる人もいたけれど、それらの視線もすぐに離れていった。ぽつぽつとある空席にはあえて向かわず、海は扉近くに立ち、鉄棒を軽く握った。

「龍咲さん。零二(れいじ)くんが、お友達とけんかをしてしまって」
 保育園からそんな連絡が職場に舞い込んだのは、ちょうど「急ぎの仕事ができてしまったので零二の保育を延長させてほしい」とこちらから連絡を入れようとしていた矢先のことだった。海はいろいろな意味で驚いた。まずは、今日に限ってそんな連絡がきたということ。そして何より、その連絡の内容だ。電話を受けた瞬間、海は思わず、
「え、けんか? それは本当に零二のことなんですか?」
 と聞き返していた。それほど、零二と「けんか」という言葉は結びつかないものだった。「零二くんはとても面倒見がよくて、いつもほかの子どもたちのお手本になってくれているんですよ」と言われることはあっても、零二に関して困っていることがあると言われるのは、0歳のときから預けている保育園でもこれが初めてのことだった。

 生まれたときから本当に手のかからない子だった。夜泣きに悩まされたこともほとんどなかったし、五歳となった今では、積極的に家事を手伝ってくれようとしてくれる。子どもに気を遣わせるようではいけないと思いつつも、「おかあさんはお仕事忙しいんだから。少しはぼくのこと頼ってよ」という零二の言葉に結局は甘えている日々だった。
 今日日海は、日中は運よく一回目の面接試験で採用が決まった出版社でフレックスタイムの仕事を、夜は時給の良さだけで選んだクラブでママ見習いをしている。本当に忙しいときは、零二と挨拶程度の会話しか交わせない日もある。けれどそんな海に対して、零二は一切の弱音を吐かずいつも変わらぬ笑顔を向けてくれる。その笑顔にどれだけ癒されているか知れない。仕事で厭なことがあっても、帰宅して零二の笑顔を見れば、明日からも頑張ろうと思えるのだった。

 ひょっとしたら、無理をさせすぎてしまっていたかもしれない。海は猛省した。平日の寝不足を解消するため、貴重な休みだというのに土日どちらか一方は死んだように寝てしまう。もう一方は必ず零二と過ごすようにはしているけれど、あまり人混みには行きたくなくて、もう五歳だというのに零二を未だディズニーランドにも連れて行ってあげられていない。そんな日ごろの淋しさが爆発して、あの子もついけんかをしてしまったのではないか。
 胸が締めつけられるように痛んだ。ごめんね、零二……。心の中で呟いたとき、電車が保育園の最寄り駅に着いた。

***

 夕陽がきれいだな、と普段なら思うところかもしれない。けれどそんな余裕は当然なく、海はすっかり人気のなくなった保育園の門を大急ぎでくぐった。
「すみません、遅くなって」
 橙色に照らされた遊具の影がどれも長く伸びている。そのうちのひとつ、ブランコのそばに、二人分の人影があった。一方は大人のものだった。零二のクラスの先生だ。背も低く、決してイケメンではないけれど、子どもたちからの人望は厚く、海も信頼できるいい先生だと思っている。その先生が、こちらを見上げて「お母さん」と困ったように眉尻を下げた。先生の手は、そばで泣きじゃくる子どもの背をひたすらにさすっていた。
 もう一方の影の主であるその子の薄紫色の髪が、夕陽に照らされてきらきらと輝く。その、いつもよりずっと小さく見える背中を目に留めた瞬間、海は思わず駆け出していた。
「零二!」
 鞄をほとんど放り投げるようにして、海は零二の前で膝をつき、彼の細い肩をつかんだ。反動で、零二の背中をさすっていた先生の手が離れていく。海はぐずる零二の顔を覗き込んだ。
「零二、いったい何があったの? お友達とけんかをしたって聞いたわ。いつも誰とでも仲良くしてたあなたが、どうして――あら?」
 海はふと、零二が大事そうに何かを抱いていることに気づいた。よく見るとそれはウサギだった。ウサギは周囲の喧騒などものともせず、恍惚とした表情を浮かべている。ずいぶん零二に懐いているようだった。海はなぜか言葉が出なかった。

「お母さん、あまり叱らないであげてください」
 不意に先生が言った。海は顔を上げ、この日初めてまともに先生を見た。
「零二くんだけが悪いわけじゃないんです」
 夕陽を背に、先生は静かにほほ笑んでいる。その言葉に嘘はなさそうだった。それでも海は、眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。
「けんかって、どんなけんかだったんですか?」
「けんかというか、軽い言い合いのようなものなんですよ」と言って、先生は零二が抱えたウサギに目を向けた。「このウサギ、隣のクラスが世話をしているウサギなんですが、なんだか元気がないって、今日子どもたちが騒いでいたんです。そうしたら零二くん、このウサギをじっと見つめたあと、抱き上げて言ったそうなんです。『この子、おなかに病気があるからお医者さんに連れていってあげた方がいい』と」
「……え?」
 どくん、と大きく波打った鼓動が、先生にまで聞こえはしかなかったかと気がかりになるほどの音を立てた。零二の肩をつかんだ手にぐっと力がこもったのも、無意識のうちのことだった。海は大きく目を見開き、未だぐずっている零二をまじまじと見やった。零二と目は合わなかった。
「それを聞いて、子どもたちが零二くんのことをからかったんです。『どうしてそんなことがわかるのか』って。そうしたら零二くん、『だってこの子がそう言うんだ』って、むきになってしまって、それからちょっとした言い合いに――」
「うそじゃないもん」
 突然零二が、先生の言葉を遮り、その小さな体のどこからそんな声が出るのか想像もつかないほどの大きな声で叫んだ。
「うそじゃないもん。ぼく、ほんとに、この子が『痛い』って言うの、聞こえるんだもん。うそじゃないもん」
 零二の大きな蒼い瞳から、ますます大粒の涙があふれ出す。泣き声を大きくした零二の背中を、先生が宥めるように撫でる。その様子を、海は呆然として見つめていた。

「……お母さん? どうしたんですか」
 不意にこちらを向いた先生が驚いたように目を丸くしたのを見て、海は初めて自分も涙を流しているのだと知った。海は答えず、黙って零二を見つめていた。零二はウサギを抱えたまま、俯き、ぽろぽろと涙を流し続けている。それでもかみしめられた唇が、精いっぱいの強がりを見せつけた。
 どこからともなく吹いてきた風に、薄紫色の猫毛が靡く。その瞬間、海は心の奥深くにしまい込んでいた想いが堰を切ってあふれ出てくるのを感じた。
「零二……!」
 そんなに強く抱きしめたことはないというほど、海は零二を力いっぱい腕の中に引き込み、きつく抱いた。小さな体が悲鳴を上げる。零二の戸惑いが感じられても、海は腕の力を緩めようとはしなかった。止め処なくあふれる涙が、零二の髪を濡らした。
「おかあさん、どうしたの? 泣いてるの?」
 零二の声が、肩口から入って海の心にまで沁みてくる。この子は正真正銘あのひとの子なのだ。海はこの五年間のどの瞬間よりも強くそう感じていた。

「おかあさん……ぼく、うそついてないよ。ほんとだよ」
 無言のまま泣き続ける海をどう思ったのか、零二が心細そうな声で言った。海はようやく腕を緩め、涙でぐっしょりと濡れた頬を拭うこともせず、真正面から零二と向き合った。驚いたせいか、零二の目からは涙はもうすっかり消えていた。その小さく柔らかい頬をそっと包み、海は努めてほほ笑んだ。
「わかってるわ。零二が嘘なんかついてないことは、お母さんが一番よくわかってるわ」
 何度も、何度もうなずいた。そして今度は先ほどよりも優しく、再び零二を抱きしめた。そうして繊細な髪を梳きながら、海は顔を上げ、そばでおろおろしていた先生を見上げて言った。
「このウサギ、なるべく早く病院に連れて行ってあげてください。きっと、本当にお腹に病気があると思うから」
「え?」
 大きく目を見開いた先生に、海はただ無言のままほほ笑んだ。

***

 もう二度と訪れることはないと思っていた。見れば思い出してしまうから、見るのも厭で、都内でもできるだけ東京タワーが目につかないところで住居を探していた。けれどあれだけの高さを誇るものを見なくて済む場所を見つけるというのは思った以上に至難の業で、結局、都心からはだいぶ離れた郊外へ行かなければならなかった。
 かつて暮らしていた場所に比べれば格段に不便だけれど、都心から離れる方が好都合だったので、多少の不自由さには目を瞑った。都心に近くなればなるほど、両親や旧知の友らと出くわす可能性が高くなる。幸いこの五年間、見知った人と会うことは一度もなかったけれど、「外国に嫁ぐ」と言って出て行ったはずの娘が今も東京で働いているなどということが両親の耳に入ったらと思うと、生きた心地がしなかった。よく今まで誰ともすれ違わなかったものだと感心する。いっそのこと東京を離れてしまえばよかったのかもしれないけれど、見ず知らずの土地で親子二人きりでやっていける自信もなく、結局東京を離れることはできなかった。中途半端だと、自覚していた。

 この五年間、同じ都内にいながら、海は両親のもとを訪れることはおろか、手紙を出すことさえしなかった。娘は幸せに暮らしているのだと信じてくれている両親に、現状を伝えることなどできなかった。幸せになることが何よりの親孝行だと思っていたのに、幸せになるために親元を離れたのに、その幸せを、私は手に入れる前に失くしてしまった。
 二人に心配をかけたくない。そういう気持ちはたしかにあった。けれど両親のことを考えているように見せかけてその実、ただ現実を見つめることから逃げていただけだったのかもしれない。過去に起きた出来事と向き合うことが怖くて、ずっと目を逸らし続けていただけだったのかもしれない。
 でも、いつまでも逃げ続けることはできないのだ。海を奮い立たせたのは、零二の涙だった。

「おかあさん、どこいくの?」
 二人で電車に乗ることなどずいぶんと久しぶりだったので、もっとはしゃぐかと思っていたけれど、零二は意外と大人しかった。それどころか、ゆうべ二人で手を繋いで帰路に就いていたときからずっと、零二はどこか張り詰めた空気を漂わせ続けている。もっともそれは、海自身の気持ちが知らず知らずのうちに彼の方へと流れ込んでいるせいなのかもしれなかった。海はゆうべからずっと緊張していた。零二がその身に持つ『力』を知ってから、ずっと。
 不安げにこちらを見上げてくる零二の手を取り、海はほほ笑んだ。
「遠いところよ」
「遠いところ?」
「そう。ずーっと、遠いところ」
 言って、何気なく外の景色に視線を投げる。すると、五年ぶりに見る東京タワーがついに姿を現した。何年経っても、その朱色だけは色褪せない。目にした途端、海の胸はきゅっと締めつけられるように痛んだ。その痛みが表情に出ないように気をつけながら、零二の手ではなくRIMOWAの白いスーツケースの取っ手を握った方の手に力を込めた。

***

「うわあ、すごい!」
 展望台に着いた途端、零二は見たこともないほど目を輝かせて窓辺に走り寄った。慌ててあとを追いかける。土曜日の東京タワーは想像していた以上に混雑していて、衰えないその人気ぶりに、心の中で舌を巻いた。
 零二は欄干に手を掛け、ひっきりなしに声を上げながら眼下の景色を食い入るように見つめている。ようやく追いついた海は、零二の肩に手を置くと、「もう」と肩で息をついた。
「走っちゃだめって、いつも言ってるでしょ? 混んでるんだから、気をつけて」
「はあい」
 返ってくるのは生返事ばかりで、覚えず苦笑した。けれど東京タワーに上ることはもちろん、こんなに都心までやってくることも零二にとっては初めてで、興奮するのは無理もないことだった。
 血の滲む、とまでは言わないけれど、この五年間はただひたすら日々を「生きる」ことに精いっぱいだった。母子家庭の辛さを、身をもって知った。零二には、本来ならわずか五歳の子どもが経験する必要などないような苦労をかけた。父親がいないというだけで淋しい思いをしていたに違いないのに、母親さえ、ほとんど家にいない生活だったのだ。それでも零二はいつも笑顔だった。昨日見た零二の涙は、思えばずいぶんと久しぶりに見た涙だったような気がする。

「零二」
 海はその場でしゃがみ、零二と目線の高さを合わせた。外の景色をじっと見ていた零二が、きょとんとして海と向き合う。その真っ青な瞳を見るたびに、海には思い出す『世界』があり、思い出すひとがいる。
「お母さんね、あなたに教えなくちゃいけないことがあるの」
 零二がすばやく何度か瞬きをする。人の話を真剣に聞こうとするときの零二の癖だ。海は目を細め、零二の両手を持ち上げてそっと包み込んだ。
「あなたの、お父さんのこと」
 零二ははっと目を見開いた。その瞳は、彼が感じているであろう戸惑いをそのまま映し出した。海はぐっと涙を堪え、ごまかすようにほほ笑んだ。
「あなたのお父さんはね、ほんとうは、この世界の人じゃないの。もっとずっと、ずーっと遠いところにいる人なの。あなたがウサギの声を聞くことができたのは、あなたの中にお父さんの『力』があるからなのよ」
「……おとうさん」と零二は呟いた。その言葉をかみしめるような口調だった。

 零二の父は交通事故で死んだ。零二にも、保育園の先生や職場の上司にもそう伝えていた。後腐れなく周囲との関係を築くには、手っ取り早い説明の方法だった。けれどそのことを口にするたび、海の心はいつも、その日初めてその事実を知ったかのように痛んでいた。
「知りたい? あなたのお父さんのこと」
 まだ五歳の零二に決断を委ねようとするのは、あまりにもずるいかもしれない。それでも海は、ここから先は零二の答え如何でどうするか決めるつもりだった。零二が「知りたい」と言うのなら、ずっと避けてきた『道』を通る。零二が「このままでいい」と言うのなら、ただ東京タワー見物をして帰ろうと。

 海から視線を逸らした零二は、しばらくのあいだ何も言わなかった。真剣に考えていることが、その伏せられた睫毛からわかる。五歳の子が突然こんなことを言われて、すぐに答えられるはずはなかった。
 海はただじっと待った。そのあいだ、幾人もの見物客がそばを通り過ぎていったけれど、そんな喧騒の中に自分たちがいることさえ気にならなかった。
 やがて零二は唇を真一文字に結び、顔を上げた。そして海の両手をしっかりと握り返すと、決意に満ちた瞳で真っすぐに海を見た。
「知りたい。ぼく、おとうさんのことが知りたい」
 本当は、零二がそう答えることを心のどこかで確信していた。そうでなければ、部屋を引き払ったり職場に退職願を出したり、スーツケースを手にして東京タワーにやってきたりなどしないだろう。
 海はこくりとうなずき、立ち上がって零二の手を握り直した。
「それじゃあ、行きましょう」
 五年も経つというのに、どうすればいいのか体が覚えている。海はそっと目を閉じ、片手には零二を、もう一方の手にはスーツケースをしっかりと握りしめたまま、体がねじられる感覚に身を委ねた。




web拍手 by FC2

コメント

コメントを投稿


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

TB*URL

PrevEntry |  to Blog Top  | NextEntry
What's new?
ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

▶ 連作短編集を始めました。クレ海学生パラレルです。今後年中行事に合わせて不定期更新の予定です。詳しくはこちらからどうぞ。

▶ こちらは作品展示専用です。コメントへのお返事は別ブログにて行っております。
カテゴリー
最新記事
月別アーカイブ
全記事表示
Counter
プロフィール

篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

このブログは作品展示専用です。
いただいたコメントへのお返事は別ブログにて行っております。
どうぞお気軽にコメントお寄せくださいませ^^

 

Copyright ©蒼穹楼. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha. Photo by sozai-free 2000px.