蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

蒼穹の果てに 15. むき出しの心

長編 『蒼穹の果てに』

ともに生きていくことができなくても、せめて心の拠り所にしてほしい。そう思うのは偽善だろうか。

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 不意に視界がクリーム色に染まった。どうやら夢の中にいるらしい。視界が染まったことを認識できるほど意識がはっきりしているにもかかわらず「夢の中にいる」と判断するのは、今のイーグルは眠らなければ色を識別することなどできないからだ。それに、目の前に広がる乳白色には覚えがあった。
 まただ、と訝しく思う一方で、来られてよかったとほっとしてもいた。またこの世界に足を踏み入れることができたという事実に、イーグルの胸は高鳴った。ところが今日は少しばかり事情が違った。少なくともイーグルの視界が届く範囲には、あの娘の姿はなかった。

 どれほどの広さなのかもわからない世界に、イーグルはたった一人きりでいる。それでも不思議と淋しさは感じなかった。何も見ることができない現実の世界とは違い、ここではイーグルはすべてを見ることができる。「すべて」と言っても見えるものはただ乳白色に染まる世界だけなのだが、それを乳白色だと認識できることさえ、今のイーグルにとってはすごいことだ。
 体を動かすことも容易だった。今ならやろうと思えば何でもできる気がする。けれど自分以外には誰もいないところで何をしたらいいのかもよくわからず、イーグルはその場でしゃがみ、膝を抱えるようにして座った。不思議なもので、床があるようには見えないのにそこに「座っている」という感覚は確かにあった。

 あの娘の姿がないことにがっかりした自分を知って、イーグルは、自分が今夜も彼女に会えることを期待していたのだと初めてわかった。それどころか、娘はここで自分がやってくることを待ってくれているだろうとさえ思っていた。けれどそれは、いささか自分勝手な期待だったかもしれない。そもそもここがどこなのかさえ、イーグルはわかっていないのだ。意識が落ちたときしかやってくることができないのだから普通に考えたら「夢」なのだろうが、「そう言う人もいる」と表現した娘の言葉が、どうしても引っ掛かっていた。
 この空間は、何もないのにとても温かかった。この温もりもまた、この世界を「夢」と表現させることをためらわせる要因のひとつだった。この空間には、全体的にまるで母親の腕に包まれているような安心感が広がっているが、自分の夢がこんなに温かいはずはないとイーグルは思う。母親のまなざしすら覚えていない自分が、こんなにも温かい夢を見られるわけがない。温もりとは、それを与えられたことがなければ思い描けないものだろう。

 そこまで考えて、イーグルはふっと自嘲気味に頬を緩めた。
「僕らしくありませんね」
 こんな風に、理屈で説明できないことを考えることはめったにない。軍の最高司令官に任命されてからは特に、「温もり」などという非合理的なことを考えたことはなかった。セフィーロという桃源郷のような世界で過ごしているあいだに、少し気持ちの鋭さが鈍っているのかもしれない。けれどそんな悠長なことを言っている場合ではないのだ。今のセフィーロはどことなく不穏な空気に包まれている。ジェオから聞かされたオートザムの情勢も気がかりだ。しっかりしなければ、と自らを律するつもりで背筋を伸ばした。
「また会ったわね」
 やおら声が聞こえたのはそのときだった。イーグルは思わず肩を震わせ、顔を上げた。すると視線の先にあの娘が立っていた。いつの間にやってきたのか、まったく気配を感じなかった。

 イーグルはすっと立ち上がった。鼓動が速く脈打っている。娘が柔らかくほほ笑んだ。彼女はこの空間全体を包む穏やかさにすっかり同化していた。
 声をかけようとして、けれど言葉が出てこなかった。娘の名前を知らないのだ。
 もっとも、「娘さん」とか「あなた」とか、呼びかけ方はいくらでもある。けれど目の前の娘に対してそんな他人行儀な口は利きたくなかった。言葉を探しあぐねていると、娘が不意に目を細めた。彼女がその腕に大輪の花を抱えていることに、そのときになってようやく気づいた。この前会ったときもそうだったなと思った。薄い紅がかった銀髪が、吹いてもいない風に揺れた。
「まだわかっていないのね。私のこと」
 嘘をつくのは簡単だった。けれど彼女に対してはどうしても、偽りのないほんとうの心で接したかった。ようやく落ち着いてきた自らの鼓動を聞きながら、イーグルは一度深呼吸をした。そしてあっさりうなずいた。
「謝らないわ」
 おそらく自分の名前すら教えられないことを言っているのだろう。イーグルは笑って、
「必要もありませんよ。あなたは何も悪くありませんから」
 と言った。
 娘は満足げにほほ笑み、イーグルから視線を外した。遠くへと投げられたその視線の先を追いかけたが、イーグルには何も見えなかった。娘のほっそりとした頤が、純粋に美しかった。

 しばらくのあいだ、どちらも何も言わなかった。それは不思議な沈黙だった。重苦しいわけでもなく、かといって軽いわけでもない。息をしたら当然空気が体内に取り込まれるのと同じように、とても自然な沈黙だった。ここで二人が沈黙するということは、必然的に選ばれた道であるように思えた。
「似てるんです」
 その沈黙はずっと続いていくべきだったのかもしれない。けれど口を開かずにはいられなかった。無意識のうちに拳を握りしめていた。
「似てるんです、あなたが。僕の知っている人に」
 娘は答えない。イーグルは真っすぐに彼女を見た。流れる髪も、揺れる純白のドレスの裾も、そこから覗く真っ白な足首も、すべてがはかない。今すぐにその細い腕を捕まえて、どこへも行かれないように籠に入れて閉じ込めてしまいたかった。そうしなければ、ちょっと目を離した隙にその背中から羽を生やして飛んで行ってしまいそうだった。
「僕たちは、前に会ったことがあるんでしょうか」

 答えがないことはわかっていた。期待していたわけでもないつもりだった。けれどこちらを向いた娘が実際にほろ苦く笑うだけだったとき、イーグルは胸の痛みを禁じ得なかった。そしてそんな痛みを感じた自分を恥じた。まるで心が通っている人間のような反応ではないか。そんなものはとっくの昔に捨てたはずなのに。ランティスの『願い』を阻止しセフィーロとともに永遠の眠りに就くと決めたとき、心などというものは捨てようと決めたはずなのに。
 いや、とイーグルは、しかしそんな自らの考えを否定した。確かにこの心は一度は凍りつき、そのまま体とともに眠り続けるはずだった。けれどそれは、ひとりの少女の手によってあっけなく溶かされたのだ。
 二年前、課せられた試練を乗り越え新たなセフィーロの『柱』と認められた光は、危険を冒してまでイーグルの命を救おうとした。本来『柱への道』はその資格を有する者の前にしか開かれず、『柱』と認められなかったイーグルはそのとき死ぬべき運命にあった。それなのに、光は「絶対にあなたと一緒にここから出る」と言い張った。イーグルは動揺した。自分が死ぬことに対する恐怖心は微塵もなかったが、彼女をそれに巻き込むことだけは厭だった。つないだ手を早く放してほしくて懸命に訴えたが、光は「生きなきゃ」と言って笑った。そのひたむきさに心動かされ、イーグルはあのとき生まれて初めて「生きたい」と思った。光が創造する世界をこの目で見てみたいと思った。すると捨てたはずの心が脈打ち始めるのをはっきりと感じた。それは当たり前のようにそこにあって、存在を静かに主張していた。心は捨てられるものではないのだと、年端もいかぬ少女に教えられたのだった。

「イーグル」
 娘が言った。イーグルははっとした。この娘に名前を呼ばれると、なぜか心を揺さぶられるような感じがする。見返したスカーレットの瞳は、そのまま取り出して飾りたいほど、どんな宝石よりも美しく見えた。
「私は、あなたが知らないことは教えられないわ。だけど――」
 そこまで言って、娘は急にはっと目を見開いた。それきり彼女は言葉を紡ぐのをやめた。その急激な態度の変化を、イーグルは訝しんだ。「どうしたのですか」と訊ねようとして、しかしその言葉は呑み込むことになってしまった。やおら首をもたげて天を仰いだ娘が、イーグルが息を呑むほど艶やかな笑みを浮かべたからだ。

 これまで見たどんな表情とも違っていた。「吸い込まれそうな笑顔」というものがあるとしたらこのことだと思った。娘がつとこちらを向くまで、彼女に見惚れていたということにさえ気がつかなかった。イーグルを見た娘の表情は、深い笑みの余韻をまだ残していた。
「行って」と娘は言った。「あなたはもう、起きなくてはいけないわ」
「え?」
 意外な言葉に、イーグルは目を見開いた。ところが次の瞬間、抗えないほど強い力がイーグルの瞼にのしかかった。前回と同じだった。あっと思う間さえない。意識が混濁する。できる限り腕を伸ばすことが、せめてもの抵抗だった。けれど辺りを包む柔らかい光も、穏やかな娘の笑みも、すぐに見えなくなってしまった。

***

 意識を取り戻したとき、イーグルは泣きそうになった。もしも体を自由に動かすことができるなら、今すぐにでも駆け出してあの娘がいる場所を探しに出かけたかった。どこにあるのかも、本当に存在しているのさえわからないが、もしもあの場所を一目現実に見ることができたなら悔いなく死ねるとさえ思った。
 あの柔らかい光が嘘のように、今イーグルの視界に広がるのは闇ばかりだった。明かりのひとつもない。夜だからという理由だけではない。夜だろうが昼だろうが、現実の世界ではイーグルの視界はいつも闇に閉ざされている。あらゆる希望を容赦なく削ぐような虚無感がイーグルを襲う。思わずため息がこぼれた。けれどそのとき、イーグルはふと、部屋の中に自分以外の気配があることに気がついた。

 夜更けの来訪者自体そもそも珍しい。誰だろうかと訝る気持ちがまったくないわけではなかったが、警戒心は皆無だった。この世界にはイーグルの命を狙うような人間はいないとわかっているからだ。
 イーグルはじっと意識を集中させ、そばにある気配を追った。それが誰であるのかすぐにはわからなかった。けれど「わからない」というそれこそがまさにその人物を暗示していた。
『導師クレフ』
 言うと、ベッドサイドが揺れた。どうやら当たったようだった。
「起こしたか」
 ばつが悪そうな声が、鼓膜を震わせる。『いいえ』とイーグルは言った。「そうか」とクレフのほっとした声が返る。直後、爽やかな香りが鼻を抜けた。すると昂っていた気持ちが否応なく落ち着きを取り戻していくのを感じた。そうか、彼はこの薬草を焚きに来てくれたのか。
 薬草の香りを全身に巡らせようと、イーグルは大きく深呼吸をした。セフィーロには特殊な効能を持つ薬草がいくつもあるが、今焚かれているのは精神の安定に効く薬草で、まさにイーグルが必要としていたものだった。けれどいつもいつもこの香りが焚かれているというわけではない。クレフはなぜ、イーグルの気持ちが昂っていることに気づいたのだろう。

「厭な夢でも見たか」
 不意にクレフが、さりげなく言った。イーグルはすぐには答えなかった。ベッドサイドに立ったクレフがこちらを見下ろしているのを感じる。答えを強要している視線ではなかったが、嘘をつける視線でもなかった。
『いいえ』
 やがてイーグルは、吐き出される息のままに答えた。「厭な夢」ではないから、嘘はついていない。
『それより、ヒカルたちが「異世界」へ帰れなくなってしまったそうですね』
 イーグルは無理やり話題を変えた。すると今度はクレフが押し黙る番だった。「ああ」とようやく放たれた彼の声は、こちらが胸をえぐられるほど痛々しかった。
「『道』が閉ざされてしまったようだ。打つべき手が見つからない」
『あなたが「道」を創ることはできないのですか? あなたほどの「意志の力」があれば、簡単なことでしょう。僕にだってできたんですから』
「無茶なことを言う」とクレフは苦笑した。「私にそんな力はない。それに」
 一度言葉を区切り、クレフはそれきり口を噤んだ。彼の心が、まるで目の前に浮遊しているかのようによく理解できた。
『「道」が開かれることを、彼女たちは必ずしも望んでいない――ですね』
 クレフの後を続けるつもりでそう言った。頬に視線が突き刺さるのを感じる。それを肯定と受け取り、イーグルはおもねるように笑った。

 生きる世界の選択。それは考えてみれば当然のように立ちはだかる問題だったはずなのに、これまでは微塵も考えようとしてこなかった。あえて目を背けていたのかもしれない。喫緊の課題ではないと、誰もが思い込みたかったのかもしれない。けれど異世界の少女たちがこちらの世界を定期的に訪れることが簡単なことであるはずがなく、また未来永劫続いていくものとも思えない。そもそもこれまで何の問題もなく交流を続けてこられたということ自体が奇跡に等しいのだ。
 セフィーロか、異世界か。遅かれ早かれ、彼女たちの前には巨大な壁が立ちはだかることになる。そして今、三人のうちの少なくとも一人はその壁に直面している。そのときに選ぶ道を、彼女たちの人生は彼女たちだけのものだからといって突き放すのは簡単だ。けれどそれはあまりにも身勝手なことだろう。彼女たちの人生に口出しをしていいわけではないが、身を引き裂くような決断を迫るのはこちらの世界の人間だ。ともに生きていくことができなくても、せめて心の拠り所にしてほしい。そう思うのは偽善だろうか。

 イーグルはじっとクレフの気配に意識を這わせた。いつかこんな日が来ることを、彼はわかっていたのだろうか。
 どのような道を選んだとしても、少女たちは大切な人たちと別れなければならない。異世界を選べばセフィーロの人々と、そしてセフィーロを選べば異世界にいる家族と。親しい者であればあるほど、その者との別れは強烈な痛みを伴う。そのことを、誰よりも長く生きているクレフは誰よりもよく知っているに違いないと思う。他人の負った傷でも自分のものであるかのように感じるひとだ、これまで温かく見守ってきた少女たちが悩み苦しんでいるという事実にもっとも心を痛めているのは、クレフかもしれない。
「おまえまで、思い悩む必要はない」
 そのクレフが、吹っ切るように言った。
「まずは体を治すことを第一に考えろ」
 薬草の香りだけを残し、クレフがベッドサイドを離れていく。「長居をしたな」という言葉とともに、足音が遠ざかる。

『導師クレフ』
 呼び止めたのは、ひとりになるのが淋しかったからかもしれない。クレフが去っていくと思ったとき、いつも強制的に別れさせられてしまう娘のことが脳裏を過った。
『夢を見るんです。とても、不思議な夢を』
「夢?」
 クレフの足音が止まった。『はい』とイーグルは答えた。
『そこにはいつも、僕の知らない女性がいます。彼女と交わす会話はとてもリアルで、なんだかただの夢とは思えないんです』
「おまえの知っている者なのか」
『いいえ。彼女は僕を知っていましたが、僕は彼女のことは知りません。でも、おそらくセフィーロの方だと思います』
「なぜそう思う」
『彼女がまとっている気配が、圧倒的に違うんです。セフィーロの、それも水底まで見えるほど澄み切った湖のような気配を持った人です』
 少しあなたに似ているかもしれません、という言葉は飲み込んだ。今突然思ったことだったし、それが何か根拠に基づいた考えというわけでもなかったからだ。ふむ、とクレフは訝しげに言った。

 そこに流れた沈黙が、クレフにも心当たりがないということを暗示していることくらい、イーグルにだってわかった。けれどもう少し足掻いてみたくなった。何でもいいから、あの娘のことについて手がかりが欲しかった。
『ご存じありませんか』とイーグルは畳みかけるように言った。『年のころは、僕より少し下くらいです。瞳はまるでそのまま宝石にできそうなガーネットで、髪は、薄い紅を差した銀色で』
 そのとき不意にガタンと音がして、イーグルは言葉を止めた。その音をきっかけにして、部屋を漂う空気が急に爆ぜたかのように色を変えた。
『どうしました?』
 驚いてイーグルは言った。クレフは何も言わないが、明らかに動揺していた。そんな風に彼が心をむき出しにする場面には、少なくともイーグルはこれまで一度も出くわしたことがなかった。

「――いや、なんでもない」
 しばらくしてから、クレフは急に早口になって言った。
「ただの夢だ。あまり気に病むな」
 言葉が吐き捨てられ、足音が響き出す。
「夜も更ける。ゆっくり休め」
 しまったな、とイーグルは思った。そのときすでに、クレフは心の扉にしっかりと鍵を掛けてしまっていた。そうなってしまえば彼の心に入り込むことは不可能だ。でも先ほどのむき出しになっていた心にならば、あるいは触れることができたかもしれない。けれどその瞬間はそのことに気づけなかった。それほどまでに、先ほどのクレフの態度は意外すぎた。

 呼び止める暇すら与えず、クレフはイーグルの部屋を去っていった。静かに閉じられた扉の音を最後に、イーグルはひとりになった。容赦ない孤独が降りかかる。その孤独を、イーグルはけれど振り払った。
 ――心を隠すのが、意外と下手なんですね、導師クレフ。心の中でひっそりと呟いた。聞こえない足音に耳を澄ます。もうすっかり、目は冴えていた。




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篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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