蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

夢のあとさき ホワイトデー(後篇)

連作短編集 『夢のあとさき』

去りゆく後ろ姿を見送るというこのシチュエーション。つい今しがたもあったことなのに、胸に抱く気持ちは全然違った。

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 うっすらと土汚れのついたユニフォームをまとった後姿が少し緊張しているように見えるのは、たぶん、私自身が緊張しているからだと思う。薄暗い廊下を、イーグル先輩は珍しく言葉少なに歩いていく。私はその一歩後ろを歩きながら、後姿も恰好いいな、なんてこっそり見惚れていた。だから先輩がやにわに立ち止まったときは、心底驚いた。
「龍咲さん」
「はいっ」
 思わず素っ頓狂な返事をしてしまうと、こちらを振り返った先輩が目を丸くした。途端、私の心臓は高速のアルペジオを奏でるように一気に坂を駆け上がった。いったい今の声はどこから来たのか、私が訊きたい。気まずすぎる沈黙を前に、私はただ俯くしかなかった。すると先輩がくすりと笑った。
「すみません。僕よりも龍咲さんの方が緊張してるみたいで、おかしくて」
 その発言が、程度の差こそあれど先輩の方も緊張しているのだということを暗に示しているとは、そのときの私は気がつかなかった。そんな鈍感な私の手元に向かって、不意に小さな紙袋が差し出された。
「どうしても今日中に渡したかったんです。遅くなりましたけど、受け取ってもらえますか?」
 そこで私が手を伸ばしたのは、ほとんど条件反射のようなものだった。口元に食べ物を持ってこられたら無意識でも咀嚼してしまうのと一緒だ。それがホワイトデーのプレゼントだと気がついたのは、受け取ってからのことだった。そうだと気づくと、途端に顔から火が噴くのを感じた。
「えっ、これ、あの」
「あなたがくれたガトーショコラには及ばないかもしれませんが、おいしいと評判のお店のケーキです」
 こういう肝心なときに気の利いた受け答えができないのは、私のいくつかある欠点のうちの一つだ。頭がすっかり真っ白になってしまい、何も言葉が浮かばない。無言のまま、手元にある紙袋を信じられない気持ちで見つめることしかできなかった。

「気に入りませんか?」
 あまりにしんとしてしまったので、先輩が不安げな声でそんなことを言った。私ははっと顔を上げ、慌てて「いいえ!」と身を乗り出した。
「気に入らないなんて、とんでもない! ただ、その、嬉しすぎて、ちょっと、言葉にできなくて」
 いくらなんでもそこまでばか正直に言うこともないと思う。案の定、先輩には笑われてしまった。
「よかった。突き返されたらどうしようかと思いました」
 そんなこと、たとえ天と地がひっくり返ったとしてもあり得ない。そういう意味を込めてかぶりを振り、私は先輩のくれた袋を大事に抱きしめた。
「ありがとうございます。大切にします」
「生ものなので、あまり大切にされても困ってしまいますが」
 それもそうだ。最初に私が、次に先輩が吹き出して、私たちは同じような声のトーンで笑い合った。

「それじゃあ、僕はまだ練習があるので、これで」
「あの」
 勢いのままに、私は先輩を呼び止めていた。きょとんとして先輩が振り返る。私は少しためらってから、それでも意を決して顔を上げた。
「先輩、バレエとか興味ありますか?」
「え?」
「ロイヤル・バレエ団の公演のチケットがあるんです。ゴールデンウィーク中なんですけど、その、2枚あって、それで」
「ああ、誕生日パーティーでプレゼントされていたチケットですね」
「はい、それです。だから、あの……よかったら、一緒に行きませんか……?」
 すると先輩は、少し大げさにも見えるほど大きく目を見開いた。
「いいんですか、僕が一緒でも? てっきり、あのチェス部の彼と行くつもりなのだろうとばかり思ってましたが」
「そ……そんなことないですよ! 私は最初から、先輩と……」
 恥ずかしさが先立って、肝心の語尾は空気に溶けてなくなった。
「嬉しいです」と先輩は言った。「実は昔から、ロイヤル・バレエ団の公演は一度観に行ってみたいと思っていたんですよ」
 殊勝にも私に気を遣ってくれたのだろう。でもどんな理由があったとしても、先輩が快諾してくれたということは紛れもない事実だった。嬉しくてしょうがなかった。私はあふれ出る感情のままに満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、先輩」
「お礼を言うのは僕の方ですよ。ありがとうございます、誘ってくれて」
 ゴールデンウィーク、楽しみにしてますね。そう言って、先輩は颯爽とグラウンドへ駆けていった。夕陽を浴びたユニフォーム姿の背中が凛々しすぎて、姿が見えなくなってからも、私は恍惚としてその場に佇んでいた。

 人は幸せになることを恐れる生き物だと、今日心理学の授業で先生が言っていた。授業中は正直、本当にそんなことがあるだろうかと半信半疑だったけれど、今私は身をもって先生の言葉は真実だったと知った。先輩とのことがここのところあまりにもうまくいき過ぎていて、怖い。うぬぼれでもなんでもなく、先輩との距離は確実に縮まっている。本当なら舞い上がって喜ぶところだろうに、全然できない。むしろ、こんなにうまくいっていいのだろうかと懐疑的にさえなっている。
 幸せが目の前にあったら、恐れるのではなく、両手を広げて受け止める努力をしなければならない。授業がそんな言葉で締めくくられたことは覚えている。でもそこに至るまでに先生が言ったことはほとんど憶えていなかった。成績評価のつかない心理学の授業はもっぱら聞き流すことが多いが、今日ばかりはもっと真面目に耳を傾けておくべきだったと激しく後悔した。どうすれば幸せになることを恐れないような生き方ができるのか、今すぐに教えてほしかった。


「どうやらタイミングを逃すことはなかったようだな」
 それはまさに寝耳に水だった。藪から棒にすぐそばの部屋から出てきた人を見て、私は悲鳴を上げそうになった。
「な……ななななんであなたがここにいるのよ、クレフ」
「どうしてもこうもあるか。部屋の中にいたらたまたま話し声が聞こえてきたので、外に出てみたらおまえがいた。それだけのことだ」
「まっ……まさか、ずっと聞いてたの?!」
「『聞いていた』のではなく『聞こえていた』のだ」
「ひどいわ、盗み聞きだなんて」
「心外な。こんなところで話をしている方が悪い」
「あなたがこんなところにいる方が悪いんじゃない!」
「ここをどこだと思っている」
「え?」
 クレフはため息をつき、たった今自分が出てきたばかりの部屋の扉を軽く叩いた。見ればその扉には表札代わりのボードがぶら下がっていて、書道部顔負けの達筆で『チェス部』と書かれていた。
「あ……」
「そういうことだ」
 顔から血の気が引いていくのを厭でも感じた。イーグル先輩との一連の会話を繰り広げていたのがまさかチェス部の部室前だったなんて、いったい誰が想像しただろう。

 後ろめたいことがあるわけでもないのに、私は内心激しく動揺していた。おまけにクレフの視線が私の持っていた小さな手提げ袋に向けられたものだから、咄嗟にその袋を体の後ろに隠した。するとクレフが驚いたように目を丸くし、その直後、ぷっと吹き出した。
「何もおまえのもらったものを横取りするつもりはないぞ」
 カッと心臓が着火した。そんなつもりはなかったのに、今の態度は確かにそう捉えられても仕方がない。どうしてそんな行動を取ってしまったのか、自分のことなのにわからなかった。
 クレフといると、自分のことがわからなくなることがよくある。これ以上ここで突っ立っているとますます墓穴を掘ることになりそうで、私は足早に玄関へ向かって歩き出した。

「どうやらチケットは無駄にならずに済みそうだな」
 ブレザーの上にコートを着ているクレフはどう見ても帰るところで、二人の進む方向が分かれることはなく、私が早足で歩くことには何の意味もなかった。
「おかげさまで。プレミアチケットはちゃーんと使わせていただきますから、ご心配なく」
「何をそんなにかっかしている」
「かっかなんてしてないわよ」
「じゅうぶんしているように見えるが。――ああ、そうやって踵を踏むのはよした方がいい。靴は踵が命なのだ、すぐに履けなくなってしまうぞ」
「いいじゃない。どうせローファーなんてすぐだめになっちゃうんだから」
「丁寧に履いてやれば、それだけ持ちもよくなる。ものは使いようだ」
 そう言うクレフは、きちんと靴ベラを使ってローファーを履いている。よく見るとクレフの靴は、そんなに新しくはないけれどちゃんと手入れされていることが一目でわかるような靴だった。
 クレフは不言実行の人だ。昔からそうして、いろいろな物を当たり前のように大切に扱ってきたのだろう。こんな人が、他人からもらったプレゼントのお返しを「面倒くさいから」という理由で渋ったりするわけがない。

「どうしてお返ししなかったの?」
 私はクレフの一歩先を歩きながら、振り向かずに訊ねた。
「え?」
「ホワイトデーよ。誰にもお返ししなかったんでしょう?」
 一瞬の沈黙があって初めて、私は自分の発言が変に誤解される可能性があるということに気がついた。
「べっ、べつに、催促してるわけじゃないわよ。ただ、フェンシング部の同級生がそういう話をしてて、気になったっていうか、いや、気になったっていうのはその、私がっていうよりも、同級生がっていうだけで」
 だんだん自分でも何が言いたいのかよくわからなくなってきてしまい、私はそこで言葉を止めた。
 影が伸びているから、クレフが後ろをついて歩いてきていることはわかる。振り返ればいいのに、顔を直截に見ることが怖くてどうしても振り向けなかった。クレフが今どんな顔をしているのか、知りたい気持ちは確かにあるのに、それと同じくらい知りたくない気持ちもあった。神から渡された箱を前にしたパンドーラーの心が、少し理解できるような気がした。

「今日は誰にも何も渡していない」
 不意にクレフが言った。
「正直、ろくに話をしたこともない者に贈り物をするということに抵抗があってな。それに――」
「危ない!」
「え?」
 急に聞こえた怒号に、私は思わず立ち止まった。顔を上げると、グラウンドの方からサッカーボールがこちらめがけて飛んでくるのが見えた。
 ぶつかると思った、その寸前のことだった。
「ウミ」
 急に腕を引かれて、私は抱きすくめられた。手から鞄が抜ける。その鞄が地面に落ちた直後、鈍い振動が全身に小さく響いた。

「だいじょうぶか!」
 遠くからそんな声がした。はっと瞬いて初めて、私はクレフの胸にしがみついていたことに気がついた。慌てて離れると、クレフが虚を突かれたように目を丸くした。それからふっと呆れたように笑うと、自分のコートの右腕のところを軽く手で払った。そこには土埃がついていた。どうやら先ほどの鈍い振動は、クレフがその腕でボールを弾き飛ばしたときのものだったようだ。
「ああ、クレフと龍咲か」
 息を切らして走ってきたのはフェリオだった。彼はてんてんと地面を転げていたボールを拾うと、心底申し訳なさそうな顔をした。
「悪い。こっちに飛ばすつもりじゃなかったんだが」
「だいじょうぶだ。問題ない」
 クレフはさらりとそう言った。本当か? とフェリオは訝しんだが、クレフが笑顔で「ああ」とうなずくと、ようやくほっと肩を撫で下ろした。
「龍咲も、悪かったな」
 彼は最後、私に向かってそう言うと、ボールを手にグラウンドの方へと戻っていった。その姿が見えなくなると、クレフがやにわに私を振りかぶった。
「けがはないか」
「え? ええ、私はだいじょうぶよ。それより」
「咄嗟に腕で受けたのは失敗だったな。このコートはクリーニングに出すしかなさそうだ」
 そういう問題じゃないのに、クレフがあまりにもあっけらかんとしているので、なんとなく突っ込めなかった。

 クレフは改めて軽く土埃を払うと、つと私を見て、一瞬どこか困ったように笑った。思いがけない表情に、私は素早く瞬いた。けれどクレフはすぐに私から視線を外し、その場でしゃがんだ。次に顔を上げたときには、クレフの表情はいつものポーカーフェイスに戻っていた。
「おまえだけに渡すわけにもいかないだろう」
「え?」
 何の脈絡もないクレフの言葉に、私はきょとんとした。その私に、クレフが地面に落ちていた鞄と紙袋をくれた。
「中身を確かめた方がいいかもしれないぞ」
 そう言って、クレフは紙袋を指差した。あっ、と私は急いで袋の中を見た。ケーキの箱が入っている。箱自体はひっくり返ってはいないけれど、その中身がどうなっているのかはあまり想像したくなかった。
 ふと顔を上げると、いつの間にかクレフがすたすたと歩き出していた。
「ちょ……ちょっと!」
 慌てて追いかけようとすると、クレフが立ち止まってこちらを振り向いた。
「クリーニング屋に寄っていくから、別方向だ」
 それだけを言って、クレフはさっさと歩き去っていった。「さよなら」も「また明日」もなかった。

 去りゆく後ろ姿を見送るというこのシチュエーション。つい今しがたもあったことなのに、胸に抱く気持ちは全然違った。イーグル先輩の後姿を見送ったときは胸がほっこりと温かくなったのに、クレフの後姿を見送っている今は、胸がまるでぎゅっと押し潰されるように痛い。
 あと四か月後も、こんなことを感じるのだろうか。ふと考えた私は、一瞬、まるでこの世界に自分ひとりが取り残されたかのような錯覚を覚えた。クレフがいなくなったら、私の隣の席には誰が座るのだろう。
『ウミ』
 クレフは今、さりげなく私の名前を呼んだ。彼に呼ばれた名前は、なぜか漢字の「海」ではなくカタカナの「ウミ」で聞こえた。
 ためらわずに私を庇ってくれた腕は力強かった。お礼を言い損ねたことに、クレフの背中が見えなくなってしまってから気がついた。
「……いきなり名前で呼ばないでよ」
 迫力に欠ける憎まれ口を叩いた唇に、春とは名のみの北風が痛く沁みた。




『夢のあとさき』 ホワイトデー 完





いろいろ深読みしてくだされば嬉しいです(笑)
ここまで読んでくださってありがとうございました^^

2014.03.14 up




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