蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

残響

短編

※注※ この作品は大人向けかつバッドエンドです。

ハッピーエンドじゃないクレ海なんて赦せない! という方は回れ右を。
ご覧になる方は「続きを読む」からどうぞ。クレフは大人バージョンに置き換えてください。





 仮にも最高位の魔導師と謳われているのだ、『異世界』とをつなぐ『道』が開かれたかどうかくらい、どんなところで何をしていてもわかる。
「来たか」
 グリフォンの毛づくろいをしていた手を止め、たそがれる空を見上げて私は目を細めた。会わない日々をわざわざ数えているわけではないので正確な日数はわからないが、その『道』が開かれるのはかなり久々のことだった。ひと月、いや、もっとか。いずれにせよ、彼女はまだこちらの世界との交流を望んでいるようだ。ふっと肩を下げる。そのしぐさの意味するところが安堵なのか失望なのかは、自分でもよくわからなかった。
 不意にグリフォンが喉を鳴らした。
「ああ、すまない」
 われに返って毛づくろいを再開させれば、途端にグリフォンは目を閉じて恍惚とした表情を浮かべる。まったく、精獣に文句を言われるようでは威厳も何もあったものではない。これではどちらが主人なのかわからないではないか。自らの甘さに、思わず自嘲気味な苦笑いがこぼれた。

「導師クレフ」
 名を呼ばれても振り返らないのは、そこにいるのがプレセアであることも、彼女がなぜここへやってきたのかもわかっているからだ。私は彼女に背を向けたままうなずいた。
「わかっている。ウミが来たのだな。積もる話もあるだろう、宴の用意をさせておいてくれ。私も仕事を片付けたらすぐに向かう」
 その私の発言に不可解なところは何もないはずだった。しかしプレセアがうんともすんとも反応を返さないので、私は思わず手を止めて振り返った。
「どうした」
 一歩離れたところで傅いていたプレセアは、視線を地面へと落とし、珍しく晴れない表情(かお)をしていた。
「何かあったのか」
 誰に、何を、という肝心の目的語を口にしなかったのは、無意識のうちに恐れていたからかもしれない。
「それが……ウミの様子が、少しおかしいのです」
「なに?」
 先ほどより手が止まる時間が長くなっても、今度ばかりはグリフォンが文句を言うことはなかった。殊勝にも、主の心の動揺を機敏に覚り、わがままを言って赦される状態であるかどうかをグリフォンなりに判断してくれているのだろう。
 そんなことを冷静に分析している自分が滑稽で仕方がなかった。心に立つ漣が、耳元で無視できないささやきを述べた。

 プレセアの豊かな金色の髪が、夕陽に照らされて橙色に輝く。そういえば、海がやってくるにしては今はかなり遅い時間帯ではないだろうか。『ガッコウ』とやらに通っていたときはこの時間帯に訪れることもしばしばだったが、彼女はもうとっくに卒業した。その後はたまさかの休日の早い時間にやってきて一日、もしくは一晩を過ごしていくことがほとんどで、特に結婚してからは、日が沈まぬうちに帰路に就くことが専らだった。

 少し沈黙を流し、プレセアが言葉を続けるのを待ったが、彼女がそれ以上海の状態について説明することはなかった。刻一刻と日が落ちていく。私は一瞬のうちに今宵の予定を脳裏に呼び起こし、そこに特段喫緊の課題がないことを確かめた。
「たしか、チゼータから贈られた茶葉がまだ残っていたな」
 そうひとりごつと、プレセアがはっと顔を上げてその瞳を輝かせた。彼女の表情にはっきりと浮かんだ期待の色が後ろめたくて、私は咄嗟におもねるような笑みを浮かべていた。

***

 暮れなずむ空を前に来客用のティーセットを出して茶の用意をしていると、あらかじめ開けておいた扉の外に海の気配を感じた。何気なく顔を上げて彼女を迎え入れる言葉を紡ぎかけた私は、しかしその口を中途半端に開けたまま絶句した。
「……どうしたのだ、その顔は」
 昼日中と比べれば圧倒的に暗い部屋の中でもはっきりそれとわかるほど、海の左の頬が腫れ上がっていた。
 海は見事に不機嫌な顔をして、無遠慮に部屋の中へ入ってきた。私は取りあえず空中でさっと手を払い、開けておく必要のなくなった扉を閉じた。久方ぶりの再会に対する感慨も何もなく、海は変わらぬ仏頂面のままそばまでやってくると、小さな丸テーブルを挟んで向かい合って置かれていた椅子の一方に乱暴に腰を下ろした。

「いったい何があったのだ」
 座るタイミングを失い、私は間抜けに突っ立ったままもう一度問うた。
「叩かれたに決まってるじゃない」
「誰に」
「旦那」
 まるで夕食のメニューを告げるようにさらりとした口調だった。私は忙しなく瞬いた。
「冗談だろう?」
 確かめるように言うと、海が顔を上げて今日初めてまともにその瞳に私を捉えた。
「何で冗談だって思うの?」
「女に手をあげる男がいるか」
「東京にはいるのよ、残念ながら」
「しかし、おまえたちはうまくやっていたのではなかったのか」
「やってたわよ。ゆうべまでは」
 ふん、と海は腕を組んだ。

 海が異世界で伴侶を得たのは、もうかれこれ二年ほど前のことになるだろうか。もちろん相手は私の与り知らぬ男だが、結婚式の写真を海が得意気に見せてくれたことがあるので顔だけは認識している。私は記憶を引っ張り出し、その男の姿かたちを思い起こした。目鼻立ちの整った優男。とても女に手をあげるような男には見えなかった。写真の中でその男と腕を組んだ海も幸せそうで、彼女の人生に幸多きことを心から願ったのはついこのあいだのことだったような気がするのに、いったい二人のあいだで何があったというのだろう。
 とにかく、と私は努めて心を落ち着けようとした。まずは海の顔の治療が先決だ。せっかくのきれいな顔が、今のままでは台無しである。私は魔法で腫れを取ってやろうと腕を伸ばした。ところが私の手が彼女の頬に触れることはなかった。海がさっと身を引き、突き放すように掌をこちらへ向けたからだ。
「いいの。放っておいて」
「しかし」
「だいじょうぶ。すぐひくから」
 海は頑なだった。それ以上踏み込むのは彼女の異世界での生活に踏み込むことにつながってしまうような気がして、私も強くは出られなかった。結果私はあっさりと手を引いたが、しかしかといって、今の状態のままでいることをよしとも思えなかった。
「せめて薬湯くらいは飲め」
「いいったら。あなたは何も気にしなくていいの」
 そう言われたところで「そうか」と引き下がれる性分ではないことくらい、海ならばわかっているだろうに。座るでもその場を去るでもなく無言のまま立ち尽くしていると、ちらりと私を上目遣いに窺った海が呆れたように苦笑した。
「じゃあ、薬湯じゃなくて、お酒もらえる?」
「酒?」
「そう。『メスカル』がいいわ」
 どくん、と鼓動が否応なしに速くなった。海は視線を逸らさない。まるで心の揺らぎを見透さんとするかのような鋭い視線に、私は抗うすべなど持たなかった。ごくりと唾を飲み、否とも応とも言わず、黙って厨へと足を向けた。


 メスカルは、飲むのではなく舐めるようにして嗜む酒だ。指三本分ほどもないような小さなグラスにほんの少量を注ぐだけで、軽く三時間は楽しめる。だてにセフィーロ最強の蒸留酒の名を欲しいままにしているのではない。アルコール度数の高さは群を抜いていた。
 慎重にグラスを口に運んだ海は、舌先でちょろりとメスカルを舐めると、途端に顔のパーツをぎゅっと中央にすぼめてくぐもったうめき声を上げた。
「全然だめだわ。この年になったら少しは味わえるかと思ったけど」
 私は思わず笑った。
「メスカルを嗜める者はそうそういない。さすがのザズでも、このグラスを空けるのに一時間はかかる」
「空けられることがそもそもすごいわ」
「そうかもしれんな」
 ふと会話が途切れる。気まずさをごまかすように、私はグラスを持ち上げた。舌の上にほんの一滴乗っただけで、痺れるような熱さが全身を駆け抜ける。そもそも酒を口にすること自体がここのところはずいぶんとご無沙汰になっていたため、忘れかけていた刺激に、私はふっと息をついた。

 開け放った窓から風が吹き込んでくる。温い風だ。稜線の彼方に辛うじて紅い部分が見えるが、空のほとんどはすでに闇色に染まっていた。
「いったい何があったのだ」
 訊くことを恐れている自分自身と折り合いをつけるのは、想像していた以上に至難の業だった。
 海はメスカルをもうひと舐めした。
「今度のことは、100%私のせい。彼は何も悪くないわ」
「しかし、叩かれたのはおまえの方だろう」
「仕方ないわよ。叩かれるようなことをしたんだもの」
 どういうことが「叩かれるようなこと」なのか、私は思いつかなかった。
「相手を罵りでもしたのか」
 海はふるふるとかぶりを振った。
「しくじったのよ」
「しくじった?」
「ついにやらかしちゃったの。今までは一回もなかったのに。まあ、いつかこんな日が来るかもしれないとは思ってたから、べつに驚きもしてないけど」
 まるでなぞかけのような海の言葉は、私を混乱の渦中へといざなった。困惑が表情にそのまま出ていたのだろう、つと私を見た海は、慰めるように薄く笑んだ。そして言った。
「口走っちゃったのよ。あなたの名前を」
 海の言う「あなた」が私のことを指しているのか、果たして半信半疑だった。もしかしたら私の後ろに別の人間が立っているのではないかと思わず振り返ったが、そこには当然のように闇がわだかまっているだけだった。
「どういう意味だ」
 私はもう一度海に視線を戻し、訊ねた。
「わからない? ベッドの中であなたの名前を呼んじゃったって言ってるのよ」

 このときほど子どもに戻りたいと思ったことはなかった。海が言わんとしていることがわかってしまうことが厭でたまらなかった。しかし当然のことながら、置き忘れてきたのかどうかさえわからない子ども時代に戻れるはずもなく、かといって、わかってしまったことを「わからない」とうそぶくことができるほどの姑息さも、私は持ち合わせていなかった。
 まるでそんな私をあざ笑うかのように、海が笑みをこぼした。
「やっちゃった、って思ったわ。でも、不思議と落ち着いてもいたの。もっと言えば、重荷を下ろした感じね。だって私、旦那に抱かれてると思ったことなんて、これまで一度もなかったもの。いつも彼の向こうにあなたを見てた。彼と結婚しようと思ったのだって、雰囲気がなんとなくあなたに似てたからよ。彼と何をしていても、私はあなたのことを考えてた。これまではうまくごまかすことができていたのよ。おかげでずいぶんと演技力がついたわ。でも、ゆうべはどうしてか、ぽろっとこぼれちゃったの。しかもそのタイミングが悪すぎて、二人とも、変な体勢のまま硬直しちゃって」
「ウミ」
 まるで壊れたオルゴールのように、ともすればいつまでも喋り続けそうだった海を、私はたまらず遮った。それ以上は聞くに堪えないと、情けなくも心が悲鳴を上げていた。
「飲みすぎだ。もうそのくらいにしろ」
 私は海の前からグラスを取り上げようとした。ところがその手を海がしっかと押さえつけたので、振動でメスカルがグラスから飛び出し、二人の手を濡らした。
 海の手は冷たかった。
「酔ってなんかないわ。わかってるでしょう?」
 海がぐっと手に力を込める。振り解けない自分の不甲斐なさに嫌気が差した。
「逃げないで」
 そっと海の手が離れていっても、私はもうグラスを取り上げることはできなかった。元の場所に置き、濡れた手を剥がす。背もたれに深く身を沈め、徐に窓の外へと視線を投げた。つい今しがたまで紅を留めていたと思った部分にさえ、夜の帳が下りていた。

「どうしてこうなっちゃったのかしら、私たち」
 海の口調は先ほどまでとはまったく違っていた。
「いつかは私も、光や風と同じようにこっちの世界で暮らすことになるんだって、昔は信じてた。あなただって、それを望んでくれていたんでしょう? それなのに、どうしてこうなっちゃったの? 私たち、いったいどこで間違ったの?」
 頑丈な鉱石でできていたと思った砦が実は砂でできていたのだと知って愕然とする、そんな気持ちだった。海の言葉は、崩れた砦を簡単に飛び越えて私を真正面から打ちのめした。
 私たちはずっと、お互いに本心を隠したままかりそめの友人を、それこそ演じていた。いつまでも続くと思っていたわけではなかったが、こんなにもあっけなく終止符が打たれるとも思っていなかった。しかし人生とは往々にしてそのようなものかもしれない。どんなに頑なに守り続けたものであっても、壊れるのは一瞬だ。そして次の瞬間には、壊れた余韻に浸る時間すらないままに新しいことが始まっていく。

「あなたのせいよ」
 気がつくと海が目の前に立っていた。とても顔を上げることなどできず、私はただ、辛うじて視線だけを横に動かした。海は素足に真っ青なワンピースを着ていた。服の濃さと対照的に、肌の白さが際立つ。体の脇に無造作に下ろされた海の左の手の甲をメスカルが伝い、ほっそりとした指先で一度ためらってから地面に落ちた。
「忘れさせてよ」
 断末魔の叫びのように搾り出された声が、私の胸を容赦なく締めつける。
 私はゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げた。こうして間近で見ると、海の左の頬はまるで冬眠前のリスのそれのように膨れていた。炎症を起こしているのだろう、頬は薄紅色に染まっていたが、それ以外に彼女の頬が染まっている理由は何も見当たらなかった。海はあくまでも沈着冷静だった。惨酷なほどに。
 声はあんなに震えていたのに、海の目に涙はなかった。最後に彼女が泣くところを見たのはいつだったのか、もう思い出せない。

 その瞬間の私は、残念ながら何かに取り憑かれていたわけでもなければわれを見失っているわけでもなかった。だから海の腕をためらいなく引き寄せたのは紛れもなく私自身だったのだろう。くずおれた細い体を、唇で抱きとめる。初めて触れ合うというのに、二人の唇は、まるで何年も前から再会を待ちわびていた恋人たちであるかのように自然と絡まりあった。互いの舌を探り、ひた隠していた欲望を求め合う。鼻を抜けるメスカルの匂いに、冷えた手が熱を取り戻した。

***

 湯温はいつもよりだいぶ低くした。蛇口を目いっぱい開き、頭からシャワーを浴びる。排水溝へと吸い込まれていくそれを見ながら、この世でもっとも清廉なものは水の流れかもしれないとふと思った。水は重力のみに従順だ。人の力を加えて無理やりにその矛先を変えようとしても、するりと指のあいだを抜けていってしまうから自ずと限界がある。海が『水』の魔法に選ばれたのもわかる気がした。彼女はどんなに乱れても決して穢れはしない娘だった。

 私たちはどこで間違ったのか。海の問いかけに、私は答えることができなかった。そもそも間違ったのかどうかさえわからない。欲望を押し殺して歩んできたのは確かだが、それは決して「望まない人生」とイコールになることではない。すべては自らの手でそうすることを選び、その結果として今がある。仮に過去のいかなる刹那へ戻ってやり直すことができたとしても、結局は今と同じ結果を選んだように思う。

 海が「メスカルが飲みたい」と言ったのは、「私はあのときのことを忘れていない」という不文律の意思表示に違いなかった。昔、一度だけ海にメスカルを出してやったことがある。当時の彼女は異世界の基準と照らし合わせてもまだ酒を嗜んでいいとされている年齢には達していなかったが、たまたま私が舐めていたメスカルを見つけ、興味津々といった様子だった。ほんの舌先で私のグラスの縁についたメスカルを舐めただけだったが、あのときの海は今日以上の拒絶反応を示したものだった。そのとき、私は言ったのだ。「おまえがその酒を楽しめるようにでもなれば、毎夜の晩酌にも気兼ねせず誘えるのだがな」と。
「それって、私が毎晩ここにいてもいいってこと?」。まだ10代だった海は、つぶらな瞳を丸くして恐る恐るといった様子でそう訊ねてきた。私とて、彼女が何を期待しているのかわからないほど鈍感ではなかった。だから、あのとき首を縦に振った私は、すべて承知の上で彼女の問いを肯定したはずだった。だが、「約束」と呼ぶことさえ躊躇してしまうほどあいまいなその約束が果たされることはついぞなかった。彼女が堂々と酒を嗜むことができる年齢に達しても、私は一度も海を晩酌には誘わなかった。

 年の差、生きてきた世界の差、価値観の差。言い訳をしようと思えばいくらでもできた。だがそういったものは所詮表面上の理由でしかなく、結局のところ、私は恐れたのだ。私ごときのために海に自らの世界を捨てるという酷な決断を強いることを。
 彼女に対してはすでにその心に深い傷を負わせてしまったという負い目があった。その傷を補ってあまりあるほどの幸せを彼女に齎してやることができるのか、自信がなかった。怖気づいた私は、二人の関係をわざと宙ぶらりんに泳がせたまま放置する道を選んだ。そうしているうちに海の方がいつしか痺れを切らし、異世界で自らの幸せを模索してくれることを期待していた。果たしてそのとおりになった。しかしその後も海がこちらの世界との、もっと言えば私との交流を当然のように続けることを選んだのは、大いなる誤算だった。


 私はやおら蛇口をひねり、シャワーを止めた。髪の毛先に溜まった粒が床に落ちるたび、その音がやけに大きく湯殿に反響する。すべて流しきったはずなのに、息を吸うとまだ海の残り香を捉えることができた。漏れ出たため息は諦めか、それとも憂いか。わからぬまま湯殿を出る。濡れた体に直接バスローブを羽織って閨へ戻ると、ベッドの中で海がまだ寝息を立てていた。

 どんなに慎重を期してもスプリングは音を立てる。気だるい寝言のようなその音を適当にあしらいながら乗り上がれば、さすがにベッドは私の重みで大きく沈み込んだが、海が目覚める気配は爪の先ほどもなかった。
 柔らかな羽毛布団をそっと胸元まで引き上げてやる。彼女が何も身にまとっていないのは、果てて意識を手放してそのままだからだ。目の下にくまができている。何日も寝ていなかったのかもしれない。異世界での彼女の生活など想像もつかないが、もしも今このときに彼女が睡眠を必要としているのなら、その程度の望みをかなえてやることくらいはしたいと思う。
 横向きに眠っている海の頬にかかる長い髪をそっと避けてやれば、はっきりとわかるほどの腫れ上がりがある。私は最中に何度かその腫れを気にしたが、彼女は頑として首を縦に振らなかった。自然に消えるまではどうしても残しておきたいのだと、海は言った。証になるからだと。何の証だとは彼女は言わなかったし、私も訊かなかったが、おそらく私は答えを知っていると思う。哀しいほどに、正確に。

 海はただひたすらに私の名を呼んだ。耳たぶを甘く噛み、くっきりと浮かび上がる鎖骨をなぞり、たわわな双丘を揉みしだき、子どものようにその頂にむしゃぶりつき、濡れそぼる秘部に指を這わせ、あふれ出る蜜を吸い、見えぬ奥までをわが身で穿った、そのいかなるときも海は狂ったように私の名を呼び続けた。決して短くない付き合いの中で彼女に名を呼ばれたことは何十回、何百回とあれど、今宵ほど妖美な呼ばれ方をしたことは一度もなかった。私を呼ぶ海の声は、何にも勝る媚薬だった。

 今は海を捉えて離さない眠りが、今度は私をもいざなおうとしている。海の香りを抱きながら眠ることを理性が思い留まらせようとするが、その理性は心身を冒す強い疲労に勝るほど強くはなかった。宵闇の中でも薄ぼんやりと輝く海の細い髪を眺めた記憶を最後に、私は眠りに落ちていた。

***

 意識を取り戻したのは、鼻の頭に水滴が落ちてきたのを感じたからだ。しかし私は目を開けなかった。海のすすり泣く声が聞こえたからだ。その声があれば、私の鼻を濡らしたものが何であるのかということは考えるまでもなかった。
 海の手が私の髪を撫でる。狸寝入りというのはどうしてこうも難しいのだろう。何しろ自分が普段どういう寝方をしているのかまったくわからないのだ。寝息は立てているのか、寝返りは打つのか。もしかしたら相当寝相が悪いのかもしれない。しかしわざわざ寝返りを打てるほどの勇気はなかった。私はただ、呼吸を一定に保つことだけを意識して、されるがままになっていた。

 ひんやりとした海の手が、私の額に触れ、そこを覆う髪を避ける。露になったところに一転して温かいものが触れたときはさすがに全身が粟立った。しかし海は私の微細な変化には気づかなかったようだった。私の肩に海の髪がかかる。だがそれは一瞬のことで、額に触れた温もりとともにすぐに離れていった。ゆうべは猛々しい獣のような口づけばかりしていたのに、今の彼女の口づけは、まるで綿毛に留まる蝶のように儚かった。
「愛してるわ、クレフ」
 湿った声が言葉を紡ぐ。その後彼女は「さようなら」とも言ったように思ったが、それは私の幻聴かもしれなかった。

 海の手が離れていく。スプリングが軋む。静まり返った部屋にはうるさすぎるほどの足音は、迷うことなく扉へと向かう。扉が閉まり、足音がまったく聞こえなくなってから私はようやく目を開けた。閉ざされたベルベットのカーテンの隙間から入り込む光はじゅうぶんでなく、部屋の中はまだ薄暗かった。
 寝返りを打ち、がらんどうとしたベッドに仰向けになる。鼻はまだ濡れていた。指先で雫を掬い取り、舐めてみる。ゆうべ血に飢えた吸血鬼のように貪った蜜は信じられないほど甘かったのに、その涙は塩辛かった。

 700年を優に超える長い時を生きてきた。それはもちろん他の追随を赦さぬ途方もない時間だが、しかしそれを長いと感じたことは一度もなかった。それなのに今、生まれて初めて私は「長く生きすぎた」と感じていた。
 もう海はセフィーロへは来ないだろう。私の存在が海を縛ることもなく、彼女が異世界で選んだ伴侶の向こうに私を見ることもない。彼女の唇が私の名前を紡ぐことも、もう二度とないだろう。昨日までの彼女のすべては、彼女が流した一粒の涙に詰まっていた。そしてその一粒は、たった今私が飲み込んだ。

 私のすべてを奪い取ろうとする海の柔肉の感触が、目を閉じればすぐに思い描けるほどはっきりと残っている。その感触を夢にまで欲したこともあったのは事実で、望んだものが手に入ったはずなのに、悦びは皆無だった。それどころか、残されたのは癒えぬ渇きだった。私の心は水を失った湖のように干上がっていた。
 カーテンの隙間から射し込む光さえ眩しい。私は眉間に皺を寄せ、やっとの思いで持ち上げた腕を投げ出すように振るった。すると光という光が遮断され、部屋の中は瞬く間に漆黒の闇に沈んだ。
 明けない夜が私を包む。「愛している」という、無慈悲な残響とともに。
 こんな残響に囚われるのは、私一人でいい。




残響 完





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こういう作品がどの程度受け入れられるものなのか知りたいので、よろしければご協力くださいな。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

2014.03.15 up




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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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