蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

蒼穹の果てに 31. マツリカ

長編 『蒼穹の果てに』

もしかしたらクレフは、アスカのそのような心持に気がついていてあんな表情をしたのかもしれないと、今になってみれば思う。クレフとは、そういう人だ。

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 広げられた藁半紙はまっさらなままになっている。磨りたての墨が端の方からどんどん乾いてきていることに気づいても、アスカの手はなかなか思うように動かなかった。書き出そうとしてはやめ、今一度書き出そうとしてはまたやめる。そんなことをさんざん繰り返した挙句、アスカはついに諦めて筆を置いた。肩が落ちると同時に、湿ったため息が漏れる。するとそのとき、まるでアスカが筆を置くのを待っていたかのように目の前にティーカップが置かれた。
「セフィーロにおられるときくらい、ごゆるりとなさってはいかがですかな。アスカ様」
 茉莉花茶の香りとともに届いたのはあまりにも思いがけない言葉だった。アスカは顔を上げ、そばに立っているチャンアンをまじまじと見つめた。普段のチャンアンは二言目にはやれ勉強しろ、やれ皇族らしく振る舞えとばかりなのに、まさかそんな彼の口から「ゆっくりとしてはどうか」などという発言が聞かれるとは。いったいどういう風の吹き回しだろう。
 思わずぽかんとしたアスカを見て、チャンアンは声を立てて笑った。
「なにも金輪際勉強をするなと申しているのではございませぬ。セフィーロにおられるあいだは、と申したまでのことですぞ」
 まるで訝った心を読まれたかのような指摘に、ぐっと言葉に詰まる。照れくささからほんのりと染まった頬を見られるのが厭で、アスカは顔を逸らした。
「わかっておるわ」
 チャンアンの指摘はもっともだった。アスカ自身、いざ勉強をしようと書物と藁半紙を開いたはいいものの、まったく手についていなかった。だいたい、勉強をしようなどと考えたことが間違いだったのだ。普段どおりに、と自らに言い聞かせるつもりで選んだ行動だったが、そもそも「言い聞かせている」時点で普段どおりではなかった。

「それに、今は勉強よりも力を入れねばならぬ問題がありましょう」
 チャンアンが神妙に言った。その声色は、もはや先ほどまでのような軽やかさを含んではいなかった。
 アスカは顔を上げ、窓の向こうへと目を向けた。すっかり日は暮れ、この国のすべては深い闇に沈んでいる。部屋の中が静かになると、待ってましたとばかりに雨音が主役を張りたがった。
 しとしとと降り続く雨は、なかなかやみそうにない。セフィーロとのあいだに国交が樹立されて二年が経つが、この国が雨に濡れているところに遭遇するのは、これがまだ二度目か三度目のことだった。
「そうじゃな」
 呟くように答え、アスカは茉莉花茶を飲んだ。そのとき、部屋の扉が二度ノックされた。
「戻ってきたようじゃな」と言って、チャンアンがそちらへ向かう。
「ただいま戻りました」
 チャンアンが開けた扉の向こうに姿を見せたのは、出払っていたサンユンだった。アスカは椅子の背もたれに手をかけて振り向き、サンユンと目を合わせた。
「何かわかったことはあったかや」
 目ぼしい収穫がなかったことは、サンユンの表情を一目見た瞬間にわかってしまったが、あえてそう尋ねた。
 口を開きかけたサンユンは、けれど自分がまだ部屋の外にいることに気がついて一度その口を噤んだ。中へやってくると、サンユンはアスカの前まで来てそこで膝を折り、袖をつなげて律儀に敬礼をした。立ち上がったサンユンの表情は冴えない。その表情のままサンユンは力なくかぶりを振り、眉尻を下げた。
「残念ながら、手がかりと言えるようなものはなにも。中庭で子どもたちが遊んでいたので、彼らにも聞いてみましたが、ザズ殿に見覚えがあるという子はいませんでした」
「そうか」
 予想していた答えではあった。それでもやはり、実際言葉にして聞かされると気持ちの沈みを禁じえない。ザズはいったいどこへ消えてしまったのだろう。

 ザズの屈託のない笑顔を脳裏に思い描くことは、あまりにも容易かった。見た目年齢が近いせいか、彼とは妙に気が合うところがあった。優秀なメカニックである一方でオートザムでも指折りの酒豪だというところも面白くて、いつかそれぞれに酒を持ち寄って宴会をしようと約束したばかりだった。
「いったいどこへ行ってしまわれたのでしょうな」
 斜向かいの椅子に腰を下ろしながら、チャンアンが唸った。ちょうど、アスカとチャンアンの二人でサンユンを挟む形になる。
「世界中のどこにもおられないなどということが、ありましょうか」
 昼間大広間に皆が集った時点で、ザズがいる可能性のある場所はすでにセフィーロかファーレンのいずれかに限られていた。そこに誰もが一縷の望みを託していたが、その望みはあまりにもあっけなく潰えてしまった。いずれの国にもザズの気配を感じないと、導師クレフがあっという間に判別してしまったからだ。

 それにしても、とアスカは思う。大広間でのクレフの行動は、何度思い返しても驚嘆のため息を誘う。クレフを取り囲んだ『気』は、おいそれと近づくことすら赦さないような圧倒的な力で満ちていた。アスカも多少幻術を嗜む身だからわかる。あの力は並大抵の人間が及ぶ水準のものではない。もともとクレフについてはセフィーロで最高位の魔導師だということを聞かされてはいたが、それを身をもって知ったのが今日だった。クレフが魔法らしい魔法を使ったところを見るのは、アスカにとってはあれが初めてのことだった。
 クレフの力は圧倒的で、畏敬の念すら覚えるほどだった。けれどクレフのことを思い出すとき、決して険しい顔の彼が脳裏に浮かぶということはない。むしろ瞼の裏に浮かぶクレフはいつも柔らかくほほ笑んでいる。その表情は、あのときアスカの手から感じ取ったファーレンを見て「豊かな国だ」と言ってくれたときのそれだった。ファーレンは「豊かな国」と形容されることが多いが、ほかでもないクレフに言われると、誰に言われるよりも嬉しかった。

 まだ正式に帝位に就いているわけではないとはいえ、アスカはファーレンの元首だ。本来ならばあまり長く自国を留守にするというのは芳しいことではない。セフィーロの人々にも負担がかかる。そういったことを承知の上で、それでもなおアスカはしばらくセフィーロに滞在させてほしいと申し出た。幸いクレフもフェリオも、厭な顔ひとつせず了承してくれた。もっとも、クレフの方は一瞬何か含みを持たせた顔をしていたのではあったのだが。
 ザズの行方が気になってとても公務に精を出せるような状況ではないというのはもちろんある。けれどそれ以上に気がかりなことがあった。もしかしたらクレフは、アスカのそのような心持に気がついていてあんな表情をしたのかもしれないと、今になってみれば思う。クレフとは、そういう人だ。

「アスカ様」
 サンユンに呼ばれ、アスカはいつの間にか俯かせていた顔を上げた。なんじゃ、と目で問えば、サンユンは戸惑いと遠慮を多分に含んだ瞳を向けてきた。
「ファーレンにお戻りにならなくてよろしいのですか」
 タイミングがタイミングだったので、一瞬心の内を読まれたのかと目を瞠った。サンユンのみならずチャンアンも、アスカの答えをじっと待っている。本当のことを言うべきかどうか、ひどく迷った。けれどいざというときにこの二人の協力を得られないなどということになればかなり苦しいのは事実だった。アスカは心を決め、背筋を伸ばした。
「わらわは当分戻るつもりはない」
 思わず、といったようにチャンアンが身を乗り出す。けれど彼が何かを口にすることはなかった。摂政という手前、アスカの一見ファーレンをないがしろにしているとも捉えられかねない行動を咎めないわけにはいかないのだろうが、チャンアン自身、内心では苦悩しているに違いなかった。
「いつまで、とは決めておらぬ。ただ、少なくとも今回の騒動が収まるまでは、わらわはセフィーロにご厄介になるつもりじゃ」
「騒動とは、ザズ殿の行方が知れない件ですか?」とサンユンが訊ねた。
「もちろんそれもある。じゃが」
「オートザムがいつ攻め入ってくるとも限らない。そのときにセフィーロの力になりたいと、お考えなのですな」
 アスカを遮るようにして、チャンアンが後を続けた。きっぱりとしたその言い方に、サンユンがはっと息を呑む。アスカはちらりとサンユンを一瞥してから再びチャンアンに視線を戻し、神妙にうなずいた。
「セフィーロには確かに『魔法』がある。じゃがそれは、武力で勝るオートザムに対抗できるほどの力ではないとわらわは見ておる。魔法は百人力じゃが、強い力を使える者は限られておろう。それに、長く平和であったセフィーロには、そもそも戦に身を置いた経験のある者が少ない。仮にオートザムと戦になったとして、果たしてセフィーロが勝てるかどうか」

 オートザムがセフィーロへ攻め入ろうとしているのは、セフィーロという地が魅力的だからという理由はもちろんあるだろうが、セフィーロならば制圧できるとの公算が大きいためでもあるとアスカは考えていた。広大で豊かな土地という意味では、ファーレンもセフィーロに劣らない。にもかかわらずファーレンがオートザムの標的にならないのは、オートザムから遠いことに加え、しっかりとした武力を備えているからだ。
 皮肉なものだが、頻発する内戦のため、ファーレンの民は皆、最低限の戦の作法は心得ている。確かに科学力ではオートザムには遠く及ばないが、ファーレンには旧来よりの知恵によって組まれた術法がある。勝利という観点からでは五分五分だが、少なくとも、互角に渡り合えるだけの力はあるだろう。しかし、セフィーロは。

「『二十隻の戦艦を用意している』。ジェオ殿はそうおっしゃっておいででしたね」
 そう言って、サンユンは唇を噛んだ。彼の気持ちがよくわかって、アスカの胸も痛んだ。
 内乱だけでじゅうぶんなのだ。他国との戦など、アスカだって本当は、食指が動くことではない。けれどセフィーロに迫る危機を見て見ぬふりをすることはできない。
「しかし、あまり長いことアスカ様が戻られませんと、ファーレンの者たちが暴走を始めてしまう可能性もありますぞ」
 チャンアンが言った。アスカはフン、と鼻を鳴らした。
「そうなったらそのときじゃ。ファーレンは平和すぎる。内輪もめなどしているときではないというのに、そんなことにも気づけぬほど平和になってしまった。平和はもちろん良いことじゃが、それを当たり前と思うことは間違っておる。そのことに、一人ひとりが気づかなければ意味がない。今わらわが声を張り上げたところで、民の心には響かぬじゃろう」
 正直なところ、辟易し始めていたところだった。内乱の火種となるのはいずれも些細な衝突ばかりで、大半の内乱が痴話げんかの延長線上にあるようなものに過ぎない。そういった問題に頭を悩ませなければならないというのはある意味では贅沢な話なのだが、その贅沢さに、ファーレンの人々は気づいていない。故に内乱が起こる。まさに悪循環だった。
「ファーレンは安全じゃ。今は国外のことに集中したい」
 確かにチャンアンの言うとおり、君主不在の隙に民が暴走を始めるという可能性は無きにしも非ずだ。けれど万一そういったことが起きたとしてもそれは自らの力不足であり、誰に罪があることでもない。君主としての力をつけるためにも、ザズの件やオートザムの不穏な動きから目を離すわけにはいかないと、アスカは考えていた。

 つとチャンアンが無言のまま立ち上がった。ピンと糸を張ったような沈黙が、その場を漂う。アスカは円卓を離れていく翁の後姿を目で追った。
「チャンアン」
 怒っているのかと不安になった。思わず椅子から降りて呼び止めると、チャンアンは立ち止まり、きょとんとこちらを振り向いた。一時の間を置いて、彼はふっと笑った。
「茶のおかわりを淹れましょう」とチャンアンは言った。「アスカ様が正しいとお思いになることならば、信じて突き進みなされ」
 ふわりと装束を揺らし、チャンアンが給湯室へと消えていく。アスカは心に灯が燈ったかのような温もりを感じた。まるで、チャンアンのあの大きくて皺だらけの手が背中を押してくれているかのようだった。彼の言葉ほど痛いところを突くものはないが、同時に彼の言葉ほどアスカを安堵させるものもなかった。幼くして両親を亡くしたアスカにとって、チャンアンは側近である以上に大切な家族だった。

「私も、チャンアン様と同意見です」
 不意にサンユンの優しい声が背中を撫でた。
「アスカ様は素晴らしいお考えを持っておいでです。そのアスカ様がお決めになったことが間違っているはずはございません。私もチャンアン様も、最後まで全力でお支えします」
 微力ではありますが。そう言って、サンユンははにかんだ。アスカも自然と笑顔になる。アスカはすたすたと彼のところへ歩み寄り、戸惑うサンユンの両手をさっと取った。
「謙遜をするでないぞ、サンユン。そなたは微力などではない。そなたが――そなたやチャンアンがいてくれると思うから、わらわは頑張れるのじゃ。どれほどわらわの力となっておるか」
「そなたやチャンアン」と言い直したのは照れ隠しだった。本当は、アスカの心はずっと前から決まっている。サンユンが笑顔でいてくれたらアスカも笑顔になるし、逆にサンユンが哀しげな顔をしていれば、アスカも哀しい。
「わらわのそばを離れるな」
 アスカは強くサンユンの手を握った。サンユンがはっと息を呑んだが、アスカは気づかなかったふりをしてほほ笑んだ。気持ちがいつになく昂っていた。
「ずっとじゃ」
「アスカ様、そんな」
 サンユンが慌てて引き離れようとする。アスカは手に強く力を込めてそれを制した。サンユンが身じろぐ。アスカはその瞳をじっと見つめ、答えを求めた。この言葉に込めた意味を、おまえならわかっておるじゃろう。声には出さず、視線にそんな意図を含めた。言葉の意図だけではなく、アスカの気持ちも、サンユンはわかっているはずだと思っていた。

 やがてサンユンは、赤らんだ頬を隠すかのように俯いた。無理やり彼が離れることはないとわかって、アスカは手を緩めた。するとサンユンはそっと自らの手を抜き、その場で膝を追った。
「私はアスカ様にお仕えする身です。アスカ様がお行きになるところ、どこへでもついていきます」
 それは必ずしもアスカが求めていた答えではなかった。それでもアスカは、サンユンが自分の言葉を否定しなかったということだけで満足だった。頬に笑みが広がっていく。「ありがとうなのじゃ、サンユン」とアスカは言った。サンユンが隣にいてくれるのなら無限に強くなれると思った。

「茉莉花茶が入りましたぞ」
 不意にチャンアンの声がした。小ぶりな盆を手に、チャンアンが円卓へと向かってくる。その雰囲気から、なんとなく彼が自分たちの会話を聞いていたような気がして、面映ゆくなった。けれどすぐに、恥じ入ることなど何もないのだと思い直す。遠くない未来、サンユンには、自分の一歩後ろではなく隣に立っていてほしい。その気持ちに偽りは微塵もない。
 アスカは笑顔で円卓へと向かった。
「桃まんじゅうはないのかや。何はなくとも、わらわにはあれが必要じゃ」
「アスカ様」
 呆れたようにチャンアンが言う。「冗談じゃ」と舌を出し、アスカは円卓についた。淹れたての茉莉花茶が身に沁みる。いつの間にか、雨の音が聞こえなくなっていた。




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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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