蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

蒼穹の果てに 35. 禁じられた遊び

長編 『蒼穹の果てに』

クレフに真っすぐ見つめられて、プレセアは急に鼓動が速くなるのを感じた。面と向かってこれほどきっぱりと「美しい」と言われたのは、これが初めてのことだった。

本文は「続きを読む」からどうぞ。





 プレセアの師匠、つまり先代の最高位の『創師』の口癖は「思い立ったが吉日」で、そのとおり気まぐれに行動するものだから、周囲からは変人扱いされていた。彼のたった一人の教え子であったプレセアは、日常茶飯事その「気まぐれ」の被害者になっていた。その都度口を酸っぱくして「頼むから予定どおりに動いてくれ」と言うようにはしていたが、実のところプレセアは、師匠の気まぐれに振り回されるのはさほど嫌いではなかった。

 そんな人だから、「最高位をおまえに譲る」と言い出したのも突然だった。もちろん驚きはしたけれど、プレセアの中に「断る」という選択肢はなかった。むしろ飛び上がりそうなほど嬉しかった。めったなことでは褒めない師匠が、プレセアのことをようやく一人前と認めてくれたのだから。二つ返事で了承したプレセアに向かって師匠が見せた笑顔は、それまでで一番和やかだった。まるで肩の荷を下ろしたかのような師匠の表情に、最高位の創師として長いあいだ君臨し続けることの重圧のようなものを、プレセアはそのとき初めて感じ取ったのだった。
 師匠は確かに気まぐれではあったが、一度言ったことは決して曲げない芯の強い人でもあった。行動に移すのもすこぶる早い。だから「最高位を譲る」と言った翌日には、プレセアがクレフに初めて目通りする手はずを整えていた。さすがにこの予定ばかりは、直前になって急に変更されるようなことにはならなかった。


 この世界最高の魔導師として音には聞いていたが、直接導師クレフに会うのはこの目通りのときが初めてだった。創師だろうが剣闘師だろうが、最高位を拝命する者は必ず導師クレフのもとを訪れることになっている。たとえ師匠が「譲る」と言っても、導師クレフの「洗礼」を受けなければ最高位とは認められない。仮にクレフがその器にふさわしくないと判断したら最高位とは認められないことも考えられるのだが、それでもプレセアは、持ち前の度胸を発揮して「何とかなるだろう」とどっしり構えてそのときを待っていた。師匠が「譲る」と言ったからには、自分が『創師』の最高位を「拝命しない」という結果はあり得ない。驚くほどきっぱりと、プレセアはそう確信していた。

「プレセア。少し落ち着かんか」
 長いことその後ろを追いかけてきた師匠が、忙しなく動くプレセアに向かってぴしゃりと言った。
 プレセアが弟子入りした当時はまだ焦げ茶色だった髪も、今はすっかり色が抜けて白銀となっている。同じ色の顎鬚が、「老師」という言葉を当てはめるにふさわしい威厳を放っていた。かつては見上げなければ合わせることのできなかった視線も、今ではほとんど同じ高さにある。もっともそれは、プレセアの背丈が伸びたことの方により大きく起因しているのではあるのだけれど。
「それは無理な相談よ、お師匠さま。こんなにすてきなお品物を見て、黙ってなんていられるものですか」
 この「玉座の間」に通されてから、プレセアは片時も腰を落ち着けていることがなかった。赦された者しか立つことのできない神聖な場である玉座に上がることはさすがに憚られたが、それ以外の場所には足を向けるなと言う方が無理な話だった。この広間は、プレセアにとっては宝箱も同然だった。

 入ってきた瞬間から、この「玉座の間」を彩るすべてのものがプレセアを虜にした。『創師』である手前、プレセアは人が「創った」ものに強い興味を抱く習性がある。この広間にあるものはことごとくプレセアの探究心を刺激した。天井へと真っすぐに伸びる柱一本を取っても、それが並大抵の『意志の力』で創られたものでないことは一目瞭然だった。施された装飾の気品の良さに、プレセアはこの城を支えているまだ見ぬエメロード姫の『心』はきっと清らかなのだろうと思った。
「それに、約束の時間はとっくに過ぎているのよ、お師匠さま。いくら偉い人だからって、来客を待たせるなんて非常識だわ」
「プレセア!」
 玉座から一歩離れたところで跪いている老師が、珍しく声を荒げた。プレセアはびっくりして振り返り、咄嗟に肩を竦めて見せた。老師の目がそれほど鋭い怒りを湛えているのを見るのは覚えがないほど久しぶりのことで、プレセアはばつの悪さにすぐに彼から顔を逸らした。

 ふと見ると、玉座の脇に、調度品がいくつか並べられている棚があった。この広間の主は導師クレフだというから、棚の上に並んでいるものは彼が使うものなのかもしれない。どれもこれも上品な華やかさを持った品々ばかりだった。中でも、青と紫の宝玉がシンプルながらも豪華にあしらわれた手鏡が目を引いた。覗き込むと、ウェーブがかった髪を短く刈り上げた女の姿が映り込んだ。それがほかでもない自分自身だとわかると、プレセアはわれ知らず眉を潜めた。

 調度品をもっとよく見ようと身を乗り出しかけたとき、カツカツと速い足音が聞こえてきた。老師が慌ててプレセアを呼び寄せる。どうやらこれは導師クレフの足音らしい。もっと調度品を見ていたかったけれど、プレセアは後ろ髪を引かれる思いでしぶしぶながらも棚を離れ、老師の横で跪いた。教えられたとおりに深くこうべを垂れる。その体勢では、どんなに上目遣いをしても玉座の足元しか見えなかった。
 足音は思ったよりも早いスピードで近づいてきた。その歩き方だけでは「導師クレフ」という人がどういう人なのか想像することはできない。彼について悪い噂は聞かないが、約束の時間に遅れているというだけで、プレセアの中での印象はすでに芳しいものではなくなっていた。

「すまない、待たせたな」
 落ち着き払った声は、響いた途端広間全体に漂う空気を一変させた。それは、たとえばたるんでいた糸が一瞬にしてぴんと張り詰めるほどに劇的な変化だった。プレセアは素直に驚きを覚えた。たった一人の人間の「言葉」に、これほどがらりと大気を変える力があるとは。
「とんでもありません、導師クレフ。お忙しいところ、お時間頂戴いたしまして、恐悦至極に存じたてまつります」
 そう言って、老師が深々と頭を下げた。その老師の言葉と態度にも、プレセアはまた驚いた。常に落ち着き払い、心の揺らぎなど微塵も見せたことのない師匠が、明らかにそうとわかるほど緊張しているのだ。
 普通の人間にはわからないかもしれないが、老師とはこれまで親子も同然に過ごしてきたプレセアに言わせれば、今の老師の態度は普段とは全然違った。プレセアはちらりと横目に老師を見た。心なしか、顎髭が小刻みに揺れているように見えた。
 老師の心をこれほどまでに揺さぶる人。「導師クレフ」とはいったいどういう人なのだろう。プレセアは俄然好奇心を抱き、上目遣いに玉座の方へ視線を向けた。足元しか見えないけれど、そこには確かに一人の人間が立っていた。白いブーツに白いローブ。手にした杖の先も見える。位の高い人間であるということは、その身に着けている衣服の端を見ただけでもすぐにわかった。

「そう硬いことを言うな。面(おもて)を上げよ」
 クレフは柔らかい口調でそう言った。老師が「は」と短く返事をして顔を上げる。プレセアはといえば、その隣で下を向いたまま懸命に耐えていた。「指示があるまでは決して顔を上げてはならない」。この城までの道すがら、老師から耳に胼胝ができるほど何度もそう言い聞かされていた。今の「面を上げよ」というのは明らかに老師に向かって放たれた言葉だったので、プレセアが顔を上げるわけにはいかなかったのだ。
「して、その者が?」
「はい、わが一番弟子にございます。本日は、この者が新たに『創師』の最高位を拝命することをお認めいただきたく、参上つかまつりました」
 ふむ、とクレフは言った。そしてすかさず、
「面を上げよ」
 ときっぱり告げた。
 言われるが早いか、プレセアはぱっと顔を上げた。精いっぱいゆっくりとした動作にしたつもりだったけれど、一刻も早くこの目でクレフの姿を見たいという好奇心の方が勝ったことは、自分でもわかっていた。
「――え?」
 けれどいざ玉座を見上げたプレセアは、思わず絶句した。そこに立っていたのは、年端もいかぬ少年だったのだ。

「ほう、これは……」
 少年はきらりと興味深そうに目を光らせた。その圧倒的な存在感を放つ佇まいに、プレセアは言葉を失った。さんざん練習させられた目通りの挨拶も、一瞬で頭から吹き飛んだ。こんな話は聞いていない。導師クレフが、まさか少年の姿をしているなんて。
 クレフには何度も会っているであろう老師でさえも、そのことは教えてくれなかった。そのためプレセアは、まさかここにいるのは導師クレフの召使いか誰かなのではないかと訝った。けれど交わった視線は彼こそが「導師クレフ」にほかならないことを証明していた。その澄んだ蒼い瞳は、これまでプレセアが会ったことのある誰よりも強い『意志』を湛えていた。
「そなた、名はなんという?」
 穏やかな笑顔で問われて、プレセアははっとわれに返った。とても艶やかに笑う人だと思った。
「プレセア、と申します」
 言って、静かに頭を下げる。そしてもう一度顔を上げると、クレフはプレセアではなく老師を見ていた。視線がぶつからなかったことに、プレセアは少しがっかりした。

 プレセアの中ではクレフに対する信頼が着実に築かれ始めていた。この人は信頼の置ける人だと、何の根拠もなく思った。けれどそれも、クレフが老師に向かって放った次の言葉で脆くも崩れ去った。
「本当にいいのか、創師よ。正直、私は気がかりだ」
 やっぱり、この人もそうなのか。プレセアは下を向いたまま、きゅっと唇を噛んだ。たとえ『導師』であっても、所詮は男。クレフもその辺の「力ある男」たちと変わらぬことを言う。築かれつつあった信頼が深いものであっただけに、突き落とされたときの落胆も激しいものがあった。

「ご心配には及びません、導師。プレセアは、ご覧のとおり大変男勝りで――」
「何が気がかりなんですか?」
 老師の言葉を遮り、プレセアは言った。どんなに冷静にと心掛けても、語尾の震えは隠せていなかった。昂る気持ちを抑えるすべがわからない。プレセアは握った拳の内側に爪が刺さる痛みも忘れ、鋭い視線をクレフに投げつけた。
 クレフは目を見開いてプレセアを見た。向けられたその視線を撥ね退けるつもりで、プレセアはしゃんと背筋を伸ばした。
「私が女だからですか? 女は『創師』の最高位にはなれないとでも?」
 自分で言った言葉のばかばかしさに嫌気が差して、プレセアは思わず嘲笑した。
「私はこれまで、たくさんの修行を積んできました。『創師』としての力では誰にも負けないと自信を持って言えます。だからこそ今日、師匠もこうして私をあなたに目通りさせてくれたのです。それなのに、あなたは私の力も知らないで、女だからというだけの理由で、そうやって『気がかりだ』と決めつけるのですか?」
「口を慎め、プレセア! 誰の御前だと心得る」
 老師に強く腕を引かれ、プレセアはよろめいた。それでも視線はクレフを捉えたままだった。

 プレセアを今の地位にまで押し上げたのは「悔しさ」だと言っても過言ではない。
 創師の仕事に魅せられ、老師のもとに弟子入りしてから50年以上の月日が流れた。その間、「女の力でできるのか」「女に務まる仕事ではない」「女のくせに武器を作るなど」と、心無い言葉をいったいどれほど浴びせられてきたことだろう。最初はそんな言葉にいちいち傷つき涙することもあった。けれど次第に、その涙をばねにして自らの力とすることを覚えた。いつか、「女だから」というだけで見下した男たちの鼻をあかしてやる。その一心で、プレセアは日々研鑽に励んだ。よい武器を創るためには自らもよい剣士でなければならないと思い、武器を「創る」ことだけではなく「扱う」ことにも精を出した。その甲斐あって、今では剣術の方も剣闘師と互角に渡り合えるほどにまで成熟した。そして今日、満を持して『創師』の最高位を師より継ごうとしている。
 プレセアの実力は自他ともに認めるものとなったが、それでも依然として「女のくせに」という目は消えていない。髪を短く刈り上げたのも、「女」として見られる原因を少しでも減らしたいと思ったからだ。「女」だとか「男」だとか、そういう前に一人の『創師』として自分を見てほしい。その気概が、いつもプレセアの背中を押していた。

 自分を「女」としてしか見ない男は容赦しない。そんな強い気持ちがプレセアの中にあるのは、過去の経験に裏打ちされてのことだった。その気持ちは、たとえ相手がこのセフィーロで最高位の魔導師であっても変わらない。
「お赦しください、導師。プレセアには後できつく言って聞かせますので」
 懇願する老師を、プレセアは遮ろうとした。「どうして謝るの」と。けれどその言葉が発せられることはなかった。ほかでもないクレフが、老師に向かってすっと掌を見せて彼を遮ったからだ。
 その行動の意図がつかめず、プレセアは顔を顰めた。じっと見上げたクレフの瞳からは、彼が何を考えているのかまでは読み取れなかった。
 クレフは老師が口を噤んだのを確認すると、上げていた手を静かに下ろした。そしてプレセアに向かって優しげにほほ笑んだ。
「今のは私が言葉足らずだった。そなたの気分を害したのならば、謝ろう」
 それは思いがけない言葉だった。プレセアは困惑してクレフを見つめた。こうしてプレセアが歯向かったときに謝罪の言葉を口にする男は、少なくともこれまでには一人もいなかった。
 そんなプレセアの困惑を読み取ったのか、クレフは「わかっている」と言うかのようにうなずいた。
「私が『気がかりだ』と言ったのは、そなたの能力を軽んじたからではない。そなたが『創師』の最高位を継ぐにふさわしい『心』の持ち主であることは、そなたの目を見ればわかる。私が気にかけているのは、そなたの美しさだ」
「え?」
 プレセアは瞠目した。まさかからかわれているのかと訝ったが、クレフの瞳はあくまでも真剣だった。その真剣なまなざしのまま、クレフは続けた。
「そなたは美しい。その美しさ故、不貞を働かんとする者が現れかねんのではないかと、私は危惧しているのだ。『創師』の最高位ともなれば、必然的に人前に出る機会も増えるからな」

 クレフに真っすぐ見つめられて、プレセアは急に鼓動が速くなるのを感じた。面と向かってこれほどきっぱりと「美しい」と言われたのは、これが初めてのことだった。
 これまでは、「美しい」という言葉を耳にしようものならば問答無用で強い反感を抱いてきた。「美しい」ということは、すなわちプレセアのことを「創師」である前に「女」として見ているからにほかならないことを意味するからだ。けれどどうしてか、クレフに「美しい」と言われることは全然嫌ではなかった。それどころか――嬉しかった。

「どうだろう。そなたの家を、『沈黙の森』に構えるというのは」
 声のトーンを少し上げて、クレフが言った。
「『沈黙の森』?」とプレセアは鸚鵡返しにした。
「そうだ。あの森では魔法は使えん。本当に武器を創ってもらいたい人間でなければ、おいそれと立ち入ったりはすまい。それに、そなたは剣術を心得ているだろう。そなたほどの腕があれば、あの森でもじゅうぶんにやっていける。家に私の魔法を施した鍵を取り付ければ、結界代わりにもなるだろう」
 今日は驚いてばかりだ、とプレセアは思った。クレフは、プレセアが剣術を心得ていることもいつの間にかあっさりと見抜いている。
「もったいなきお言葉にございます、導師クレフ」と老師が頭を下げた。「それならば、私も安心してプレセアに後を引き継ぐことができましょう」
 細かい皺が寄った老師の目尻に涙が滲んでいるのを見て、胸がちくりと痛んだ。この男を師と仰ぐのも、今日が最後なのだ。いまさらその事実を目の前に突きつけられたような気がして、切なかった。

「プレセア」
 呼ばれて顔を上げると、クレフが凛とした表情でこちらを見ていた。その表情を見ただけで、プレセアはすぐに諒解した。一歩前へ出、クレフの立つ玉座の目の前で再び跪く。間髪容れず、頭上にすっとクレフの手が翳されるのを感じた。
「――」
 プレセアにはわからない言葉で、クレフが呪文を唱える。カッと目映い光が一瞬目を焼いた。どこからともなく巻き起こったつむじ風がプレセアを包む。やがて風が収まると、プレセアは額にわずかな圧迫感を感じた。その重みが、最高位を拝命した人間に与えられるサークレットによるものであると、何を見なくても理解できた。

***

 その日の夜、プレセアは老師とともに暮らしている家のリビングで一人物思いに耽っていた。外では静かに雨が降り始め、落ちてくる雫の重みに耐えられなくなった木の葉が、ししおどしのように時折葉先を跳ね上げていた。
 格子窓に、燃える暖炉の炎とその炎に照らされたプレセア自身の横顔が映っている。男のように短く刈られた髪の先端が、炎に照らされて透き通るように輝いた。

『そなたは美しい』
 昼間クレフに言われた言葉が、今でも耳の奥に残っている。クレフが何のためらいもなくプレセアに向かって「美しい」と言うことができたのは、クレフ自身に邪念がこれっぽっちもないからだろう。クレフはプレセアのことを「女」としては見ていない。だからこそ、あれほど客観的な視点に立って物事を喋ることができるのだ。
 喜ぶべきことのはずだった。これまでプレセアは、ずっと「女」として見られたくないと願ってきた。その『願い』が、ほとんど初めてのようにかなえられたのだ。本来ならば手放しに喜ぶべきところだ。にもかかわらず、プレセアの心は複雑だった。そしてそんな自分自身の心に戸惑いを覚えていた。
 あの少年の姿をした魔導師は、誰かを「女」として見ることがあるのだろうか。
 「少年」と言って、プレセアはその表現に強い違和感を覚えた。確かにクレフの見た目は10歳前後の少年と大差ない。けれど彼の放つ気配、向けるまなざし――そういったもののすべては、とても「少年」という表現を当てはめられるものではなかった。
 今となっては、なぜ老師をはじめ、誰一人としてクレフが少年の姿をしていると指摘しなかったのかうなずける。彼は「少年ではない」のだ。

 窓に映った真新しいサークレットがきらりと光った。その上にかかる前髪をそっと掬う。掬った途端、その毛はするりと手からこぼれ落ちた。
「髪……伸ばしてみようかしら」
 言った瞬間、顔の温度がぐんと上がった。なんだかとんでもないことを口走ったような気がして、プレセアは窓に映り込んだ自分自身から目を逸らした。

「できたぞ、プレセア」
 声をかけられてはっとわれに返る。「はあい」と生返事をすると、プレセアは腰掛けていた窓際のソファから離れて暖炉のそばにあるテーブルについた。老師が二人分の食事を運んでくる。今夜のメニューはプレセアが大好きなシチューだった。老師の作るシチューはこの世で一番おいしい食べ物だと、プレセアは本気で思っている。
「いただきます」
 向かい合って座り、プレセアは手を合わせた。こうして老師と食事をするのも最後だと思うと、一抹の淋しさが心を過った。早速明日には『沈黙の森』に新しい家を構えることになっていた。
「おいしいわ」
 プレセアはかみしめるように言った。老師が嬉しそうに目を細める。そうやって笑う老師を、プレセアはこれまで本当の父のように慕ってきた。幼い頃に両親を亡くしたプレセアを『創師』の世界へ導いてくれたのは、この老師だった。老師の創るもの一つひとつの美しさに魅せられ、「自分もこういうものを創れるようになりたい」と強く思ったのだった。

「ねえ、お師匠さま」
「ん」
「導師クレフって、どんな人なの?」
 スプーンを持った老師の手が、一瞬止まった。プレセアはなぜかどきりとして、そんな自分自身の反応をごまかすように慌ててシチューを口に運んだ。
 しばらくして、老師の手がまた動き始めた。
「見たとおりの御人だ。強く、気高く、そして美しい。そこにいるだけで人望を集めてしまう、そんな御人だよ」
「……そう」
 老師の言葉に否定できるところはこれっぽっちもなかった。中でも「そこにいるだけで人望を集めてしまう」というのは言い得て妙だ。クレフのあの真っすぐで穢れのない瞳に見つめられたら、誰だって彼を信用してしまうだろう。
「プレセア」
 不意に老師が、こちらを見ないまま口を開いた。
「導師クレフを、よくお支えしていくことだ。創師として、また人としても、あの方から学ぶことは多い」
「はい」
 間を置かずにプレセアは答えた。言われなくてもそうするつもりでいた。「導師クレフ」という人のことを、もっとよく知りたかった。
「だが」
 それでこの話題は終わるはずだった。けれど老子が急に声のトーンを落としてそう続けたので、プレセアは思わず手を止めて彼を見上げた。
 老師は表情ひとつ変えず、静かにシチューを食べ続けている。そして咀嚼の合間を縫うようにして、
「惚れてはならんぞ」
 と言った。
「え?」
「あの方に、惚れてはならん」

 どくん、と鼓動が高鳴り、思わずスプーンを落としそうになった。すんでのところで止めたものの、シチューの入ったボウルとスプーンがぶつかり合って派手な音を立てた。
 気づいていないはずはないのに、老師はその音にはぴくりとも反応しなかった。その無反応さが、プレセアには不気味だった。
「よいな、プレセア。導師クレフには、決して慕情を抱くな。あの方は、そなたの手に負えるような方ではない」
 有無を言わせない言い方だった。
「……はい」
 そうやって返事をしたのが本当に自分自身だったのか、プレセアにはわからなかった。降り続ける雨の音が、無性にプレセアの心をかき乱した。その乱れから少しでも意識を逸らそうと、プレセアは一生懸命にシチューを食べた。せっかくの最後のシチューだったのに、よく味わうことができないまま終わってしまった。そのことは、後生心残りとしてプレセアの心にわだかまることになった。




web拍手 by FC2

コメント

コメントを投稿


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

TB*URL

PrevEntry |  to Blog Top  | NextEntry
What's new?
ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

▶ 連作短編集を始めました。クレ海学生パラレルです。今後年中行事に合わせて不定期更新の予定です。詳しくはこちらからどうぞ。

▶ こちらは作品展示専用です。コメントへのお返事は別ブログにて行っております。
カテゴリー
最新記事
月別アーカイブ
全記事表示
Counter
プロフィール

篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

このブログは作品展示専用です。
いただいたコメントへのお返事は別ブログにて行っております。
どうぞお気軽にコメントお寄せくださいませ^^

 

Copyright ©蒼穹楼. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha. Photo by sozai-free 2000px.