蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

夢のあとさき ゴールデンウィーク(後篇)

連作短編集 『夢のあとさき』

やがて私は、口を閉ざし、俯いた。答えられなかった。そしてそれがすべてだった。私は、「答えられなかった」。

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 三階席まであるホールは超満員だった。私たちの席は二階の最前列の真ん中という、そのホールでバレエを鑑賞するなら特等席と言って差し支えない場所だった。二つだけぽっかりと空いていたその席へ向かって、すでに着席していた人たちの前を恐縮しながら掻き分けていく。席について何気なく周囲を見回した私は、二つ隣の席にいるのが有名な日本人バレエダンサーだということに気がついて思わず目を瞠った。
 バレエに詳しくない人のあいだでも名が知れているそのダンサーは、今でこそ全国展開のバレエ教室を運営する実業家だが、現役のときは日本人として初めてロイヤル・バレエ団のプリンシパルを務めたこともある実力者だ。なるほど、貴賓席とは本来こういう人が座る席なのか。改めて自分の座っている席の希少価値の高さに驚かされるとともに、何よりも、こんな席のチケットを手に入れることができるクレフの人脈に舌を巻いた。彼は「知り合いからもらった」と言っていたけれど、いったいどんな知り合いがいるのだろう。

「間に合ったようだな」
 私の右隣に座ったクレフは、椅子に身を沈めるとふうと一つ息をついた。その横顔をじっと見ていると、視線に気がついたクレフがきょとんとして振り向いた。ううん、と私はかぶりを振り、小さく肩を竦めてみせた。
「結局来るつもりだったのねって思っただけよ。このあいだは、あんなにそっけなかったのに」
 てっきりクレフは来ないのだとばかり思っていた。何しろ、彼のものだったチケットは私はもらってしまったのだから。先輩のことで気が気ではなく、今の今まで考えてもみなかったけれど、このホールの前でクレフに会ったという事実は、もっと驚いてもいいはずのことだった。
「私とて、来るつもりではなかったのだ。だが、どうしてもと言われてな」
 そう言うと、クレフはジャケットの内側から一枚のチケットを取り出した。SS席のチケットだった。私に遇わなければ、クレフはその席に座る予定だったのか。
「言われたって、誰に?」
 その疑問に答えが返ってくることはなかった。クレフが口を開こうとしたそのタイミングで、公演開始を告げるブザーが鳴り響いたからだ。

 われ知らず背筋が伸びた。ホール内の照明が少しずつ落ち、舞台に下りているベルベットの幕を照らす明かりが際立ち始める。そうなってようやく、これからロイヤル・バレエ団の公演を観るのだという実感が湧いてきた。国内のバレエ団の公演であればこれまでも何度も観たことがあるけれど、ロイヤル・バレエ団のように、世界でも有数の名門とされている劇団の公演を観るのはこれが初めてのことだった。一気に高まる気持ちに、私はごくりと唾を飲んだ。
 ブザーが止む。開演を告げるアナウンスの後、厳かに幕が開いた。

***

 その日上演された『白鳥の湖』は限りなく原典に近いもので、悲劇のエンディングだった。演出家によってはハッピーエンドで終わらせるものもあるが、オリジナルの結末は、オデット姫の呪いは解けることなくそれに絶望した王子ともども死を選ぶというものだ。そして今日上演されたものも、そのとおりの結末だった。オデット姫と王子がともに倒れ込み、幕が下りた瞬間、割れんばかりの拍手と歓声がホールを包んだ。
「ブラボー!」
 どこからともなくそんな声が上がる。一人、また一人と立ち上がり、瞬く間にスタンディングオベーションとなった。私ももちろん立ち上がり、幕が下りたままの舞台へ向かって惜しみない拍手を送った。感動に打ち震えるという感覚を味わうのは生まれて初めてのことだった。興奮が体の中を駆け巡る。今の気持ちを言い表す適当な言葉を、私は思いつくことができなかった。
 しばらくすると、再び幕がゆっくりと上がり始めた。勢ぞろいしたバレリーナたちが満面の笑みで拍手に応える。すると拍手の音も一段と大きくなり、観客からバレリーナへのねぎらいはいつまでも続いた。この感動の瞬間に立ち会えたことに、私は心から感謝した。


「本当に素晴らしかったわ。特にこの、オデット姫。オディールを演じているときと、まるで別人だったじゃない?」
 席を立ってからも私の興奮は冷めやらず、途中の休憩で購入したパンフレットを片手に熱弁を繰り広げていた。
「すごいのね、彼女。ロイヤル・バレエ団で最年少のプリンシパルですって。まだ19歳よ? 私と三つしか違わないなんて、信じられない」
 主役を演じるプリンシパルは当然ながらパンフレットの中でも別格扱いで、彼女だけのために見開き1ページが裂かれていた。右半分にはオデット姫の衣装をまとった彼女が、そして左半分にはオディールの衣装をまとった彼女が映っている。同一人物のはずなのに、表情から指先の使い方に至るまで、まるで別人のようだった。
 その見開きページの見出しには、こう書かれていた。

『100年に一人の逸材が演じる、最高に誇り高いオデットと、最高に狡猾なオディール。』

 それは誇張表現でもなんでもなかった。彼女が演じたオデットは最高に誇り高く、そしてオディールは最高に狡猾だった。もちろん、褒め言葉だ。
「『白鳥の湖』は何度も観てきたけど、こんなに感動したのは初めてよ。やっぱりロイヤル・バレエ団ってすごいのね。脇役までみんなレベルが高くて、ひとつの作品として見入っちゃった。それに――」
 ふと私は言葉を止めた。気のせいか、隣を歩くクレフから笑い声が聞こえてきたような気がしたからだ。果たして気のせいではなかった。見ればクレフは、口元に手を当てて肩を上下させながら笑っていた。まるで、爆笑したいのを必死で堪えているような笑い方だった。
「な……なによ。そんなにおかしいこと言った? 私」
「いや」とクレフはすぐにかぶりを振った。ただ、顔は綻んだままだった。「チケットを渡したかいがあったと思ってな」
 私は思わず目を丸くした。そして何だか急に恥ずかしくなって、クレフから視線を逸らした。そうすると、それまではこれっぽっちも気にならなかったのに、今にも肩と肩が触れ合いそうなクレフとのあいだの距離がいまさらになって落ち着かなかった。
 たくさんの人の流れが、一つの出口を目指して連なっている。今しがた終わったばかりの公演に対する賛辞があちらこちらから聞かれ、気圧されるほど賑やかだった。自分たちはこんな喧騒の中にいたのだ。そんなことにさえ気がつかないほど、私は自分の感想を述べるのに夢中になっていた。

 私はパンフレットを胸に抱いた。そしてクレフの方を見ないまま、
「ありがと」
 と言った。
「え?」
「だから、ありがと。今日」
 たくさんのことに対する「ありがとう」だった。今日のチケットをくれたこと、隣で一緒に観てくれたこと、そして何より、迷っていた私を強引に引っ張ってくれたこと。もしもあのときクレフが私を見つけてくれなければ、こんな感動を味わえることはなかった。
 不意にクレフが、「うーん」と唸り声を上げた。見ればクレフは顎に手を当て、眉間に皺を寄せて何やら気難しい顔をしていた。どうしたの? とその顔を覗き込むと、クレフはまた「あー」と唸った。
「思い出せないのだ」
「何が?」
「言葉だ」
「言葉?」
「あっただろう、こういうときに言うべきふさわしい日本語が。何だったか……『どうしようもない』ではなく、『どうどうめぐり』でもなく……」
「……もしかして、『どういたしまして』のこと?」
「それだ」とクレフは指を鳴らした。「『どういたしまして』」
 私はきょとんと瞬いた。一瞬の沈黙の後、クレフがばつの悪そうな顔をした。それを見て、私は我慢できずに吹き出した。
「『どうどうめぐり』はよかったわね」
「うるさい」
 ふい、とクレフが顔を逸らす。私はますます笑った。
 こんなやり取りを、数か月前までは毎日のようにしていたものだった。今では信じられないことだけれど、当時のクレフの日本語は本当に目も当てられないほどひどかったのだ。今のようにふとした一言が出てこないことなどしょっちゅうで、いざ言葉が出てきてもまったく使い方を間違っていたりするから、会話がちんぷんかんぷんになってしまうこともあった。

 急に懐かしくなって、そして切なくなった。クレフと出逢ったのはついこのあいだのことのような気がするのに、月日は着実に流れていて、気がつけばもう半年以上の時間を一緒に過ごしていることになる。でも驚いたことに、私はクレフのことをほとんど何も知らないのだった。イギリスではどんな学生生活を送っていたのか、クレフ自身はバレエと関わりがあるのか、なぜ留学先を日本に選んだのか。もし今からでも遅くないのなら、クレフのことをもっと知りたい。このとき私は、素直にそう思った。
「ねえ、どこかでお茶していかない?」
 だからこその提案だった。お腹もすいていたし、まだ急いで帰らなければならないような時間でもなかった。
 クレフは何かを言おうとして口を開いた。けれど彼は一瞬ちらりと私から視線を外した。そのとき私たちはすでにホールの外に出ていた。すぐに私に視線を戻したクレフは、開きかけていた口を一度閉ざし、おもねるような笑みを浮かべた。
「その台詞は、私に言うべきものではないだろう」
「え?」
 クレフは軽く顎をしゃくった。何気なく前方を見た私は、思わず足を止めてしまった。ホールの階段の手すりに見知った人が寄りかかっているのが見えたからだ。それはほかでもない、イーグル先輩だった。

 真っ先に浮かんだのは罪悪感だった。先輩を差し置いて一人公演を楽しんできてしまったことももちろんだけれど、それよりも、それこそ先輩と「公演が終わったらお茶をしよう」と約束していたことを忘れてクレフをお茶に誘ってしまったことに対する罪悪感が大きかった。何考えてるのかしら、私。せっかく先輩が、わざわざこうして公演が終わるのを待ってくれていたのに――。
「龍咲さん」
 ふと顔を上げた先輩が、私に気がついて安堵の笑みを浮かべた。けれど先輩は、私の隣にクレフが立っているのを見ると、表情に戸惑いの色を混ぜた。
 何とかしてこの場を取り繕わなければと焦った。けれどそんなことをする必要はなかった。どこからか、
「クレフ!」
 とタイミングよくクレフを呼ぶ声がしたからだ。
「では、また休み明けに」
 クレフはそんなおざなりな挨拶だけを残して、呼び声のした方へ去っていった。彼の姿はすぐに見えなくなった。人が多すぎて、クレフを呼んだのが誰だったのかもわからなかった。

「彼と一緒だったんですね」
 不意にすぐ近くからイーグル先輩の声がした。びっくりして顔を上げると、いつの間にか先輩が目の前に立っていた。彼はクレフが去っていった方を見ていた。
「すみません。開演直前にクレフに会って、そのまま流れで、なんとなく一緒に観ることになって……」
「どうして謝るんですか?」
「あ、すみません……あっ」
 私ははっと口元に手をやった。ちらりと見上げると、イーグル先輩と目が合った。先輩は、まるで私を慰めるようにうっすらとほほ笑んだ。
「どうでしたか? 公演」
「あ……はい、あの、よかったです、とても」
「そんな縮こまらないでください。かえって僕の方が申し訳ない気持ちになってしまいます」
 そんなことを言われて「はいそうですか」と開き直れるわけもなく、私はあいまいな表情を浮かべるしかなかった。

 先輩は徐に私に背を向け、ゆっくりと階段を降り始めた。
「家まで送りましょう。JRでいいですか?」
「え?」
 思わず素っ頓狂な声を上げていた。先輩が階段の途中で立ち止まり、こちらを振りかぶる。私は忙しなく何度も瞬いた。
「あの……お茶くらい、ごちそうさせてください。せっかく待っていていただいたのに」
 けれど先輩はふるふるとかぶりを振った。
「いいんですよ。今日はタイミングが悪かっただけのことです。あなたがそんなに気を廻す必要はありません」
「でも」
「それに、今僕と一緒にいても、あなたが困るだけだと思いますよ」
「え?」
「今日、僕はあなたに交際を申し込むつもりでした。つい今しがた、あなたの姿を見かけるまでは」
 私ははっと息を呑んだ。

 先輩が私に向き直る。いつしか辺りの人気はすっかりまばらになっていて、先輩と私を隔てる階段数段分の距離が、実際以上に狭く感じた。
「もしも僕が『付き合ってください』と言ったら、どうしますか?」
 二人のあいだを、一陣の風が吹き抜けた。
 穏やかな顔をしたイーグル先輩が、私の答えを待っている。風に乗ってはるか彼方へと持っていかれそうになった意識を慌てて手繰り寄せ、私は口を開いた。けれどそこからは掠れた息が漏れるだけで、言葉が紡がれることはなかった。
 やがて私は、口を閉ざし、俯いた。答えられなかった。そしてそれがすべてだった。私は、「答えられなかった」。
「あなたは、あの彼のことが好きなんですね」
 いつからなんて、わからない。でも今このとき、私ははっきりと認識してしまった。だから先輩の言葉を否定できるわけもなく、私はそれとわかるかわからないかというほど小さく首肯した。

 私は先輩の気持ちには応えられない。わかってしまった。皮肉にも、先輩の言葉によって。もしかしたら私の方が今日先輩に告白していたかもしれないのに。もしもそうなっていたら、結果はまったく違っていたかもしれないのに。でも、そうはならなかった。実際に告白してくれたのは先輩の方で、そしてまさか、私は先輩の想いに応えることができなかった。気づいてしまったからだ。先輩に対する気持ちが、いつしか「恋」ではなくなっていたことに。
 先輩のことは今も好きだ。でもそれは、「憧れ」と同じ意味の「好き」でしかない。私が恋している相手は別にいる。私は――クレフのことが、好きなのだ。

 はっきりと自覚したその気持ちは、けれど私を絶望の淵へと追いやるものでしかなかった。先輩のことを好きになったときとはまるで違った。先輩への恋心を自覚したときは、胸が高鳴り、空へと舞い上がることができてしまいそうなほど嬉しかったのに、今は全然違う。クレフのことを想うときに胸に去来するのは、切なさと息苦しさと哀しみだった。なぜならこの恋には先輩への恋心以上に未来がないからだ。別れの定められている恋なんて、うまくいくわけがないと決まっている恋なんて、楽しくもなんともない。

 気がつくと視界が滲んでいた。瞬きをすると、瞳の表面に溜まっていた涙が睫毛を伝って地面に落ちた。こんなところで泣くなんてみっともないと、頭ではわかっているのに、心のコントロールがまったく効かず、涙は留まるところを知らなかった。
 私は思わず両手で顔を覆った。そのまま空気に溶けてこの場から消えてしまいたかった。
「泣かないでください」
 そばまでやってきた先輩が、そっと私の肩を抱き寄せてくれた。その腕があまりにも温かくて、私の目からはますます大粒の涙がこぼれ落ちた。
 誰かを好きになって泣くことがあるなんて、考えたこともなかった。これが本当の恋なら、どうして人は恋をするのだろう。こんなにも辛くて、こんなにも哀しいことなのに。
 答えなんてわからない。ただひとつだけ確かなことがあるとすれば、私はもう、クレフを好きだと思う気持ちをなかったことにはできないということだった。




『夢のあとさき』 ゴールデンウィーク 完





これを書いていたら、昔りぼんで連載していた『トウ・シューズ』という漫画を思い出しました。
あれ好きだったんですよねー。当時仲の良かった子がバレエを習っていたということもあって。
ここまで読んでくださってありがとうございました^^

2014.05.03 up




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