蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

蒼穹の果てに 50. 忘れえぬ哀しみ

長編 『蒼穹の果てに』

海はつとクレフを見た。今は閉ざされているその真っ青な瞳で、彼はいったいどれだけのものを見てきたのだろう。

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 ランティスの瞳にはクレフしか映っていないようだった。駆け寄ってきた彼は、目の前でしゃがむと海には一瞥もくれることなくクレフの前髪をよけてそっとその額に触れた。かと思えば一瞬でその手を離し、眉間に皺を寄せて唇を噛んだ。そしてやにわに海の膝からクレフをひょいと抱き上げ、立ち上がった。珍しく焦点を失った目をしたランティスの姿に、海の中の焦燥感も募る。長身のランティスに抱かれると、クレフは本当に小さかった。
「ひどく心を消耗している。薬師(ディル)フーガのところへ連れていく」
 ランティスは言った。反論の余地をまったく残さない言い方だった。
「薬師?」
 海と光はそろって聞き返した。「ああ」とうなずくころには、ランティスは早くも歩き始めていた。心ここにあらずといった様子だった。
「医術に長けた方だ。今頼れるとしたら、薬師しかいない」
 そういう人がいるのならもっと早くに知っていてもよかったのにと思ったが、これまでは知る必要がなかったのだということに気づいてはっとした。これまではクレフがいた。クレフは誰よりも薬草に詳しかった。なんとなくだるい程度のときも本格的に調子が悪いときも、クレフに一言言えば、大抵のことはどうにかしてくれた。前の戦いの最中に光が『心』を消耗して倒れたときも、気付け薬を調合してくれたのはクレフだった。彼がそこにいてくれる以上、「薬師」という存在を知らなければならない理由はなかったのだ。
 もしもクレフがいなくなったら――そう考えかけて、全身の毛という毛が逆立った。仮にクレフがいなくなったりすることがあったとしたら、世界が逆方向へと廻り始めてもおかしくない。そう思うほどに、クレフの存在は絶対だった。少なくとも、海にとっては。


 ランティスの後ろをついて歩くあいだ、海も光も無言だった。ランティスは普通の速度で歩いているように見えるのに、海たちは小走りにならないとついていけなかった。三人分の足音が、回廊に満ちる。その足音があるために、無言もさほど苦にならなかった。そもそもこの場でいったい何を話したらいいのか、海にはまったくわからなかった。
 しばらく歩くと、ランティスの足がとある部屋の前で止まった。
「ここ?」
 光がその部屋の扉を指差して訊ねた。「ああ」とランティスがうなずく。海も立ち止まり、その扉を見上げた。
 クレフの部屋や大広間のそれとは異なる、一風変わった造りの扉だった。蔓のようなものが扉全体に巻きつくように張り巡らされていて、取っ手のところは大きな葉の形をしている。なんとなく部屋の主の人となりを想像できそうな扉だった。けれど今は悠長にそんなことを考えている暇はなかった。海はちらりと光を見た。目を合わせ、二人そろって小さくうなずき合う。それを合図に、光が手を伸ばして扉を二度ノックした。

 とつとつと沈黙が流れる。それは、光とランティスに会ってから初めて「気まずいな」と感じた瞬間だった。けれどその瞬間はすぐに過ぎ去った。取っ手の葉がくるりと回転し、扉がゆっくりと開いたのだった。
 姿を見せたのは一人の老人だった。胸元までの長さがある灰色がかった白髪に、同じ色味の顎鬚を伸ばしたその老人は、薄汚れた長い枯葉色のローブを着ていた。背は海よりも頭ひとつ分は高い。顔は皺くちゃで、見た目という意味では、セフィーロで会った人の中ではずば抜けて高齢だった。その皺くちゃの顔の中にある薄い緑色の瞳が、光、海、ランティスを順に捉える。そして最後にランティスの腕に抱かれたクレフを見止めたとき、その双眸はすっと細められた。
「薬師」とランティスが身を乗り出した。「導師クレフが倒れた。『心』をひどく消耗して――」
「中へ」
 ランティスに最後まで言わせず、薬師フーガは扉を広く開け放った。微かに目を見開いたランティスだったが、すぐにきゅっと唇を結び、しぐさだけで会釈をしてさっと中へ入った。海も光とともに後に続いた。

「うわあ……」
 中へ入ると、まず光が思わずといったように声を上げた。その気持ちが海にはよくわかった。薬師フーガの部屋は至るところに宝石がちりばめられていて、まるで部屋全体がひとつの美術館のようだった。
 ダイヤモンドを中に抱いた原石や、逆に美しく磨かれカットを施されたジュエリーまで、多種多様な宝石が部屋を彩っていた。椅子やテーブルの角にもそれぞれ違う種類の宝石があしらわれており、それがまた、おのおのの家具とよく調和が取れている。こんなことを言っては失礼かもしれないが、その部屋の煌びやかさはフーガの第一印象からはずいぶんとかけ離れていた。でも不思議なことに、その美しい部屋の中を歩き回るフーガは、はっきり言ってみすぼらしい風貌であるにもかかわらず、妙にしっくりと溶け込んでいた。
「こちらへ」
 薬師フーガは窓際の真新しいベッドを指した。そのヘッドボードの四隅にも宝玉があしらわれていた。フーガが布団を捲る。そこにランティスがクレフの体を横たえた。未だ眉間に皺が寄っているクレフの表情を見て、海は思わず駆け寄った。
 フーガは一旦ベッドを離れ、壁一面見事なまでに薬草が整然と並んだ棚の前に立って何やらてきぱきと作業を始めた。薬草の調合をしているらしい。それを一瞥して、海はクレフを覗き込んだ。いつもは風に吹かれている猫毛が、汗で額に張りついている。そっとその髪をよけてやったときに触れた肌は、ぞくりとするほど冷たかった。けれどそんな肌の冷たさとは対照的に、頬は上気している。習い始めたばかりの人が吹く龍笛のようなか細い息が、海の胸を締めつけた。

「失礼して、よろしいかな」
 不意にフーガの声がして、海ははっと体を起こし、一歩身を引いた。フーガはベッドの下から引き出した椅子に腰を下ろすと、そばにあった丸テーブルを手元まで引き寄せ、そこに数種類の薬草を並べた。そしてクレフの額に手を当てると、一拍間を置いてから神妙にうなずいた。その手を今度は自らの懐へと伸ばし、小さなすり鉢とすり棒を取り出した。そんなものがどこに入っているのかと、海は思わずまじまじとフーガを後ろから覗き込んだ。まるで、どこでもドアならぬ何でもポケットのようだと思った。
 一連の動作のあいだ、フーガは左手しか用いなかった。よく見ると、ローブの右腕の部分が不自然に薄っぺらいことに気づいてはっとした。その下がどうなっているのかは想像に難くなかったが、フーガの動きは、片腕が不自由だということをまるで感じさせないほどよどみなかった。
 すり鉢に何種類かの薬草を入れ、さあすろうとしたそのときだった。フーガは突然何かを思い出したようにこちらを振り返った。
 フーガがまず見たのは海だった。え、と海は思わずたじろいだ。なぜか責められるような気がして、つい身構えてしまった。ところがフーガは海に対しては何も言わず、黙ってほほ笑んだだけですぐに視線を外した。けれど光とランティスを交互に見たときは違った。彼は澄んだ声で、
「お二人は、外していただけますかな」
 と言った。
「え?」
 光がきょとんと瞬く。海も思わず彼女と顔を見合わせた。どうして、と訊き返そうとした光を、ところがランティスがその肩をつかんで制した。驚いている光と海をよそに、ランティスはフーガに向かってうなずいて見せた。そして戸惑う光の腕を強引に引き、あっという間に部屋から出て行ってしまった。

 想像していなかった展開に、海は呆気に取られてその場に立ち尽くした。今に光がランティスを伴って再びやってくるのではないかと、しばらくのあいだじっと扉を見ていたが、二人は二度と戻ってこなかった。
「さて」
 不意に背後からフーガの声がした。振り返ると、彼は何事もなかったかのように、やはり左手だけを使って薬草をすり始めていた。
「あ……あの」
 様子を窺うように呼びかけてみたが、フーガからの答えはなかった。代わりに聞こえてきたのは、蒸気機関車が走ってくるときのような音だった。どうやら部屋の奥の方でしているようだ。それがお湯が沸騰するときの音だということに気がつくまでには、少し時間が必要だった。
「お嬢さん。お湯をここまで持ってきてくださるか」
 フーガが出し抜けにそう告げた。海は「え」とその背中を見た。フーガは規則正しく動かし続ける手をまったく止めない。戸惑っていると、蒸気機関車のような音が急に大きくなった。その音に急かされるように、海は慌てて駆け出した。

 戸棚で仕切られたその奥に小さな厨があり、火に鉄瓶がかかっていた。見るからにかなり熱そうだったので持ち上げるときはためらったけれど、予想に反して、少なくとも取っ手のところはまったく熱くなかった。中身をこぼさないよう、海は両手でしっかりと取っ手を握り、鉄瓶を火から下ろした。すると海が何かをする必要もなく、火はひとりでに消えた。
 鉄瓶を持ち、フーガのところへ戻ると、彼は「ここへ」とすり鉢の中を指した。
「半分で結構」
 鉄瓶を傾け、慎重に熱湯を注ぐ。言われたとおり半分ほど入れたところで持ち上げると、「素晴らしい」とフーガが満足気に言った。ただお湯を注いだだけなのにと思ったけれど、褒められたことは確かに嬉しかった。

 厨に一旦鉄瓶を戻して再びベッドのところへ戻ると、フーガの隣にもうひとつ椅子が用意してあった。フーガはといえば、せっかくできた薬湯を別の小さな瓶に移し変えていた。てっきりクレフに飲ませるために使うのかと思いきや、そうではないらしい。蓋をした瓶を、フーガはベッドの向こう側にある窓枠に置いた。風が吹いて、窓枠が小さく音を立てた。
「こちらへおかけなされ」
 そう言って、フーガは彼の隣の椅子を指した。言われるままに腰を下ろす。フーガはまた懐を探った。今度彼が取り出したのはマッチだった。セフィーロにもマッチがあるのかと、海はこんなときなのに感心した。
 フーガは口に箱を加えると、慣れた手つきで左手でマッチを擦った。「手伝います」と申し出る暇さえなかった。口にマッチの箱を加えるなんてかなり危険な行為なのに、フーガは火傷もせず器用にマッチに火をつけ、瓶の上に備えてある蝋燭にその火を移した。明かりがついたことを確かめてから、フーガはマッチの火を指で揉み消した。蝋燭の明かりを温かいと感じて初めて、もう時刻が夕方に迫っているのだと気がついた。
「眠っている者に薬を飲ませることは、できませぬからの」
 マッチを懐にしまいながら、フーガが言った。その横顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
 しばらくすると、薬草の香りが海のところにまで届いた。火で温められて香りが強くなったようだった。
「こうして辺りを漂わせるのが、もっとも効く」
 時間はかかるがな。そう言って、フーガは笑った。まるで『精霊の森』に古くから生えている大木が木の葉を揺らすような笑い方だった。

 フーガには訊きたいことがたくさんあった。ありすぎてどこから切り出したらいいのかわからなかった。笑うと皺が三倍にも増えるその横顔を見るとはなしに見ていると、フーガが徐に口を開いた。
「導師クレフは確かに『心』を消耗しておられるが、案ずることはない。じゅうぶんな休息を取れば、じきに目覚められましょう」
 一切の迷いがないその言葉を聞いたとき、何よりも訊きたかったことはそれだったと思った。安堵の波が一気に押し寄せる。我慢していなければ涙が出そうだった。海はぎゅっと強く拳を握り、頭を下げた。
「……ありがとう」
 ほかにどんな言葉で今の気持ちを表現したらいいのかわからなかった。
 改めてクレフの顔色を窺う。サークレットの外された額の汗が、先ほどよりもだいぶ引いている。その表情を見ていると、海自身の気持ちもみるみるうちに落ち着いてきた。ずっと張りつめていたのだと、そうなって初めて気づいた。椅子に座っていてよかったと思った。立っていたなら、腰を抜かしていたかもしれなかった。

 不意に視線を感じた。顔を上げると、フーガがじっと海のことを見ていた。笑っていない彼の瞳は、こちらがたじろぐほど鋭かった。返すべき言葉を見つけられずにいると、フーガはふっと表情を緩めた。そして、
「異なる次元から、おいでになった方ですな」
 と言った。
 どくんと鼓動が大きくなる。ごまかすように意図的に、海は瞬きの回数を減らした。するとフーガは瞳の色がわからなくなるほどに目を細めた。
「この年になると、相手方の目を見ればだいたいわかるようになる。その方が、どういった人生を歩まれてきたのか」
「この年」って、いったいいくつなんだろう。訊けばいいのに訊けなかった。ただ、この世界で最年長はクレフだと聞いたことがあるから、おそらくクレフよりは年下なはずだった。そして、フーガでさえ「目を見ればわかる」のであれば、もしかしたらクレフもそうなのかもしれないと思った。
 海はつとクレフを見た。今は閉ざされているその真っ青な瞳で、彼はいったいどれだけのものを見てきたのだろう。

「クレフは、どうなの?」
 気づくと言葉が口をついて出ていた。海はフーガを見上げた。
「あなたの目に、クレフはどんな人生を歩んできたように映っているの?」
 フーガは海から視線を外し、横たわるクレフを見下ろした。窓枠の隙間から夕方の風が吹き込んできて、窓の前に置かれた薬草入りのキャンドルを通り過ぎた。
「導師クレフは、お強い」とフーガは言った。「誰よりもお強い。そのお心は、何百年という時が経とうとも変わらぬ。だが……このお方は、強さの奥に哀しみを抱えてもおいでになる。誰よりも深く、誰よりも重い、忘れえぬ哀しみを」
 一言一言が、薬草の香りとともに海の中へと流れ込み、血液に浸潤した。哀しみ――そのとおりだと思った。クレフが抱えているのは不安でも怒りでもなく、「哀しみ」だ。
 不安はいつかは払拭され、怒りはいつしか収まる。けれど「哀しみ」だけは、いつまでもその形を留めたまま人の心に残る。ちょうど海たちが、二年前の哀しい戦いのことを今でも忘れられないように。

『エリーゼ』
 ほとんど音にならない声で呟かれたクレフの言葉が、今もはっきりと耳の奥に残っている。そして、あの女性の姿も。「エリーゼ」というのがあの女性の名前なのだろうか。クレフにとって、彼女はいったいどんな存在なのだろう。クレフの抱える「哀しみ」の理由に、彼女は関係しているのだろうか。
「薬が切れるまでは、休憩といたそうか」
 言って、フーガが腰を上げた。
「あの」と海も後を追うように立ち上がった。「どうして私だけ、残してくれたの? 光やランティスはだめだったのに」
 立ち上がったときの勢いのままに訊いた。するとフーガはゆったりと立ち止まり、やおらこちらを振り返った。どんな答えが来るかと身構えたけれど、フーガはじっと目を合わせた後は穏やかにほほ笑むだけだった。なぜかそれ以上は追及できず、海はその場で立ち尽くした。やがてフーガは海に背を向け、無言のまま歩き出した。
 厨にフーガの姿が吸い込まれていく。それからいくらもしないうちに、またあの蒸気機関車のような音が聞こえてきた。




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Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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