蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

蒼穹の果てに 54. 訣別

長編 『蒼穹の果てに』

この地を吹き抜ける風のように、今のクレフの心は穏やかだった。昨日までとはまるで違った。その大きな変化に、クレフは自分がまたひとつの道を選んだのだと知った。

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 風がカーテンを揺らす。その風に乗って、目覚めを程よく促す香りが漂ってくる。閉じた瞼の裏からでも太陽の光がわかる。もう朝になったのか。クレフはそっと目を開けた。
 見慣れない天井が目に映る。ぼやけていてよく見えない。まるで一枚の水彩画を見せられているかのようだった。やけに美しい水彩画だった。乳白色のキャンバスは、虹を思わせる七色の輝きで彩られていた。
 ひどく疲れきっている気がするのに、なぜか体は軽やかだった。鼻を抜ける懐かしい香りのせいかもしれなかった。クレフはふうと息をつき、首を傾けた。何気ないその動作は、しかしクレフの息を止めるにはじゅうぶんすぎた。すぐそばに、横たわっている人がいたからだ。
 そのひとはベッドの端に突っ伏し、静かな寝息を立てていた。白いシーツに散った髪が、朝日に照らされて儚く銀色に輝いている。気がつくとクレフは、風に吹かれて靡いた髪を一房咄嗟に捕まえていた。柔らかい。白い頬が覗いている。あなたは――
「エリーゼ……?」
 不意に一陣の風が吹き、クレフの手から髪を奪い去った。その風の流れに刺激されたのか、閉ざされていたそのひとの瞼が揺らぎ、奥から瞳がゆっくりと姿を現した。その瞬間、クレフの目に映る世界は水彩画ではなくなった。彼女の瞳の色をはっきりと認識したとき、自分の見ていたものが錯覚だったと知った。彼女はエリーゼではなかった。

 彼女は小さなうめき声を上げながらゆっくりと体を起こした。銀色だと思った髪は、どこからどう見ても水色だった。なぜあんな錯覚を起こしたのか、自分のことなのに解せなかった。二人の髪は、色も違えば質感も違う。エリーゼの髪は波打っていたが、今目の前にいる彼女のそれは、まるで滝のように真っすぐだった。
「……クレフ?」
 彼女は何度か瞬きをすると、やにわにその真っ青な瞳を見開いて身を乗り出した。ああ、よく知った顔がある。海だった。クレフはほほ笑んだ。すると海の唇がわなわなと震えた。
「ばか。どれだけ心配したと思ってるの」
 声の震えを隠そうともせず、海は言った。それはどんな叫び声よりも強くクレフの心を揺さぶった。言葉を失うと同時に、はたとクレフは瞬いた。いったい私の何が、彼女をそれほど心配させたというのだろう。
 クレフははっとして、海とは反対方向に首を傾けた。朝日がレースのカーテンを通して差し込んできている。そういえば、ここはどこだ? そして、今はいつだ?
「私は……?」
 クレフはもう一度海を見上げた。海は涙をいっぱいに溜めた瞳を一度拭い、それから椅子にきちんと座りなおした。よく見ると、その目の下には濃いくまができていた。
「ここは、薬師フーガの部屋よ。あなたは昨日、倒れて、それから一晩、ずっと眠り続けていたの」
 わざとか否か、海は「昨日」と「倒れて」のあいだに一呼吸置いた。

 薬師フーガ――その名を海の口から聞くのはなんだか不思議な気分だった。しかし彼女の一言で、ようやく自分の身に起きたことを思い出した。そしてすべてに得心がいった。道理で海をエリーゼと勘違いするはずだ。あれはクレフにとっては夢の続きだった。
 エリーゼと過ごしたほんのわずかな、絶望と紙一重の幸福の時間。彼女のそばで眠りについたあの夜が、クレフの人生でもっとも幸せな瞬間だったかもしれない。幼さにかこつけて忍び寄る過酷な未来から目を逸らし、惰眠をむさぼるかのようにささやかな慶びに執着していたあのころ。その後に起こるすべてを知っている今見ても、あの夢は幸福の具現化だと思える。そんな自分を、愚かだと思いこそすれ、憐れむ気にはならなかった。

 クレフはため息にもならないような短い息をついた。ひとり断崖絶壁に立ち尽くしているような気分だった。その惨憺たる思いは、幸福そのもののような夢を見た後に抱えるにしては矛盾だらけの感情だった。
「夢を見た」という事実すらも夢だったらよかったのに、しかし残念ながらそこまで現実は甘くはないらしい。クレフが見た夢はクレフ自身の過去そのものだったが、過去を夢に見るということは、クレフにとっては大きな意味を持つことだった。それが起きる条件は二つしかない。ひとつはクレフ自らが望むか、そしてもうひとつは、その過去を共有している人間と接触を持つか。クレフがエリーゼとのことを夢に見るのは、これが初めてのことだった。これまで一度として、彼女と過ごした日々を夢に見ることを望んだことはなかった。それが自分を苦しめるものでしかないことをわかっていたからだ。しかしクレフは夢を見た。クレフ自身は望んでいないのに夢を見たということは、当時のことを知っている人間と接触を持ったということだ。そんな人間は一人しかなく、そしてクレフは現に、彼女との思いがけない邂逅をはっきりと憶えていた。

 あのときは、突然奇妙な胸騒ぎがして部屋を飛び出したのだ。まるで何かに呼ばれるように、いつもは行かない方向へ足を向けると、まず目に留まったのは海の姿だった。ほっとする間もなく、その向こうに見つけてしまったのが彼女だった。彼女は――エリーゼは、かつて見たままの姿でそこにいた。そしてクレフの記憶にあるそのままの声でクレフを呼んだ。その瞬間、封じ込めていた「あのとき」の記憶が、とぐろを巻いてクレフの心の奥底から湧き上がってきた。それは抗うことを赦さない濁流となり、クレフの心を飲み込んだ。クレフは最初、その波に必死で抵抗しようと試みた。しかし許容量をはるかに超える忌まわしき記憶との戦いは、想像を絶するものだった。割れんばかりの頭痛に、為すすべもなく、閉ざされていく瞼をどうすることもできなかったのだ――。

「クレフ?」
 呼ばれて、クレフははっと顔を上げた。こちらを覗き込む海の瞳が、「心配だ」と素直に訴えてくる。気がつくと額に脂汗が滲んでいた。それを拭い、クレフは咄嗟にほほ笑みを刷いた。「なんでもない」とかぶりを振り、手をついて体を起こそうとした。
「だめよ、まだ休んでいて」
 ところがそれを海に制された。肩を押さえる力は思いの外強く、クレフはその勢いに驚いて思わず海を見返した。海が一歩も引かない様子だったので一瞬たじろいだが、「だいじょうぶだ」という意味を込めてクレフはかぶりを振った。
「心配するな。私はもう」
「だめだったら」
 ところが海は、クレフに最後まで言わせることさえしなかった。
「休んでいて、お願い。まだ本調子じゃないのでしょう?」
「そのとおりですぞ、導師クレフ」
 だが、と反論しかけたクレフの声は、おそらく海には聞こえなかっただろう。この部屋の主が、海以上にきっぱりとした口調で奥からそう告げたからだ。
「……フーガ」
 ゆったりとした足取りで歩いてきたフーガは、ベッドサイドで立ち止まると、手にしていた茶碗をサイドテーブルに置いた。空いた彼の手が伸びてくる。ふわりとクレフの額を覆った皺だらけの手は、しかしすぐに離れていった。細められた薄緑色の瞳は、彼の言葉とは裏腹に、もう心配がないことを告げていた。

 クレフがゆっくりと上体を起こすと、海がはっと身を乗り出した。しかしフーガが海を遮った。体を起こさなければ薬湯を飲めないだろうと言われて、それもそうだと思ったのか、海は大人しく身を引いた。
「もうしばらくは、お休みいただきますぞ」
 柔らかく、それでいて適度な威圧感も孕んだ口調でフーガは言った。さすがに押し切るわけにはいかず、クレフは上半身を起こしただけで大人しくヘッドボードに身を預けた。そのクレフの手元に、フーガから薬湯の椀が渡される。礼を言って口をつけると、途端に体のすみずみにまで薬草が染み渡っていくのを感じた。クレフは思わず目を瞠った。軽やかだと思っていた体はしかし、自覚していないだけでずいぶんと疲弊していたようだった。

「お礼は申されましたかな」
「え?」
「このお嬢さんに」
 クレフはきょとんとして海を見た。海が忙しなく瞬く。フーガは二人を交互に見て目を細めた。
「一晩中、あなたさまのお側におったのですぞ」とフーガは言った。「少しでも早く目を覚まされるようにと、何度も井戸の水を取り替えられて。おかげで私は、ずいぶんと楽をさせていただいた」
「ちょ……ちょっと」
 海は急に慌てふためき、フーガを止めに入った。クレフはびっくりして海を見た。そういえば、私が目を覚ましたとき、海は言っていなかったか、「あなたは一晩中眠っていた」と。
「少なくとも、このお嬢さんにお礼を申し上げるまでは、休んでいていただかなくてはなりませんぞ」
 空になった茶碗をクレフの手からそっと取り上げながら、フーガはクレフだけにわかるようにウインクをした。そして思いなしか軽やかな足取りで、奥の厨へと去っていった。

 フーガの後姿を呆然とした様子で見送った海が、恐る恐る、といったようにこちらを振り返った。
「ウミ」「あのね」
 見事に二人の声が被った。互いの顔を見合わせ、どちらもはっと口を噤む。先に視線を外したのは海だった。長い髪に手をやっているのは無意識のうちの行動だろうか。泳ぐ視線があどけない。クレフは目を細めた。言葉は必要最小限でいいのだと思った。クレフは手を伸ばし、ベッドの端に置かれた海の手にそっと触れた。
 はっとその手を小さく震わせ、海が顔を上げた。視線が交わった瞬間にクレフの表情に浮かんだ笑みは、心からのものだった。
「ありがとう」とクレフは言った。
 海の瞳孔が微かに開く。わずかに潤んだように見えたその双眸だったが、彼女がさっと俯いたためにわからなくなってしまった。海は両手でクレフの手を包むと、ぎゅっと握り、小さくかぶりを振った。握られた手から伝わってくる賢明な気持ちがいじらしくて、クレフもそっと、海の手を握り返した。
 それからしばらくのあいだ、二人は言葉もなくそうしていた。今は海もクレフも、二人のあいだに静かに佇む沈黙と、その沈黙の中でつながれている手の温もりだけを感じていたかった。

「お水、取り替えてくるわね」
 やがて、海が静かに手を離しながら立ち上がった。見上げても彼女と目は合わなかった。無理に合わせる必要もなく、クレフは「ああ」と短く答え、小さなバケツを手に去って行く海を素直に見送った。
 厨の方から、海とフーガが言葉を交わしているのがぼんやりと聞こえてくる。押し寄せてくる郷愁に、クレフはされるがままになっていた。向けられる海のひたむきな想いが、かつての自分に重なっていた。言いたいことが山ほどあるはずなのに何も言わない海は、あのときエリーゼを前にして何も言えなかったクレフと同じだった。
 徐に視線を落とし、自らの掌を見つめる。この手でエリーゼの手を握りしめたときのことを、今でも昨日のことのように憶えている。もしもあのとき違う言葉を言えていたら、私たちは、そして世界は違う結末を迎えていたのだろうか。

 ふと、朝露に濡れた爽やかな風が窓の隙間から流れ込み、クレフの前髪をふわりと浮かせた。クレフは顔を上げ、窓の外へと視線を投げた。新しい朝がセフィーロを照らしている。自分が生きてこの朝を迎えているということが、不思議でならなかった。
 この地を吹き抜ける風のように、今のクレフの心は穏やかだった。昨日までとはまるで違った。その大きな変化に、クレフは自分がまたひとつの道を選んだのだと知った。時は満ちた。
 迫りくる足音を、クレフだけが捉えている。照りつける日射しの眩しさに、クレフはそっと瞼を下ろした。




第五章 完




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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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