蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

夢のあとさき 海の日(1)

連作短編集 『夢のあとさき』

ものすごく久しぶりに、連作短編集の更新です。
設定を引き継いでいますので、初回から通して読まれることをおすすめします。

本文は「続きを読む」からどうぞ。





 7月は湿っぽく始まった。梅雨真っ只中なのだから当然と言えば当然だけれど、濡れた服を着ているようなこの湿度の高さは決して心地好いものではない。天気が悪いと気分まで落ち込んでしまう。こんなときは体を動かすに限る。一刻も早く、汗と一緒に憂鬱な気分も流したい。いつになくそう思ってフェンシング部の更衣室の扉に手をかけた私は、けれどそこではたと瞬いた。ノブが廻らなかったのだ。
「どうしたのかしら」
 時刻は午後4時、まさにこれから部活が始まるという頃合いだ。この時間に更衣室が施錠されているなどということはまずない。いったいどうしたのだろう。訝しんだ私は、けれどふと顔を上げた先にかかっていたカレンダーを見た瞬間、思わずあいまいな声を漏らした。
「ああ……」
 どうかしていたのは私の方だった。期末試験まで一週間となった今日からは、全部活が休みに入るのだ。
「そりゃあ、開いてるわけないわよね」
 ひとりごち、開かずの更衣室に背を向けると、大人しく元来た道へと歩き出した。まったく、何をしているんだろう。更衣室にやってくるまで、部活が休みなことに気がつかないなんて。

 急に心にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。フェンシングをしているあいだは余計なことを考えなくて済むから、あの時間は結構貴重だったのに、これから一週間はその時間を持つことができなくなる。もちろん、その時間を勉強に充てるのが筋なのだろうけれど――いくらエスカレーター式に大学に進学できるとはいえ、一応は高校二年生という大事な時期なのだし――、果たして今机に向かったところで、勉強がはかどるかどうか。
 そうじゃないわ、と私は思いっきり首を振った。「はかどるかどうか」ではなく、「はかどらせなければいけない」のだ。私は風のような秀才ではないから、ある程度勉強しなければ点数は取れない。どうせ家に帰ってもさぼりがちになってしまうのだし、図書館へ行って勉強しよう。そう決めた私は、一旦教科書やノートを取りに教室へ戻った。ところが閉まっていた引き戸を何気なく開けると、思いがけない人が教卓に立っていて、思わず足が止まった。
「あ」
 私の声に気づいたその人が、きょとんとこちらを振り向く。教科書を片手に黒板と向き合っているその姿は、生徒というよりも先生のように見えた。長袖のシャツを肘までめくり上げ、ネクタイも普段より緩めている。逆光の中の蒼い瞳が、私を捉えて見開かれる。クレフだった。

 咄嗟に言葉が出なくて、私は黒板とクレフの持った教科書とを見比べた。どうやら現代文の勉強をしているらしかった。黒板には、お世辞にもきれいとはいえない漢字やひらがなが殴り書きされている。私はもう一歩足を進め、後ろ手に引き戸を閉めた。教室の中にはクレフ以外に誰もいなかった。
 二人のあいだには距離がある。この距離が、今の私には埋められなかった。だから閉じたばかりの扉に背を預けた。
「ずいぶん熱心なのね」と私は言った。
「最後の試験だからな」とクレフは肩を竦めた。「ある程度の成績を残さなければ、向こうの学校で単位が認められない可能性がある」
「そう」
 本当はもっと言葉を続けるべきなのだろうし、実際、私の中には選べそうな言葉が山のようにあった。けれどどれひとつとして口にすることができなかった。私が口を噤むと、それきり会話は途切れてしまった。

 クレフとこうして二人きりで話すのは、たぶんあのゴールデンウィーク以来初めてのことだった。二年生になってクラス替えがあり、クラス自体はまた一緒だったけれど――ちなみに光や風、フェリオも同じクラスになった――、席は離れてしまったので、以前ほど話をすることもなくなっていた。もちろんほかのクラスメイトと同程度の会話はするけれど、それ以上はしない。しないというより、できなかった。一年生のときとは何もかもが変わってしまったのだ。もちろんそれは、私の中でだけの話だけれど。
「邪魔してごめんなさい。荷物を取りにきただけだから、すぐ行くわね」
 私はおもねるように笑い、扉を離れて自席へ向かった。クレフからの返事はなかった。けれどすぐに、チョークが黒板を滑る音が聞こえてきた。
 机の中から教科書を取り出す手が小刻みに震えていることに、厭でも気づく。クレフに悟られないよう、私は小さくため息をついた。今のクレフとの会話はほんの短いものだったけれど、きっと私は後生忘れないだろう。そして近い将来、こうして彼と交わした会話の一つひとつを思い出しては、胸を締めつけるような痛みに耐えなければならないのだろう。

 ふとチョークの音が止まって、私は顔を上げた。クレフが顎に手を当て、教科書と黒板を見比べながら「うーん」と低い声で唸っていた。クレフは一度チョークを置くと、代わりに教卓の上の辞書を手に取った。読めない字でもあるのだろうか。少し迷ってから、私は彼のもとへ歩み寄った。
「わからない漢字でもあった?」
 クレフがぱっと顔を上げる。その表情に驚きの色が乗ったように見えたのは一瞬のことで、すぐに彼は「ああ」と言うと、辞書ではなく教科書を私に向けて見せた。
「漢字というより、言い回しかもしれないが。この、『おまえはそのままでは井の中のかえるだ』というのは、どういう意味だ? 人間に向かって『かえる』と言っているということは、相手をけなしているということか」
 え、と私は教科書を覗き込んだ。そうして実際に書かれている文章を見て、思わず吹き出してしまった。クレフが訝しげに眉根を寄せる。私は表情を崩したまま、「違うわよ」と言った。
「『井の中のかえる』じゃなくて、『井の中のかわず』。『世の中を知らない』っていう意味よ。ほら、井戸の中にばかりいる蛙は、外の世界のことを知らないでしょう」
 クレフはふむ、とうなずき、いつも持ち歩いている彼特製の翻訳ノートに何か書き加えた。日本へやってきたときから書き始めたというそのノートは、私が隣の席に座っていたときでさえすでに三冊目になっていたけれど、ちらりと見た表紙には「7」の数字が書かれていた。

「やはり、まだまだ知らない言葉が多いな」
 クレフがノートをぱらぱらとめくりながら嘆息する。
「当たり前よ。私たち日本人だって、全部の言葉を知ってるわけじゃないんだから。――あ、そうだわ。ついでに私も、教えてほしいことがあるんだけど」
 ふと思い立って、私は手に持っていた英語の教科書を開いた。
「今日の授業で出てきたこの文章、これってどういうこと? なんでここにいきなり”who”が出てくるのか、全然わからなくて」
「ああ……これは、who以下の部分がその直前のthe only oneの説明だ。the only oneはyouのことを指しているだろう。だからwho以下は、youがどのような人物であるか、ということの説明でもある。つまり……」
「あ、そっか。whoは関係代名詞なのね。じゃあこのwhoをyouに置き換えたらいいんだわ。っていうことは……『あなたは私にこんな気持ちを感じさせる唯一の』――」
 中途半端なところで、私は思わず言葉を止めてしまった。言い直すのも不自然で、結局そのまま黙してしまう。クレフが不思議そうな顔をしてこちらを覗き込んできたので、私は慌ててかぶりを振り、おもねるような笑みを浮かべた。
「なんでもないの。ありがと、よくわかったわ」
 残念ながらあまりうまく笑えていなかったようで、私を見るクレフの視線は訝しがっているままだった。いたたまれなくなって、私は手元の教科書に視線を落とした。
 ピンクのマーカーで線が引かれている一文がある。“You are the only one who makes me feel as such.” たった今クレフに訊ねた一文だ。確かに授業中にわからなかった部分ではあったけれど、どうしてこんな文章を選んでしまったのか、自分で自分が厭になりそうだった。「あなたは私にこんな気持ちを抱かせる唯一の人」。それはまるで、今の私のクレフに対する気持ちそのものだ。

「面白いな、日本の教科書は」
 不意にクレフが言った。
「え?」
「既存の小説を扱うのならばまだしも、文法を学ばせるためだけに、物語を特別に作り出しているだろう。そのせいか、どこかちぐはぐな言い回しもある。おまえが指摘した一文も、恋人に対してならば考えられる台詞かもしれないが、その文中のように、友人に対してはあまり使われないな」
 クレフの言うとおり、問題の一文は「同性の友人に対して」向けられた言葉、という設定だった。「友情」をテーマにしたパッセージの中の一文で、語り手が、唯一無二の親友だと思っている人について説明しているのがあの一文だった。教科書の文章だと思って読めば違和感など感じないが、一歩引いてみると確かに、友人に対して言う台詞としてはかなり気障だ。恋人に対してでさえ、あまり言うような台詞ではない気がする。
 クレフはいつの間にか黒板に向き直り、また現代文の勉強を始めていた。その横顔が、手を伸ばせば届くほど近くにあるはずなのになぜかものすごく遠く感じた。ああ、と私は思う。この感情を、人は「淋しい」と呼ぶのだろう。

「言い慣れてるんでしょうね、あなたは」
 気がついたら口が動いていた。
「え?」
 クレフがチョークを持った手を止め、驚いたように私を見る。私は反射的に笑みを取り繕った。今度はたぶん、先ほどよりはうまく笑えていたはずだった。
「こういう台詞よ。日本人が言えば気持ち悪いくらいに気障だけど、あなたなら似合いそう。イギリスにいたときは、毎日のように言っていたんじゃない?」
 クレフが反応を見せるまでに、一瞬の静寂があった。彼は徐に私から視線を外すと、これ見よがしなため息をついてチョークを置いた。
「何を言い出すかと思えば。くだらない」
 けんもほろろな言い方だった。思わずカッときた。
「べつにいいのよ、隠さなくたって。欧米じゃ当たり前のことなんでしょ、恋人が何人もいたりするの」
 言いながら、それがかつて自分が友人たちに向けて言った言葉とはまるっきり逆だということに気づいていた。けれどどうしようもなかった。私の口は、もはや意志によるコントロールが効かない別次元で動いていた。
「とんだステレオタイプだな。ハリウッドのゴシップに刺激されすぎだ」
「あら、そうかしら。あなたなら器用に何人も彼女持てそうだけど」
「期待に添えなくて申し訳ないが、生憎そのような性分ではない」
「そんなこと言って、あなたの帰りを待ってる人が何人もいるんじゃないの? このあいだの公演のときだって、あなた誰かに呼ばれて――」
 ダン、という大きな音が、私の言葉を遮った。クレフの拳が黒板を打ちつけた音だった。私は思わず肩を大仰に震わせた。次の瞬間、
「違うと言っているだろう」
 目の前でクレフが叫んだ。

 聞いたことがないほど、どすの利いた声。思わず足が竦んだ。クレフの真っ青な瞳は、怖いくらいに真剣だった。
「な……によ、そんなに、怒らなくたって」
 喉が渇く。唾を飲んでも潤わない。私は忙しなく瞬いた。するとクレフが突然われに返ったかのような顔になり、気まずそうに私から視線を外した。その瞬間、私は金縛りから解かれたように気が抜けるのを感じた。
「すまない」
 クレフは短くそう言った。
 私の中にいるもうひとりの私が、「謝らなければならないのは私の方だ」と告げている。そのとおりだと自分でも思うのに、「ごめんなさい」、その一言がどうしても言えなかった。私は広げていた教科書を手早くまとめると、鞄ごと抱えて急いで教卓を離れた。そして一度も振り返らないまま教室を出、ぴしゃりと扉を閉めた。

 鼓動が速いという自覚はあった。混乱もしていたと思う。気持ちを落ち着けようと、一度深呼吸をする。吐き出した息が震えていることは見て見ぬふりをして、全部忘れて歩き出そうとした。ところがふと顔を上げたとき、廊下の反対側に誰かが立っているのに気がついて足が止まった。
「……風」
 私が驚きを隠さずに名を呼ぶと、彼女は泣き笑いのような顔になってゆっくりと歩み寄ってきた。腕にそっと風の手が触れる。思わず俯いてしまったのは夕陽のせいだと、思い込みたかった。




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ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

▶ 連作短編集を始めました。クレ海学生パラレルです。今後年中行事に合わせて不定期更新の予定です。詳しくはこちらからどうぞ。

▶ こちらは作品展示専用です。コメントへのお返事は別ブログにて行っております。
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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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