蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

夢のあとさき 海の日(5)

連作短編集 『夢のあとさき』

私たちが一歩を踏み出したのは、たぶん、同時だった。

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 ガタン、と突然窓枠が音を立てた。驚いた拍子に私たちは互いにぱっと離れ、思わず周囲の様子を窺った。けれどあたりには誰の姿もなかった。どうやら風で揺れただけだったようだ。
 ふっと息をついたクレフが、やにわに立ち上がった。そして辺りに散らばっていた小包の類を一気にかき集めると、投げ捨てられていた袋の中に無造作に突っ込んだ。私が泣いているのを見たときによほど慌てたのか、鞄はかなり遠くに放り投げられていた。
「立てるか?」
 その鞄と袋を手に、クレフは私を振りかぶった。
「え? あ……ええ、たぶん」
 改めて訊かれると急に不安になり、あいまいな答えを返してしまったが、実際には何の問題もなく立ち上がることができた。
「別の場所へ行こう」
 そう言うと、クレフは迷うことなく私の手をつかんで歩き出した。クレフは普通に歩いているように見えたけれど、その速度はかなり速くて、私は早歩きをしなければついていけなかった。

 どこへ行くのかもう決めているのか、教室を出てからのクレフの足取りに迷いはなかった。終業式を終えた校内は人気がなく、すれ違う人は皆無で、私は内心ほっとしていた。もしも今の状況を見られたりしたら、果たして何と言われるか。しかも私は泣き顔なのだ。あらぬ噂が立つのは必然に思われた。
 せめて手をつないでいなければ、万が一誰かに見られたとしてもまだ言い訳のしようもある。でもクレフが私の手を握る力はびっくりするほど強くて、振り解けるようなものではなかった。それに私自身、本心では振り解きたいとは少しも思っていなかった。
 クレフは無言のまま歩き続ける。一見いつもの彼と変わらないように見えるけれど、その背中全部が私を意識していることがはっきりわかる。つい今しがたのことを思い出して、私は密かに赤面した。勢いに任せた生まれて初めての告白の返事は、言葉ではなくキスだった。
 あれはどういう意味だったの?――私は心の中でクレフの背中に問うた。このまま後についていったら、その答えを教えてくれるのだろうか。今度はちゃんとした言葉で。
 でも、もしも返事が「NO」だとしたら、それを言葉にする代わりにまたキスをしてほしいと思った。たとえ私を慰めるためのキスだったとしても、あの瞬間は、世界中の誰よりも幸せだったと断言できるくらいに満たされていたから。

 やがてクレフが、とある部屋の前でようやく足を止めた。扉にかかっている表札を見て、私は思わず「え」と声を上げた。
「ほかの場所って……ここ?」
「だいじょうぶだ。今日はもう誰も来ない」
 やけに自信満々に言うと、クレフは私の手を離し、ポケットから鍵を取り出して扉を開けた。中へ、とクレフが急かしたそこは、チェス部の部室だった。
 初めて入るチェス部の部室は、当たり前だけれどフェンシング部の部室とは全然違っていた。レイピアの代わりにチェスボードが並び、汗の匂いの代わりに知的な香りで満たされている。決して広くない部屋には、数えきれないほどのトロフィーや賞状が飾られていた。物珍しくてとりとめもなく眺めていると、クレフがパイプ椅子を引き出して勧めてくれた。
「ありがと……」
 荷物を置いてそこに座ると、クレフもまた別のパイプ椅子を引き出して、私と向かい合うように座った。その距離の近さに、喉が渇く。クレフは広げた膝のあいだに私を挟みこむようにして座ると、膝の上でそろえていた私の両手を取った。一度は落ち着きかけていた鼓動が瞬く間に再び押し上げられ、もう心臓が爆発しそうだった。

「すまなかった」
 クレフは開口一番、こちらの胸が痛くなるほど悲痛な声色でそう言った。
「あのようなことを、するつもりでは」
 それがあのキスのことを指しているのだとわかると、私の中から熱がすうっと引いていった。あのキスは、やっぱり「そういうこと」だったのだ。
「いいの」と私はかぶりを振った。「わかってるわ。あなたは私のことを、そういう風には見てないものね。でも、いいの。それがわかっていても、私は――」
「そうではない」
 クレフが突然鋭く私を遮った。同時に彼は、私の手を強く握った。
「そうではない。私はおまえが好きだ。ずっと、好きだった」
 私は茫然と絶句した。クレフの瞳が真っすぐに私を射抜く。その輝きの中に咄嗟に「嘘」を探そうとしたけれど、かけらさえも見つけることはできなかった。
「告げずに別れるつもりだった。私は、日本(ここ)にはずっとはいられない。たとえ短いあいだであっても、おまえには、私に縛られて生きてほしくなかった。それなのに、勢いに任せてついあんなことを……」
 すまなかった、とクレフはもう一度言った。

 これは夢かもしれない、と私は思った。クレフが口にしたことは、まさに私の気持ちそのものだった。「私に縛られて生きてほしくない」――私もクレフに対してそう思っていた。だからこれまで、ずっと自分の気持ちを塞いできたのだ。
 およそ現実のこととは思えなかった。だって、もしもクレフがでまかせを言っているのでないなら、私たちは――両想いだったということだ。
 胸のつかえがすっと下りていくのを感じた。これまでふたりを隔てていたものは、いったいなんだったのだろう。定められた別れや遠く離れることになる距離、あれほど重たいと思っていたはずなのに、今の私は、どちらも感じていなかった。クレフが目の前にいて、こうして私の手を握ってくれている。それが現実で、それがすべてだった。たとえ数日後に彼がここからいなくなるのだとしても、それは私のクレフを想う気持ちまでをも消してしまうものではないだろう。

「私の気持ちは変わらない」
 クレフは吹っ切るように顔を上げると、少し緊張を孕んだ面持ちで言った。
「おまえの想いは、嬉しかった。だが、たとえ逆立ちをしても、私があさって日本を発つという事実を変えることはできない。だから、友人としてこのまま別れるのが一番いいと今でも思っている。先ほども言ったように、おまえには、私に縛られて生きてほしくは――」
 私はクレフの手を解いた。けれどそれは、彼から離れるためではなく、彼の胸に飛び込むためだった。つかんだ肩は思った以上に華奢で、それなのに幅は私のそれよりもずっと広くて、クレフも男の人だったんだと、そんなことを考えていた。
「もう、無理よ」と私は言った。「友達になんて戻れない。そんなことするくらいなら、今ここで振られた方がましよ」
 クレフが私のことを考えて「友達として別れよう」と言ってくれていることくらい、わかっている。ずっと意地悪な人だとばかり思っていたけれど、本当は誰よりも優しい人だったのかもしれない。思えばクレフは、いつも私のことを思って行動してくれていた気がする。時に辛辣なことを言うのも、それを辛辣だと感じたのは、彼の言葉がいつだって的を射たものだったからだ。
 もうこれ以上、好きなのに好きじゃないふりをするのは無理だった。どうせ忘れることなんてできないのだから、もしもここで終わってしまうというのなら、いっそのこと、一生記憶に残るようなひどい振り方をしてほしい。

 そっと肩をつかまれて、引き剥がされる。濡れた頬に張りついた髪をクレフの指が丁寧に解き、耳にかけた。
「あと二日だ」とクレフは言った。「あと二日しか、一緒にはいられない。次はいつ会えるかわからないんだぞ。それでもいいのか」
 考えるまでもなかった。私はこくりとうなずいた。
「好きになった人が、たまたま地球の反対側にいる人だった。それだけのことよ」
 クレフは一瞬虚を突かれたように目を丸くした。けれどすぐに破顔し、
「そうだな」
 と肯った。
 このまま時が止まればいいのにと、心の中で密かに願った。重なった二人の影を、夕陽がいつまでも照らしていた。

***

 家族旅行などで何度も訪れたことのある羽田空港だけれど、誰かの見送りで来るというのはこれが初めてのことだった。夏休み中ということもあってか、空港はたくさんの人でごったがえしていた。ようやく見つけた空席に、クレフと並んで座る。大きなスーツケースを預けてしまうと、クレフはボストンバッグ一個という身軽さを手に入れていた。そのバッグを床に置き、クレフはふう、と息をついた。
「疲れた?」
「ああ、少しな」
「だからうちには来なくていいって言ったのに。あの時間があったら、もう少し余裕を持って準備ができたはずでしょう」
「帰る前にもう一番打ち合う約束だったからな。ほかでもない、おまえの父君との約束だ、反故にできるはずもないだろう」

「明日、家に行ってもいいか」。終業式の帰り道、クレフは突然そう訊ねてきた。びっくりして理由を問うと、イギリスへ帰る前にもう一度チェスをしようとパパと約束していて、その約束を果たしたいのだと言った。当然私は断った。パパがチェスを一番でやめるはずがないと思ったし、それに何より、出発を翌日に控えた中でクレフにそんな余裕があるはずはなかったからだ。それでもクレフは頑として譲らなかった。仕方なく、私はパパに相談してみるということにして答えを保留にした。パパにはそれとなく、空気を読んで断ってくれるよう誘導してみたのだけれど、果たしてまったく無意味だった。断るどころか二つ返事で了承し、当日の朝は誰よりも早く起きて早速居間をチェスの舞台へと改装し出す始末だった。
 私の不安は見事に的中し、一番打ち、二番打ってもパパはクレフを解放しなかった。お昼過ぎにやってきたクレフは、結局三番も付き合わされて夕食まで私たちと一緒に食べていった。パパは夕食の後ももう一番やりたがったけれど、そればかりはついにママの雷を食らって自重した。さすがに悪いと思ったのか、パパは帰りにクレフを車で送ってくれた。それでもクレフを彼の暮らす寮に送り届けられたのは夜8時過ぎのことで、翌朝6時には家を出なければならなかったはずのクレフは、おそらく一睡もしないで今朝を迎えたのだろうと思う。

「しかし、よかったのか、何も告げずに来てしまって。私はもともと、挨拶も兼ねて訪ねるつもりだったのだぞ」
「いいのよ。パパは確かに、口では『恋をした方がいい』なんて言うけど、実際私に彼氏ができたなんて知ったら、発狂しちゃうに決まってるもの」
 クレフには、あくまでも「クラスメイト」として来てもらった。でもママにはあっさり見抜かれていて、夕食の仕度をしているときに、「やっぱりそういうことになったのね」と耳打ちされた。「パパには内緒にしておくわ」とも。ママには借りができてしまった。この借りはかなり大きい。さて、どうやって返していこう。
 ふと、私たちの前のベンチに座っていた家族連れが、意気揚々とした様子で立ち上がった。ロビーには、ロサンゼルス行きのフライトの準備が整った旨を伝えるアナウンスが流れている。おそらくそのフライトを利用するのだろう家族連れは、満面の笑みで足早に搭乗口へと向かっていった。
 こんなに混んでいるのに、空席になった私たちの前の席にはしばらくのあいだ誰も座らなかった。私たちは急に無言になった。これまでずっと、あえて意識しないようにしてきたけれど、いよいよもって別れが迫っていることを、私もクレフもさすがに意識しないわけにはいかなくなっていた。
 フライトの時間まで、もう少しで残り30分だ。クレフの搭乗する便がコールされるのも時間の問題だろう。コールされて、クレフがここを離れれば、もうそれで当面の別れになる。

 不意にクレフが私の手を掬い上げ、甲に唇を寄せた。顔を上げると視線がぶつかった。私たちは刹那見つめ合ったが、それでも何も言えなかった。一度つながりを持った手は、自然と指が絡まり、離れたがらなかった。肩が触れそうで触れ合わない。その絶妙な距離感が、二人の緊張の度合いを伝えていた。それ以上近づくことも、これ以上遠ざかることも、どちらも怖かった。
 そうしてまるで永遠とも思えるような時間が流れたように感じたけれど、実際はほんの数分のことだったのだろう。響き渡ったアナウンスが、私を現実へと引き戻した。
『お待たせいたしました。11時30分発、ヒースロー行きVS7808便にご搭乗のお客様、準備が整いましたので、搭乗口へお進みください』
 私もクレフも、すぐには反応しなかった。不自然な間が、必死で場を持たせようとする。けれどそれも長くは続かず、ひたひたと忍び寄る現実が、私たちのあいだの隙間を徐々に大きくさせていく。

 先に立ち上がったのはクレフだった。
「行かなければ」
 するりと手が離れていった。クレフは笑顔だった。彼が笑っているのに自分が泣くわけにもいかず、私も精いっぱいほほ笑んだ。遅れて立ち上がり、すでに歩き出していたクレフの後を追う。搭乗口のあたりには人垣ができていた。クレフがその一歩手前で立ち止まり、こちらを振り向いた。
「見送りありがとう」
 私は照れ隠しに肩を竦めた。
「忘れ物はない?」
「ああ」
 搭乗口に次から次へと人が吸い込まれていき、徐々に人垣が小さくなっていく。
「今度は私が、イギリスに行くわ」
「ああ」
「冬休み、空けておいてね」
「わかっている」
 再びクレフが乗る便への搭乗を促すアナウンスが流れる。クレフは一度背後を振り返った。搭乗口は、もう並ばなくても入れるほどに空いていた。
「それじゃあ」
「気をつけて」
 私は小さく手を振った。クレフはボストンバッグを担ぐと、私に背を向けてゆっくりと歩き出した。
 その途端、私の表情からは波が引くようにすっと笑顔が消えた。脱力した腕が体の脇に落ちる。搭乗口へと向かっていくクレフをただ見送ることしかできない自分が、ほかに選択肢などないのに、無力に思えて仕方がなかった。
 本当は、「行かないで」と言いたかった。どうしても行かなければならないのなら、あの背中に飛びついて自分も一緒にイギリスへ行ってしまいたかった。でも、どちらも到底かなう話ではなかった。

 クレフはきっと振り返らないだろうと思っていた。ところが、もうあと一歩で搭乗口というところでクレフは急に立ち止まった。
 私たちが一歩を踏み出したのは、たぶん、同時だった。
 一度は開いた距離がどんどん縮まっていく。伸ばした腕がクレフに触れる。そして私たちは、人目も憚らずキスをした。
「愛してる」
 クレフは私のうなじを抱き寄せ、一度だけ、確かにそう囁いた。すべてはまるで嵐の中の出来事のようだった。猛々しく求められたと思ったその直後にはすでにクレフの体は離れていて、目を開けると、彼はすでに私に背中を見せていた。そうして足早に私のもとを去ると、今度こそ搭乗口をくぐり、やがて通路の奥へと消えていった。そのあいだ、一度も振り返らなかった。

 堪えきれなくなった涙が、私の頬をゆっくりと伝った。引き裂かれるように胸が痛い。その痛みを抱くように、私は胸元でぎゅっと両手を握りしめた。
「会いに行くから。絶対」
 自分自身に言い聞かせるように言い、私は袖で涙を拭った。辛いけれど、哀しくはない。どんなに離れてもこの気持ちが変わることはないと、今なら信じられるから。
 クレフとの関係はここから始まるのだ。たとえ歩き出す先は別でも、いずれゴールは同じになると思いたい。そうしてみせるのだという強い決意を胸に、私は窓際へと歩み寄った。真っ青に澄み渡った空に、飛行機雲がいくつもの筋を描いている。そこにクレフを乗せた飛行機の筋が加わるまで、私はじっと空を見上げ続けていた。




『夢のあとさき』 海の日 完





かなりフライングで海の日です。
いろいろとやっつけ仕事感が否めません。
次は海ちゃんがクレフのところへ行くことになると思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました^^

2014.07.12 up


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