蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

蒼穹の果てに 70. 氷の微笑

長編 『蒼穹の果てに』

ひとつの世界の行く末よりも、ひとりの心の方に重きを置く。それが正しいかどうかは別にして、海はもう、そう思ってしまっている自分自身の心を偽れなかった。

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 なんとなく離すタイミングを逃してしまい、クレフの部屋を出てからも、海の手はクレフの手に包まれたままだった。もっとも、大きさからすれば海の手の方がクレフの手を包んでいると言うべきなのだろう。でも今は、どう見てもクレフの手が海の手を包んでいた。大きさの問題ではなく、気持ちの問題だった。
 普段のクレフはこちらが小走りにならなければ追いつけないほどのスピードで歩くのに、今日は海が遅いなと思うほどゆっくり歩いている。こちらに合わせてくれているのだということに、少し時間が経ってからようやく気づいた。そうすると、これまで数えきれないほど齎されてきたそういうさりげない優しさの数々が思い出され、たまらなくなった。

 クレフに大切にされていることくらい、自覚している。いや、ようやく自覚するようになった、と言うべきか。出逢ったときはつっけんどんな態度を取られて厭な人だと思ったけれど、実はあのときから、クレフはすでに海たちのことを心から大切にしてくれていた。海たちが必要以上に傷つくことがないよう、細心の注意を払った上で『魔法騎士』となるべく導いてくれた。伝説に隠された哀しい真実が明らかになった後は、彼自身は何も悪くないのに、まるですべての罪は自分にあるとでも言いたげな顔で海たちに向かって頭を下げた。ほかの国を巻き込んだ戦いが終結すると、二つの世界を行き来する生活を続ける海たちの大変さを慮ってくれた。そういう態度でいることがクレフの場合は当たり前すぎてなかなか気づけないけれど、クレフの行動は、逐一真心のこもった優しさに裏付けされたものばかりだ。

 クレフは今も、海たちの心に癒えることのない傷を負わせてしまったとの罪悪感に苦しみ続けている。でもそれはクレフのせいではないし、むしろ彼は、苦しめるどころか特に海のことは何度も救ってくれたのに、どれだけしつこくそう言ったって聞く耳を持たない。どうしてそういう肝心のことに限って耳を傾けてくれないのだろうと、いつもやきもきさせられる。
 クレフは海たちの幸せを何よりも一番に考えてくれている。それはとても嬉しいことだけれど、それ以上に切ないことでもあった。できればクレフには、自分の幸せを一番に考えていてほしい。心から笑ったクレフが見たかった。

 そう願う強い気持ちがある一方で、けれど海にはずるい部分もある。本当にクレフが自分の幸せを一番に考えてくれることを望むなら、今こうして彼と一緒にいることは矛盾する。死んだはずのエリーゼの出現や、『破壊神』がいつ目覚めてしまうともしれないという恐怖、そして刻一刻と迫るオートザム軍との激突――クレフの中にはただでさえ懸念材料が山のようにあるはずなのに、そこへ海が助けを求めてやって来てしまったことで、彼の懸念材料はまた増えた。海が相談を持ち掛けたことで、クレフが自分の幸せのことだけを考えていられたかもしれない時間を減らしてしまっているのだ。
 もう心配をかけたくないのに、クレフにはクレフ自身のことだけを考えていてほしいのに、むしろそれを妨げるようなことをしている。自分の弱さが情けなかった。これではクレフに頼ってほしいなどと思う資格はない。われ知らずため息がこぼれた。

「どうした」
 急にクレフが訊いてきたので、海は驚いて思わずぱっと立ち止まってしまった。
 反動でクレフの体が前のめりになる。振り返ったクレフが、丸く見開いた目を忙しなく瞬かせた。
「あ……ごめんなさい、突然立ち止まったりして」
 海が慌てて言うと、クレフは一呼吸置いてから「いや」とかぶりを振った。
「どうした、まだ何か気になることでもあるのか」
 そりゃあ、山のようにある。こんなことになって、ただでさえ気になっていたクレフの過去がますます気になるようになった。今セフィーロを中心に起きていることだって、不透明な点がいくつもある。オートザムの状況だって気がかりだ。けれど今海が本当に気を揉んでいるのはそういうことではなかった。海は「ううん」とかぶりを振り、クレフの手を少しだけ強く握り返した。
「なんか、あなたに申し訳なくて」
「申し訳ない? なぜ」
「だって」と言って、海はほろ苦く笑った。「あなたはほかにももっとたくさん考えなくちゃいけないことがあるのに、個人的な相談なんか持ちかけちゃったから」
 紅い陽射しが、瞠目したクレフの横顔をほんのりと照らす。真っ青な瞳もうっすらと赤みがかり、今のクレフの表情は、思わずどきりとするほど美しかった。

 一陣の風が吹き抜け、クレフの髪を掻き上げる。風が止むのを待たずに、クレフは突然破顔した。
「何を思い悩んでいるのかと思えば」
 クレフが肩を震わせて笑う。海はなんだか虚を突かれた気分だった。けれどあんまりクレフが笑うので、そのうちだんだんと恥ずかしくなってきた。
「そんなに笑わなくたっていいじゃない。私、ほんとに」
「わかっている」とクレフは海を遮った。「おまえは、私の心身を案じてそう考えてくれたのだな。ありがとう」
 咄嗟に言葉が出なかった。
 こんなに面と向かって、こんなにさらりと「ありがとう」という言葉をクレフの口から聞くなんて、一生のうちにあり得ることだとは思っていなかった。一瞬でぐんと顔の温度が上がったのを厭でも感じた。手に汗をかいているのを知られたくなくて、海はついにクレフから手を離した。
「私のことは、案ずるな」
 クレフが徐に言った。
「おまえたちより、何倍も長い時間を生きている。このようなことでへこたれたりはしない」
 これまで海は、クレフに「案ずるな」と言われたら、言葉どおりに受け取って安心することができていた。でも今はもう、そう思うことはできなかった。海は体の後ろで手を組み、黙ってクレフを斜めに見下ろした。ほほ笑みを刷いた彼の横顔に、嘘はなかった。

 クレフにはいつも笑っていてほしい。でもそれ以上に、もしも辛いことがあるのだったら辛いと言ってほしかった。クレフは、どんなに辛いことがあってもその「辛い」という感情を決して面に出さない。もちろんそんな人だからこそ、『導師』と呼ばれるほどに皆から絶大な信頼を集めるのだろう。それはわかる。でも、二人でいるときくらい、クレフにはクレフの心に正直にいてほしい。二人でいるときくらい、『導師』の肩書を外し、ありのままのクレフでいてほしい。
 そう思うようになったきっかけは、クレフがゼファーとエリーゼの話をしてくれたことだ。クレフはゼファーのこともエリーゼのことも、どちらもためらわずに「美しかった」と表現した。そしてそのとき、クレフは『導師』としての仮面を剥がし、心からの笑顔を浮かべていた。おそらく彼自身も気づかないままに。
 あのときの笑顔を、とまでは言わないけれど、辛いときにはせめて、周りの人間とその辛さを分かち合おうとしてほしい。けれどクレフはそんなことはしないから、「案ずるな」と言われても案じてしまう。クレフは優しすぎるから、全部ひとりで抱え込もうとする。そんなところが危なっかしくて、放っておけないのだ。

 夕陽が紅く染めているのは、海の顔だけではなかった。遠くに見える『精霊の森』も、揺れる海原も、すべてが紅く染まっている。真っ青な空に覆われたセフィーロも美しいけれど、こうして紅に染め上げられたセフィーロもまた、違った趣があって美しかった。
 一度は失われかけたこともある。エメロード姫が消滅したとき、この地は荒れ果て、空は厚い雲に覆われていた。そんな時代を知っているからこそ、あれから長い時間をかけて蘇ったこの景色を見て美しいと思えるし、これが尊いと思える。

 もしも――もしも海が最後の『アミュレット』の封印を解き、『破壊神』が目覚めることになったとしたら、クレフはきっと哀しむだろう。クレフは誰よりもセフィーロを愛している。愛しているものを失うのは辛い。せっかくここまで美しく蘇らせたのに、その地がまた滅びたりしたら、たとえ何らかの方法で命だけは助かったとしても、クレフはもう立ち直れないかもしれない。
 そんなことは絶対にだめだと思った。クレフを哀しませたくない。だから、『アミュレット』の封印は絶対に解いてはならない。
 突然心に浮かんだ強い『願い』に、われ知らず気圧された。『アミュレット』の封印は、私は絶対に解かない。どういうときに解けてしまうのかはわからないけれど、ただ、解かない。その気持ちは、自分でも驚くほど強かった。けれどその根底にあったのは、その結果として齎されるこの世界の滅亡を妨げたいというような大それた決意ではなく、ただクレフを哀しませたくないという単純な想いだった。

 ひとつの世界の行く末よりも、ひとりの心の方に重きを置く。それが正しいかどうかは別にして、海はもう、そう思ってしまっている自分自身の心を偽れなかった。たとえ誰にもわかってもらえなくても、この願いは変えられない。私は、クレフが哀しむとわかっていることは絶対にできない。
 そう考えると、どうしても心に浮かぶ人の姿があった。彼だって同じだったのではないか。彼だって、たったひとりの心を守りたかっただけだったのではないか。世界とそのひとの心とを天秤に掛けたとき、そのひとの心の方が重くなった、ただそれだけのことだったのではないだろうか。
 かきむしりたくなるような気持ちが胸に広がった。今の私は、あのときのザガートと一緒だ。今ならば、あのときのザガートの気持ちが当時よりもずっとよく理解できる。もしもあのとき、今と同じようにもっと深く彼の心を理解することができていたら、何かが少しでも変わっていただろうか。

「自分を責めてはならない」
 不意に飛び込んできた言葉で、海ははっとわれに返った。クレフは夕陽を真っすぐ見据えていた。その視線の鋭さにぞくりとした。遠く、深くまでを見抜く瞳だった。
「よいか、ウミ。今起きていることについて、自分を責めるな。おまえたちに罪はない。おまえたちはもう二年も前に、『魔法騎士』としての役割を終えた。現に、この世界の安定を確信した『創造主』は、魔神たちとともにこの次元を去った。『創造主』は、あのときのおまえたちの選択が正しいものだと知っていたのだ。おまえたちはこの世界をよりよい方向へと変えてくれた。間違ったことは何一つしていない。だからこれから先、たとえ何が起ころうとも、自らを責めることはするな」
「でも」
「私にだってわからないのだ。なぜ、今ごろになって『アミュレット』の封印が解かれたのか」
 ふう、とクレフはひとつ息を吐いた。
「おまえたちが『魔法騎士』として果たした役割は、立派だった。この世界が滅びなければならないいわれはないはずだ。おまえたちが罪の意識を感じる必要はない」
 それはそうかもしれない。でも『アミュレット』の封印は確かに解かれてしまった。誰が何と言おうとその事実が変わることはない。そうだとしたら、世界が滅亡するか否か、その究極の二択は今海たち三人の、もっと言えば、最後のアミュレットの封印を解くことになる海自身の手に託されているといっても過言ではない。そんな状態で罪の意識を感じるなと言われても、はっきり言って無理だった。
「でそれはそうかもしれないわ。だけど」
 反論しようとした、そのときだった。突然クレフが目の色を変えた。

 それは海が思わずびくっと肩を震わせてしまうほどの変化だった。なに、どうしたの?――そう訊いたつもりだった言葉は喉で掻き消えた。やにわにクレフが海の腕をつかみ、そのまま問答無用に自分の後ろへ引いたのだ。
「きゃっ――」
 バランスを崩した海が思わず彼の肩をつかもうとすると、まるで静電気が起きたように弾かれた。刹那、クレフの構えた杖が膨大な魔法力を放った。
『殻円防除!』
 決して大きくはない結界が海とクレフを包んだのは、クレフの言葉が完全に紡がれるよりも前のことだったように思った。けれどそんなはずはなく、おそらく思考が、目の前で起きていることについていけていなかったのだろう。卵色の光が爆ぜ、その直後、轟音が耳を劈いた。
 クレフの張った結界に、何かが激突したようだった。そのときの衝撃には、まるで猛烈なスピードで飛んでくる戦闘機同士が正面衝突したかのようなすさまじさがあった。ぶつかり合った力と力は摩擦を生じさせ、世界が歪んで見えた。遠くでメリメリと、木が悲鳴を上げる音がした。

 強い耳鳴りに、頭がおかしくなりそうだった。それは一瞬のことだったはずなのに、まるで永遠に終わらないほど長い時間だったように思えた。やがてようやくクレフの結界が消え、耳鳴りが鎮まり始めると、海は自分の心臓が口から飛び出しそうなほどの速さと強さで脈を打っていることに気がついた。
 クレフがカツンと音を立てて杖を床に叩きつけた。はっと顔を上げると、クレフのローブの裾が、まだ名残風に揺らめいていた。
「クレフ――」
『驚いたわ』
 海の言葉を、もっと透き通った女性の声が遮った。思わず息が止まった。その声には聞き覚えがあった。
『強くなったのね』
 恐る恐る、クレフの背中の後ろから顔を覗かせ、遠くを見やる。そこには一人の女性の姿があった。薄紅がかった銀髪が、まるでそこだけは時間の流れとは無縁であるかのように穏やかに揺れている。氷のような微笑を浮かべた彼女を、こんなときなのに美しいと思った。




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ほそぼそと、また連載再開してます。月一くらい目指せればと。

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篁かすみ

Author:篁かすみ
篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
寝ても覚めてもクレ海のことを考えています。

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