蒼穹楼

クレ海至上主義の管理人がおくる、妄想小説連載ブログ。

蒼穹の果てに 81. うたかた

長編 『蒼穹の果てに』

これは、海が夢だと思いたいだけで、本当は「夢ではない」。

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 最初に感じたのは微かな湿っぽい匂いだった。
 頬をなでる風は緩やかで、心地よい太陽の光が自分に降り注いでいるのが目を開けなくてもわかる。背中はまるで柔らかな毛布に包まれているかのようだった。
 そのままただ、自分を通りすぎるありとあらゆるものに身を任せたままでいてもよかった。でも、短くさえずった鳥の羽音が急かしているように聞こえて、海はゆっくりと瞼を上げた。
 真っ青なキャンバスに大きな刷毛で白い絵の具をそっと滑らせたような筋雲が浮かんだ空が、視界いっぱいに広がっている。雲は緩やかに流れていく。その流れを追うとはなしに追いながら、海は何度か瞬きをした。体の脇に手をついて起き上がるのに、そんなに力は要らなかった。

 海が寝そべっていたところは毛布ではなく、ただの草むらだった。それでも柔らかく心地よいと感じたのは、青々と茂る草が陽の光をたっぷりと浴びて暖かかったからかもしれない。
 どこまでも広がる草原、というわけではなかった。首をぐいともたげると、背後には大きな城がそびえていた。海がいる草むらは、その城の一部から突き出た庭のような部分であるようだった。庭といっても、そこだけでまたひとつ別の城を建てることができてしまいそうなほど広い。すなわち、城そのものがとても大きいのだ。そこまでを確認して、海はようやく立ち上がった。

 そこは小高い丘のようになっていた。城を背にして歩いていくと、やがてスカートの裾のようになだらかな土地が段をなし、そこに家々が点在しているのが見えた。そして、そのさらに先には見渡す限りの大海原が広がっていた。
 波が岸壁に打ちつけ、白いしぶきを上げる。時折巻き上がる風に潮が混ざり、鼻をかすめる。最初に感じたのはこの潮の匂いだったのだ。
 海原には果てが見えなかった。写真でしか見たことがないけれど、モンサンミッシェルはきっとこんなところなのだろうと思った。

 海はその小高い丘のようになっている庭の端まで歩き、ぎりぎりのところから身を乗り出した。そこに広がる海は見たこともないほど鮮やかだった。イルカやエンゼルフィッシュに似た魚が、真っ青な海に多種多様な色を添える。波が太陽の光を反射すると、それはさながら宝石のようだった。夢中になって眺めていたので、背後から突然人の声が聞こえてきたとき、海は文字どおり飛び上がらんばかりに驚いた。
「あまり身を乗り出すと落ちるぞ」
 海は悲鳴を上げると同時に手を滑らせ、本当に落ちかけた。
「――っと」
 間一髪のところで、誰かの手が海の腕をしっかりとつかむ。振り返った海は思わず息を呑んだ。海の腕をつかんでいたのは一人の女性だったが、彼女のその薄い水色の瞳が、まるで吸い込まれそうなほどに澄んでいたのだ。
 同じ女性なのに、見とれてしまう。海が瞬きも忘れて惚けていると、彼女はそのウェーブがかった漆黒の長い髪を風に遊ばせながら、ふっと柔らかくほほ笑んだ。
「言ったそばから」
 なぜか母親のことを思い出し、わけもなく泣きそうになった。

 女性は海の腕をもう一度ぐいと引くと、バランスを崩しても落ちないところまで引き上げてくれた。華奢な骨格からは想像もつかないほどの力があった。
「……ありがとう」と海は言った。
 女性が目を細めてまたほほ笑む。彼女はそっと海の腕から手を離し、視線も外した。
 海は、自分よりもやや背が高いその人の横顔を遠慮もなく眺めた。海よりは年上に見えるが、まだまだ若い。でも、さっき母親のことを思い出したように、その人が醸し出す気配は見た目とはあまりにも不釣り合いなほど老成しているように感じた。そして、手を伸ばせば簡単に触れられるほど近くにいるはずなのに、永遠に近づけないほど遠くにいるような気もした。

「ここは、どこ?」
 ずっと思っていた疑問が素直に口からこぼれた。目が覚めたときから、海はそこが現実の世界ではないことはわかっていた。
「夢の中、とか」
「……夢か」
 女性が、海の言葉を噛みしめるように反芻した。そして小さくうなずいた。
「そうだな。おまえにとっては、これは『夢』かもしれない。だが、私にとっては『現実』だ」
 それは話の核心をあえて避けるような言い回しだった。けれど不思議と違和感はなく、彼女がそう言うのならそうなのだろうと思えた。でも、彼女が次に口にした言葉には、さすがに驚かないわけにはいかなかった。
「『ここはどこか』というおまえの問いに直接答えるとするなら、ここは、『セフィーロ』だ」
「――え?」
 女性が、瞠目した海を振りかぶる。そして言った。
「ここは『セフィーロ』だ。ただし、おまえが知っている時代のセフィーロから何百年も遡ったころの」
 海は言葉を失った。

 改めて、眼下の景色に目を向けてみる。そこには変わらぬ美しい海原と海岸線、そして街並みが広がっている。
 ――ここは『セフィーロ』だ。
 ――ただし、おまえが知っている時代のセフィーロから何百年も遡ったころの。
 海はもう一度女性を見た。
「あなたはいったい誰?」
 私は質問してばかりだな、と思った。でも、女性は不快な顔ひとつすることはなかった。
「この世界の『柱』だ」と彼女は言った。「皆からは『命』と呼ばれている」

 散らばっていたジグソーパズルが出来上がっていく。それはせいぜい10ピース程度のパズルで、難しいことは何もなかった。でも、一つひとつのピースは想像もつかないような形をしていたし、何より出来上がった絵は一度も見たことがないような模様を描いている。でも、今はその絵を見たままに受け入れるしかなかった。海は一度深く息を吸い込み、そして吐いた。
「……私は、『過去のセフィーロ』に来たのね」
「そうだな」
 さも当然と言わんばかりに答えた命を、海はまじまじと見上げた。
「どうして、驚かないの?」
「知っていたからだ」
「知っていた?」
「ああ」と命はうなずいた。「正確には、『視た』と言うべきかな。私は『夢見』だからね」
「『夢見』?」
「未来を視る力を持つ者のことだよ」
 海は瞬いた。
「未来に起こることがわかるの?」
「ああ」
「すごいわ」
 それは純粋な思いから出た言葉だった。セフィーロはそもそも魔法の国だけれど、「未来に起こることがわかる」以上にすごいことはないのではないか。未来に何が起きるのかわかっていたら、あらかじめ対処することもできる。それは、どんなに強い攻撃魔法を会得するよりも説得力があることのように思われた。だから、こちらを見た命の瞳が哀しそうな色を宿したとき、海にはその理由がわからなかった。
 命がすぐにまた海から視線を外してしまったので、その哀しそうな色が見えたのは、ひょっとしたら見間違いかと思うほどほんの一瞬のことだった。でも、だからこそその刹那は海に強い印象を残し、とっさにかける言葉を見つけることができなかった。

「どうしても変えたい『未来』があってね」と、命は独り言のように言った。「そのために、私は『柱』になった」
「変えたい未来?」
 ああ、と命はうなずいた。
「『柱』はこの世界を意のままに操ることができる。だから、『柱』になれば未来を変えることもできるかもしれないと思ったのだ」
「……それで、その『未来』は変えることができたの?」
 命は目を細めて笑うだけだった。その横顔は、海の質問を肯定しているようでもあり、否定しているようでもあった。
 そのまま、二人のあいだに沈黙が横たわった。
 『柱』とは、誰よりも強い『心』の持ち主がなり得るもの。命が『柱』であるのなら、彼女の「未来を変えたい」という願いはそれだけ強いものだったということだ。そうまでして変えたいと願うほどの『未来』が、美しいものであるはずはない。美しい未来ならば変える必要などないからだ。

 そこまで思いを馳せたところで、海は考えるのを止めた。それ以上は、考えることを心が拒絶していた。
「おまえは、逃げてきたのだな」
 だから、だしぬけに命が口にした言葉は、海の心を容赦なく抉った。
 胸が締めつけられるように痛む。先ほど命は「これはおまえにとっては夢だ」と言ったが、その痛みは到底夢とは思えないほどにリアルだった。当たり前だ、と海は思う。これは、海が夢だと思いたいだけで、本当は「夢ではない」。これは、海が「逃げてきた」先にある「現実」だ。

 海は、命がそうしているように、眼下の海原へと視線を投げた。泣けたらいいのにと思うほど美しかった。
「『人殺し』って、言われたわ」
 その人が笑っていたことを、思い出す。
「『そんなことない』って、言えなかったの。確かに私は、過去に人を殺しているし、それに――それに何より、私、あのとき――」
 殺そうとしていた。その人を――エリーゼを。
 ザガートとエメロード姫を手にかけたとき、たとえそれが望まれたことであったとしても、もう二度と誰かを殺すなんてごめんだと思った。でも、エリーゼを前にしたあのとき、海は迷うことなく彼女に向かって魔法を放とうとした。彼女を殺そうとしている自分に、なんの違和感も抱いていなかった。そんな自分が恐ろしかった。怒りにわれを忘れて、簡単に誰かを殺してしまいそうな自分が。

「……本当は、もう、戦いたくないの」
 零れ落ちる言葉を止めるものは何もなかった。
「ものすごく幸せじゃなくても、平凡で穏やかな暮らしがあればそれでいい。美しい世界を手に入れるためには誰かを傷つけなくちゃいけないなら、美しい世界なんてなくていいわ」
 そのとき不意に、遠くで笑い声が響いたような気がした。微かに声のした方を見やると、海辺で遊ぶ子どもたちの姿が見えた。
 その子どもたちの姿を、少し遠くから家族が眺めている。そしてそのさらに遠くの居住区では、潮風に洗濯物を干す別の人の姿が見える。
 この世界にいてもいい、とそのとき海は思った。ここから「何百年もあと」のセフィーロでは、今ごろ、血みどろの戦いに向けた準備が進められていることだろう。もしもオートザムがセフィーロへ攻め入ってきたら、どれほどの血が流れるかわからない。もう、誰のことも憎みたくない。そう思うのに、もしセフィーロに誰かや何かが攻め入ってきたら、きっと戦わずにはいられない。

「おまえが戦いを放棄しても、誰もおまえを責めることはないだろう」
 まるで海の心を読んだかのように、命が静かに口を開いた。
「だが、おまえ一人が離脱したところで、戦が終わるわけではない。空いた穴はほかの人間が埋め、戦は続けられることになる」
 海は答えなかった。
 逃げることは卑怯者のすることだということくらい、言われなくてもわかっている。でも今は、「卑怯者」と後ろ指を差されることを屈辱だとも何とも思わなかった。その程度の仕打ちに耐えて戦いから離脱できるのなら、むしろ喜んで受け入れようとさえ思っていた。
「それでもなお、この世界に留まりたいというのなら、好きにすればいい」
 海はぎゅっと唇を閉ざし、沈黙を守り通した。それは彼女なりの意思表示だった。未来が視えている命なら、その意味をわかっているだろうとこのときは信じていた。

「こら、姫!」
 そのとき、突然背後から鋭い声が聞こえてきた。
 えっ、と言ったのか、海自身定かではない。でも、聞き覚えのある声であったように思った。振り返ったのは反射的な行動だった。
「何度言えばわかる。一人で城の外へ出てはならないと、あれほど」
「だって、お庭の花が枯れかけていたんだもの。誰も気がついていなかったから、水をあげようと思って」
「そのようなことは私に任せておけばいい」
「でも、導師さまは忙しいでしょう。手を煩わせたくなかったの」
「……こうしてあなたに想定外の行動を取られることが、何よりも私の手を煩わせるということを、あなたはどうしたらわかってくださるのだ? ……エメロード姫」
 叫びだしたいほどの衝動が、心の奥底から濁流となって湧き上がり、全身を駆け巡る。そこにいる少年と少女を、海はよく知っていた。大きな城を背に広い庭で向かい合うふたりの絵は信じられないほど儚く、そして惨酷なほど美しかった。




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2018.09.01    編集

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篁かすみ(たかむら・かすみ)と申します。
都内某所にひっそりと生息。
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